年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

過ちては則ち改むる

2013-11-16 | フォトエッセイ&短歌

 小泉元首相の「原発ゼロ」発言は「想定外」の珍事で政界を揺るがしている。
 安倍総理の政治の師匠が小泉元首相であることは自他共に認めているところで、その政治手法は直伝である。原発推進・再稼働を進める弟子の安倍総理にとっては誠に迷惑な発言となった。政権は「原発の依存度を縮小していく政策」と小泉元首相の「脱原発の構想」は大局的には一致していると丸め込もうとしていた。
 ところが12日の日本記者クラブの講演で「原発ゼロで、自然を資源にした国家」をつくる政治決断をするべきだ、と安倍総理に向かって、小泉節を炸裂させ、自民党執行部の丸め込みを一蹴してしまったのだ。世論の根強い「脱原発」の高まりが背景にあることは間違い無いが、メディアは「小泉劇場」の真意を計りかねている。
 しかし、彼のゼロ発言の根拠は極めてシンプルで解りやすくもっともなのである。トイレのないホテルが存在出来ないのと同じように、「ゴミの処理が出来ないし、棄てる所もなし、リサイクルが出来ない」以上、ゴミを出す施設を閉鎖するしかないというのである。プルトニウムの半減期は2万4000年である。
 原子炉から出る高レベル放射性廃棄物処分場は結局のところ地中に埋めるしか無いのである。彼はフィンランドにある核廃棄物の最終処分場「オンカロ」(フィンランド語で「洞窟」「隠し場所」)を財界のトップと見学に行っている。その馬鹿げた規模の施設に10万年にわたって封じ込めておくという処理方法に疑問を持ったというから、それなりの根拠をもっての発言であろう。
 現職の頃は「原発推進」ではなかった?記者質問に『過ちては則ち改むるに憚ること勿れ』と切り返した。(過則勿憚改=孔子が弟子達に「君子」の心得を教えた言葉とされる)大意は~自分が誤っていると悟ったなら、躊躇なく、すぐ改めるべきだ。体面や人のおもわくを考えて、改めるのを恐れてはいけない。
 福島第一原発の放射能処理が出来ず、避難している被災者の帰村や暮らしの目途さえ立っていない現実をみれば、原発再稼働はすべきではないし、原発ゼロの観点で電力問題を検討していかなければならい。

各地で紅葉が始まる。放射能汚染のない秋を迎えたい。

   

  雨降れば汚染水あふれ風吹けばセシウムが飛ぶ陸奥の秋
  
  五輪呼ぶプレゼン安倍の虚騒ぎ制御不能の原発の危機に

  十三夜取ったり掛けたり肌掛けを真夏日襲う読書週間

  山萩の零れるにぎわい秋暮れる足柄山の紅葉前線

  谷戸田では田仕事仕舞う秋されに藁焼く煙安らぎ漂う

  

 


線路は続かず

2013-10-03 | フォトエッセイ&短歌

 大船渡線は1918(大正7)年に開通した一ノ関-- 大船渡間を走る国鉄であった。一ノ関 -- 気仙沼間は北上山地の最南端を越える山間地であり、気仙沼--大船渡間は太平洋に臨む三陸海岸の沿岸部を走る。
 大船渡線は「鍋弦線」と揶揄され、「我田引鉄」の代表例として話題になった。立憲政友会の佐藤良平は衆議選に当選すると計画路線に横槍を入れ変更をせまった。スッタモンダの揚げ句完成した路線を空から眺めると北斗七星の柄杓(鍋底)のような形になってしまった。「オラが村の代議士先生」による「我田引鉄」、さすが小澤一郎先生のふる里、岩手県の昔話しである。
 そんな話しが可愛らしく思われる大災難がこの大船渡線を襲った。東北地方太平洋沖地震と未曾有の大津波である。線路は流失し、鉄路は飴のようにひん曲がり、彼方に押し流され、壊滅したのである。地震の被害だけで済んだ「一ノ関 -- 気仙沼」間は1ヶ月後には運転を再開出来たが、津波で流された沿岸部(気仙沼--大船渡)の鹿折唐桑駅(ししおりからくわえき)から大船渡市の盛駅(さかりえき)間は復旧の目途はたっていない。
 宮城県石巻から気仙沼駅を結ぶ、気仙沼線でも大船渡線を凌ぐ大被害を受けた。沿岸部を走行する柳津駅-- 気仙沼駅間は津波で線路も駅舎も築堤や盛り土とともに流され痕跡すら残っていない区間もある。柳津駅 -- 気仙沼駅間はBRT(バス高速輸送システム)で運行を開始しているが、復旧復興の計画は白紙状態だ。
 南三陸のリアス式海岸の沿岸を結ぶ東浜街道(45号線)は白砂青松と断崖絶壁を繰り返す絶景の海岸美を誇る。がそれは津波という恐ろしい災害を裡に抱えてのロケーションであることを東日本大震災で思い知る事になった。当時の映像を見ると東浜街道は瓦礫ガレキ街道でこの世のものとは思えない魔界となった。
 その東浜街道にからむように惨状を留める気仙沼線が走っていた。津波から2年半、瓦礫は片付けられ、乾いたヘドロを隠すように夏草が猛暑をはね除けて青々と茂っている。
 南三陸町清水浜では盛り土も線路も流されたが、鉄筋のガードは流失を免れ東浜街道が潜ってい。振り返ってその惨状をカメラにおさめる。

流された気仙沼線。右手奥が清水浜駅(しずはま駅)のホーム。

 

  流されしホーム跡の土塊に残暑に燃える真っ赤なカンナ

  流失の曲がりし線路の黒錆に葛の花巻きて夏終わりゆく

  雑草に占有されて静ずまれる篠突く雨の駅舎の広場

  夏草が線路の跡に伸び盛り打ち棄てられし舟をも隠し

  ゴミとなる鉄路の軽きに踏み入れば彼方の土手に枕木と共に

  「線路は続く何処までも」口ずさむ跡形もなき廃路に立ちて

  文明の証しとなりし鉄道が塵芥となる科学とは如何に

 


夏草に埋もれし街

2013-09-25 | フォトエッセイ&短歌

 陸前高田は太平洋に面したリアス式海岸の半島に囲まれた小さな平野に広がった街である。津波を抱え込むような地形で甚大な津波被害を受けた。
 街の東側には気仙川が広田湾に流れ込み、上流から運ばれた土砂によって砂州が広がっていた。ここに津波・高潮・潮風を防ぐために松を植林したのは江戸時代の初めである。沿岸の漁師や住民はこの防潮林・砂防林の重要性を体験的に認識し350年に渡って絶え間なく手入れをしてきた。その結果、7万本近いアカマツ・クロマツの砂丘が造られ、白砂青松の高田の松原として完成され日本の渚百選にも選ばれた。
 このように高田の街は背後を奥深い岩手の山脈に囲まれ、前面に松原越しの太平洋の海原を垣間見る事が出来る穏やかな街となった。
 この高田の街を一瞬にして呑み込み押し流したのが、3月11日のマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震で発生した大津波である。松原が決壊する頃には気仙川が逆流し市街の津波の高さは15mに達していた。余震が落ち着き津波が引いてからも激しい地番沈下で海水は引く事は無くヘドロの街と化した。市役所も学校も線路も駅も壊滅した。腰まで沈むヘドロの中で遺体の捜索が続けられた。
 暮らしをどうするのか、復旧をどうするのか、工程表の作成も出来ないまま虚しく月日が経過していった。遅い春が行き、炎暑の陽射しにヘドロがひび割れる頃、惨劇を物語る瓦礫が累々を無残な姿を現した。まるで無差別空爆によって破壊された市街地のようだ。違うのはトレラー形を残して転がり、漁船が山裾に乗り上げ、空洞の鉄筋建物の屋上にトラックが載っているという生々しい手の付けようもない自然の猛威である。
 半年が経ったが、その奇妙な風景は変わる事は無かった。しかし、アリが巨大なセミの亡骸を引っ張ていつの間にかどこかに隠し納めるようにガレキもかたづけられた。津波から2年目の春が過ぎ夏が来た。ケロイドのような地肌は緑濃いアシに被われ、海風に鋭い葉先をゆらしている。遠くから眺めると穏やかな緑のオアシスにも見える。
 自然のエネルギーの爆発の前に、人間の営みが如何に小さいものであるかを知るのみである。

アシの緑に被われた高田の市街地松。左手奥が陸前高田駅と市役所のあった地点

  二年半ヘドロも涸れて夏草が緑陰つくりて爪痕を隠す

  葦揺れて惨劇隠し青々と陸前高田にひと夏の風

  壊滅の松原眺むる海原のリアスの湾は静けさ抱きて

  流されし陸前高田の松原に葦が茂りて夏過ぎ去し


奇跡の一本松

2013-09-24 | フォトエッセイ&短歌

 陸中海岸国立公園の景観のポイントとなっていた「高田の松原」は陸前高田市の象徴として白砂青松の美しさを楽しませてきた。約7万本と言われた黒松・赤松に囲まれた重量感と歴史を感じさせる遊歩道は四季それぞれに姿を変えて陸中海岸の自然を展開してくれた。
 仙台藩と沿岸住民によって海岸に松が植えられたのは江戸時代の初めであったが、その後も植林は続けられ岩手県を代表する強固な防潮林・砂防林に育ち、津波・高潮・潮風などから沿岸を守ってきた。記憶に新しいものだけでも1896年(明治29年)6月15日の明治三陸津波、1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸津波、1960年(昭和35年)5月24日のチリ地震津波でも高田の松原はドッシリと根を張り津波を退けてきた。
 しかし、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による10メートルを超える大津波に呑み込まれ、全ての松がなぎ倒され流されて壊滅した。防潮林を撃破した津波は防潮堤を蹴散らし道路を寸断し橋を押し流し、市街地を廃墟にした。陸前高田市の犠牲者率は大きく特に、浸水範囲内では100人中11人近くが死者行方不明者となった。
(死者1,555人 、行方不明者225人:H24年7月)
 津波がおさまり、凍てついた北風に雪が舞うヘドロと瓦礫が広がる惨状の中に一本の松が生き残っていたのだ。松林南端の一角に松が一本だけ流されずに毅然と立ちつくしていた。7万本の1本である。被災地の人々は「奇跡の一本松」として復旧復興のシンボルとして仰ぎ見る復興の吉兆とした。
 しかし、津波に耐えて奇跡的に残った一本松だったが、根が海水に犯され2ケ月後の5月に枯死が確認された。復興のシンボルとして親しまれてきた一本松、無念の思いを化学樹脂で複製し震災の記念とする事になった。

炭素繊維強化樹脂複合材料によって製作された「奇跡の一本松」

  

  テカテカと日を映しおる造りもの「奇跡の一本松」は芽吹くことなし

  レプリカの一本松にも祈り込め津波の惨劇風化させじと

  三陸の海眺めつつ街道行けば津波の標識が続く

  バス停も「奇跡の一本松」とあり土産物屋の屋台も並ぶ

  海鳴りに松風もなく松一本希望となるのか孤影侘びしく


蝉の脱け殻

2013-09-03 | フォトエッセイ&短歌

 酷暑の夏も峠を越したが、厳しい残暑はこれからである。緑陰の蝉時雨も心なしか弱まってきたか。朝夕のヒグラシやツクツクボウシの透き通った鳴き声にホッとする。特にヒグラシの声には哀愁があってちょっぴり寂しさを感じるものだ。残暑の向こうに秋の気配が感じられる。
 雑木林の葉裏に鋭い爪を立てた飴色に光る蝉の脱け殻のあるのを見付けた。古語では空蝉(うつせみ)と優雅な名で呼ばれている。林が生活の中にあった子供の頃、セミの羽化をよく目にしたものである。夕方、地上に顔を出した幼虫はゆっくり樹に登っり、足場を固めるように爪を立てる。辺りが暗くなると、背が割れて白い成虫が顔を出す。
 その後は体を痙攣させて、力を振り絞って上体を殻から出し、最後はスルリと逆さ吊り状態になって脱皮は終わる。早くも翌朝には鳴きなじめるという。悪戯小僧たちも幼虫から成虫に脱皮するセミの誕生を厳かに見ていたものである。この感動的なセミが誕生する生命のエネルギーを幹や葉裏から支えているのが、針の先のような鋭い爪である。空蝉になった今も風雨に負ける事なく彫像のように在るのが印象的である。
 謎多き不思議な昆虫である。7年間も地中に生活しこの世に生を受けて腹が割けるほど鳴いのだが、それが最期である。1週間そこらの短い生涯はおわる。いったい何しに地上に出て来るのか。地上にひっくり返って蟻の餌食になっている死骸を見ると哀れを感じる。
 そんな風な一瞬の蝉の鳴き声を聴いていると、松尾芭蕉の『閑さや 岩に染み入る蝉の声』の句の深みが出て来る。
 (元)生物の教諭の感想は違っていた。種族保存のために地上の出て来る。生まれて直ぐに成人となって声を張り上げ鳴くのであるが、それは求婚の相手探し、今でいう「婚活」である。めでたく交接、産卵するともう地上での生活の意味がなくなって死ぬのだという。種族保存のために太く短く豪快に生きてオサラバ!するので、哀れというのとは違うのでは無いか、というのある。

残暑の中に飴色の光沢を光らせるセミの脱け殻

  幼虫は体ふるわせ羽化すれば脱け殻残し戻ることなし

  緑濃き千鳥ヶ淵の蝉時雨意味あるかの如くただひたすらに

  暑かった 残暑の夕刻一陣の風にのりたるヒグラシの調べ

  軒下の西日の影も長引きてツクツクホウシの鳴きも破調か

  雨風に爪鋭くして落下せず空蝉は知る命の神秘を

  外苑の影長くあり風流れ日暮れの蜩声落とし鳴く

 


地熱発電

2013-08-26 | フォトエッセイ&短歌

 原発事故の収束宣言が出されてから1年が経つが、事態は悪化の一途である。原子炉の危機的状況は不明で避難している元住民の帰村の目途は全くたっていない。冷却汚染水の処理が出来ず海に流失していた事も判明した。それでも原発再稼働は政府の方針として強引に進められている。
 あれこれの理屈を並べても「原発は原爆」で稼働はするべきではないし、廃棄するしかないのである。原発廃止、脱原発を基本国策として叡智を結集すれば不可能ではない。電源を自然再生エネルギーに転換する国家プロジェクトを立ち上げて電力を確保していくのである。
 太陽光・風力などは風景としても知られて来たが地熱発電も火山国日本の魅力的な電源エネルギーである。仕組みは簡単で地下から噴き出す熱水と蒸気でタービン発電機を回転させ電気を発生させるというものある。いわば火力発電のボイラーの役目を地熱(地熱貯留層)が果たしている。
 まあ、ここまでは素人にも理解出来るが、地熱発電が環境に特段の優位性を持っているのは何かとなると分からなくなる。実は復水器という装置があってタービンを回し終わった蒸気を水に戻し還元井(かんげいせい)を通して地下に戻すのある。つまり地熱は仕事を終わると地下に帰り、再び熱水となって蒸気を噴出するという半永久的に得られる電源なのである。
 鬼首地熱発電所を見に行ってが、工事中とかで中には入れなかった。守衛のおじさんがスミマセンネと言ってパンフを渡しに来てくれた。パンフレットには「地熱エネルギーの有効活用は第4の発電方式として今注目を集めている。現在、全国に200ヶ所以上の地熱地帯があり、およそ2000万キロワットの資源が存在すると」
 鬼首地熱発電所は宮城県の鳴子温泉のさらに奥まった深山の中にある。深い緑に中に蒸気が白絹のように地下のエネルギーを噴出させていた。

仕事を終え蒸気を地下に戻すための復水器を望む

 

  山深き峠の雨滴は佇みぬ奥羽山脈分水嶺なり

  緑濃き樹上揺るがす真っ白の蒸気噴きあぐ地熱発電所

  夏深し緑も重し峠越え地図なき道も日本海に至る

  地獄谷入れば蝉の音消え絶えて硫黄の匂い炎暑に籠もりて

  原発を圧倒するのか噴煙はマグマの怒りか地底の幸か

  鬼首地熱発電所は深山なりマグマの蒸気は地球の呼吸か


丑の日

2013-08-02 | フォトエッセイ&短歌

 8月に入り猛暑一段と厳しさを増し、熱中症による死者が出るニュースが後を絶たない。3日(土)は土用の丑の日(二の丑)で滋養強壮の栄養価が高いウナギを食べて夏バテ解消をするか!と思うがウナギが激減し庶民の口には入らなくなった。
 この30年間で河川のウナギ漁獲量が90%も減少したというから限りなくゼロである。ところが、ビニールハウスでウナギの養殖に成功して事なきを得て来たが、今度は養殖用のシラスウナギが獲り過ぎによっていなくなってしまったのだ。学者先生は原因が不明だと言うが、要するに獲り過ぎたのである。鉱物資源と同様に水産資源も乱獲すれば枯渇するのだ。
 河川の自然のウナギを食い尽くし、養殖ウナギを食い尽くすなど、ニホンウナギ(日本鰻)を絶滅に追い込んでしまった。今度はアメリカウナギ・ヨーロッパウナギ、果ては東南アジアのウナギモドオキにまで手を伸ばし始めている。世界のウナギを食い尽くすという恐るべき魂胆である。                                              
 ニホンウナギをレッドリスト(絶滅危惧種)に指定して保護していく必要性のあることは20年も前に指摘されていたにもかかわらず一向に対策を講じなかった。ウナギ漁やウナギ食の文化を持った日本がその先頭に立たなければならなかった。
 日本人はウナギとの古い付き合いの歴史を持っている。1万年も前の縄文人はウナギを食っていた。貝塚から夥しいウナギの骨が出土している。それから現在まで鰻は日本の食文化の王道を歩いてきた。
 私は鶴見川の上流の田舎育ちで、文字通り天然の鰻を捕って食った世代である。夕方、ミミズをエサにした1m位の竿を川の土手に10本くらい挿しておくのである。早朝、竿を上げに行くと3日に一度くらいはウナギが掛かっている。爺さんが頭にクギをトンと打ち込み捌いて炭火で焼く。夏休みの楽しみの風景であった。鰻が川から姿を消してしまうなど誰が想像しただろうか。
 どうも、土用の丑の日に大量にウナギを食う食文化が一般化したのは江戸時代ではなく最近のビニールハウス・ウナギが出始めてからだという。本当に日本鰻が美味いのは9月、10月の落鰻が旬味だというのだが、やはり“鰻は土用の丑の日”に限るか!

鰻の香りが伝わって来るようだ。

  三寸の隙間つくりて芳ばしい薫りと煙り路地に流して

  昼下がり蒲焼き「いかが」と紺暖簾炎暑にゆらりウナギの如く

  丑の日に梅干す母の丸い背を蒲焼きの香りに淡く思いいる

  濡れ縁に広げた梅の強き香に染まりし母の土用の仕事

  油照り駆け込みビールの喉越しに苦みも引き立つゴーヤーチャンプルー


大 暑

2013-07-30 | フォトエッセイ&短歌

 酷暑が続く今日この頃。七十二候の大暑(たいしょ)だそうで、如何にも暑いぞ!という感じだ。1年間を七十二等分して気候の特徴を表現する一種の自然暦である。因みに大暑・立秋・処暑・白露・秋分…と続いていく。俳句を楽しむ、読者や俳人には必携の知識である。
 最近『日本の七十二候を楽しむ』という本が出版され売れ行き好調とかで私も手に取った。帯には「四季のある国に生まれた喜びを味わう。自然によりそう、昔ながらの生活を大切にしなおすことの中に、人が自然と結びつき、生き生きと暮らせる知恵が宿っている」とある。宜なるかな。
 大暑は7月22日頃から8月6日頃までを指し(初候=桐始めて花を結ぶ)(次候=土潤いて蒸し暑し)(末候=大雨時々降る)と更に3候に等分される。緑もないマンションに暮らす今どきの都会人にとっては体感する事はないというか、特段の感慨も想像力も湧かないかもしれないが、昔ながらの自然の中で育った者には暮らしに関わる遠い遠~い思い出も甦ってくるのである。
 例えば、(桐始めて花を結ぶ)とあるが、桐の花は余り見ることがなくなった。薄紫色の筒形を重ねたような花を鈴なりに咲かせるのである。葉が出る前に咲くので遠くからでも覗う事が出来るのだが、なんとも淡い紫なのでく目立つ事はない。桐箪笥、桐下駄といえば一級品である。とは云え、若者は駒下駄も知るまい。
 娘が生まれると屋敷の周りや畑の周囲に記念樹として桐を植える。桐一葉落ちて天下の秋を知る!代表的な落葉樹なので屋敷樹としても生活に溶け込んでいる木でもあった。そして娘が嫁ぐ時にこの桐材で箪笥を作って持たせるのである。大きな桐が聳えるようになると娘さんの嫁入りしたくが始まる事を村人達も知るのである。

薄い紫が猛暑の中でじっと動くことなく泰然としている

 

  花柚子に黄揚羽一閃弧を描き酷暑を裂きて鮮烈に去る

  昼下がり炎暑の中に固まりて老婆は独り諍いて動かず

  幾く星霜何処くで生きたか寄る辺無き酷暑仰ぎて老婆佇む

  鉄骨の暑熱を照らす斜陽なり梵鐘の音つつむいくばくの風

  軒下の山アジサイは裏返る壱椀の水に命つなげと


嘆きのトマト

2013-07-11 | フォトエッセイ&短歌

 第68代横綱:朝青龍は関取には珍しいサウスポーだった。八百長疑惑、仮病疑惑、脱税疑惑など話題の尽きない横綱で土俵を去ったのも相撲史上初となる横綱審議委員会の引退勧告によるものものだった。国技・横綱の品格という事が盛んに云われた。
 その急先鋒に立ったのは「朝青龍の天敵」とマスコミを賑わした女性唯一の横綱審議委員会・内館牧子(脚本家)である。朝青龍も内館牧子も強烈な個性の持ち主で近づくだけで閃光が飛び散ったのであろうか。しかし、こうも云っている。「私はプロのアスリートとして朝青龍は超が3つつくほど好き、150%好き」「師匠(高砂親方)がダラしなくビシィッとさせないから、私は鬼のように怒らなきゃならなかった」
 2010年1月に内館は横綱審議委員会を辞任、時を同じくして六本木騒動で朝青龍も横綱を引退し角界から退いた。最近、内館の新聞掲載の「季節を失った野菜」のエッセイを読で快哉を叫んだ。相撲の話しではない。
 近頃のトマトは完熟だとか、甘いとか、ジューシーだとか、本当のトマトは何処へ行ってしまったのか!トマトは尻に青味が残っているのをもいで頭から囓るのだ。私が父に隠れて畑で食べたトマトの味はなくなった…… 朱い部分の微かな甘さ、酸っぱい、苦い、えぐいと舌触り歯触りで食べ尽くすのである。こんな文脈だったかと思う。
 野菜の食感をこんな風に感じている人がいてくれたのか、と私にはうれしく懐かしかった。まだ電気冷蔵庫がなかった時代の夏休み、尻の青いトマトをもいで食後の果物にするために井戸の中に放り込んで置くのは子供達の仕事である。真夏の太陽の下で、青臭いトマト畑の中で、先ずは一つ隠れて囓るのである。朱い部分の甘さ、酸っぱい、苦い、えぐいと複雑微妙な野暮ったい舌触り…これがトマトなのである。
 トマトもキュウリもとうとう年間を通してスーパーマーケットに並べられるようになった。野菜や果物は通年売られ季節を問う事もなく地域を選ぶことも事もなくなったのだ。50万円の苺、メロン、リンゴが店頭に並ぶ。
 自動車を造るようにトマト製品が工場で生産されるのである。チャップリンは人間の尊厳を失い、機械の一部分となった労働者の悲劇を『モダン・タイムス』(Modern Times)で喜劇として描いた。チャップリンが問題にした『モダン・タイムス』の資本主義はいま深刻な事態に立ち至っている。
 『嘆きのトマト』脚本・演出:内館牧子 口上-雪国に送られて来たトマトが吹雪に直面し、ここは我々の来ると所ではない。我々は人間共に季節を忘れさせられている。故里に戻ろう!団結して人間共の横柄と戦おう。トマトの逆襲がはじまる。特別出演の朝青龍(ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ)の演技にも期待がかかる。モンゴル国ウランバートル市立劇場にて<劇場に問い合わせたところそのような興行はないという事だ>

トマトは天然の露地栽培にかぎる!


  

  露残るトマト畑に踏み入れば青き匂いが溌剌と立つ

  漿液が迸し出る爽やかに歯応えもある朝取りのとまと

  未だ青きトマトを護る傘となる夏日を受くる鋭き蔕(へた)は

  涼しげに青色残す大ぶりの薄くれないの蕃茄は重し      *蕃茄:ばんか=トマト

  青き実に薄紅の気配あり赤きトマトの影に隠れて

  道草のとまとドロボーその一つ湧き水のあるあぜ道を駈ける


ブルーベリー

2013-07-04 | フォトエッセイ&短歌

 7月に入りブルーベリーの収穫期となる。最近では「ブルーベリー狩り」の出来る農園が増えた。これはブルーベリーの品種改良と栽培の進化で、その場で摘み取って賞味出来る果実になったという果樹農園の成果の賜である。
 ちょっと酸っぱい系のジャムしか知らない人は自然の中で木になっているブルーベリーを見る事をお勧めしたい。中学校の同級生がブルーベリーの栽培を始めてようやく自慢できるようなブルーベリー園になったということで旧友達と出かけた。今年は2週間も早く収穫が始まったという。何故かと聞くと「ブルーベリーは去年の自然環境によって今年の果実の様子が決まる」ので昨年のデーターを分析しないと2週間早まった原因が分からないという。
 農業もデーターを基本したIT産業である。実は、もう十年も前の話であるが、彼はシクラメンのミニチュア化に成功、小さな鉢植えシクラメンを市場に出荷させた研究家である。近郊農業の時の人として小学校の教科書にも紹介された経歴の持ち主である。
 地域の近郊農業を推進しているリーダーの一人で人望もある。「自分の良いことはみんなにも良いことにならなければならない。自分のマイナスはみんなで背負わなければならない。これが自分の百姓をしている基本的な考えだ」とも茶飲み話しに語っていた。
 完熟の紫紺の大豆ほどのブルーベリーはジャムからは想像出来ないアバウトな甘味が広がる。麦刈りで大汗かいた子供の頃も話題に上がった。しっかり根付いた早苗の葉裏を波のようにして吹き抜ける梅雨晴れの風に吹かれながら野性味に浸るのも悪くはない。が、氷みずで20分位、冷やしてから口の中に5粒入れてほおばって食べるのが一番上手いブルーベリーの食べ方だという。勿論、皮を出す必要はない。
 「目の網膜に良い」アントシアニンが豊富に含まれて視力改善効果が謳われているのはご存知の通り。『眼鏡なしで更新した前回同様、今回も無事、自動車免許の更新が出来た!』『今まで通り、70歳を過ぎても読書が楽しい!こんなうれしい事はない!』小林製薬のCMフレーズである。

今、日本にはブルーベリーの品種は60種類もある。さてこれは?

  ブルーベリー「ツムかモグか」は微妙なり一粒コリッと指先にあり

  梅雨晴れの陽射しの影はくっきりと実ひとつ一つに刻印押して

  梅雨晴れのブルーベリーの野趣の味麦刈りもあったと頷きて笑む

  実潰せば深き紫紺が染み滲む太古に繋がるインディオまでも

  ブルーベリー軽く弾けておひさまの味も香りも紫の色

  トーストにブルーベリーのジャムぬれば香りフワリとカフェにも勝る