年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

夏至

2008-06-25 | フォトエッセイ&短歌
 過ぎる6月21日は夏至(げし)で「デンデン虫」の季節であるが、最近はめったにお目にかかれない。夏至は24節気でいう夏の真ん中あたりで、梅雨の真っ盛り。しとしと鬱陶しい長雨が続くが、昼間の時間が日一日と短くなっている。白堂翁の墨跡でシャキッと姿勢を正しましょうか。
      
   夏至       日本     中国
        初候  乃東枯る   鹿角解(鹿の角とれる)
        次候  菖蒲咲く    蜩始鳴(セミ鳴き始める
        末候  半夏生ず   半夏生

 『乃東枯る 菖蒲咲く 半夏生ず』は江戸時代の中頃の暦で使用されている。チョット解説が大変だが、閑な人はドウゾ。乃東枯る<ないとうかる=夏枯草:カゴソウの事、俗にナツカレクサが枯れる> 菖蒲咲く<あやめはなさく=アヤメの花が咲く> 半夏生ず<はんげしょうず=烏柄杓:カラスビシャクが生え始める>
 夏至の時節『カコソウの紫色の花が変化し、アヤメは開花し、下旬にはカラスビシャクの若緑がスクスクと育ち始める』とでもなるのか!カゴソウ・アヤメ・カラスビシャクともに薬草。漢方では欠かせない。
  
  <乃東:カゴソウ(夏枯草)>      <半夏:カラスビシャク(烏柄杓)>

 岩手・宮城内陸地震からすでに10日余りがたっている。災害の大きさは日々大きくなり、不明者の実態や被害の規模も明らかではない。
 更には、瞬間的な揺れは観測史上最大とか、把握外の「未知の断層」とか、逆断層型地震とか、地震そのものの科学的メカニズムの解明も出来ていない。地震予知の難しさを改めて思い知る。明日は我が身である。
 被災地の対策は遅々として進んでいない。行政の災害後の対応マニュアルの徹底化が必要である。梅雨の真っ盛り、豪雨に見舞われても当たり前である。あの被災地の村々に豪雨があったら2次、3次災害は必至で被害は更に拡大してしまうだろう。

<一休みの梅雨空。子供たちの賑わいが絶えた川原のグランドは鉄橋を映す>

六義園:吉祥

2008-06-19 | フォトエッセイ&短歌
 富士神社境内の「ご神木」のカヤノキの下半身は痛々しいヤケドをさらしている。黒く焦げた瀕死の世界からの奇跡の回復の様子がわかる。火災についての説明はないが、一説には1945年2月25日のB29による東京下町空襲によるものだと言う。
 そうだとすれば、すでに60年以上の年月が流れているが依然として傷は深い。傷跡を完全に覆い隠すまでに成長するのはこれからである。
 まだ、戦争の傷跡はいたるところに残っていて、忘却の彼方に押しやることを拒否しているようだ。

<黒々と傷痕を残している、戦火の凄まじさを訴える「ご神木」のカヤノキ>

 富士神社から本郷通りを600mくらい上ると「吉祥寺」の山門にぶつかる。下町とはいえ周囲を圧する<両袖潜戸付四脚門>で切妻造の屋根には見事な鬼瓦が俗界を見下ろしている。境内は広く、鳥居耀蔵、二宮尊徳、榎本武揚等の墓もある。経堂(きょうどう=図書収蔵庫)は山門とならび江戸時代の名残をとどめる指定文化財であり、隆盛時の寺院の雰囲気を忍ばせる。
 「吉祥寺」のルーツは。
 太田道灌は江戸城築城に際し和田倉に付近に吉祥寺を建立。その後、徳川家康の江戸城拡張工事のため神田駿河台に移転したが、明暦の大火で焼失。幕府はこれを機会に城下町の整備を行うために、吉祥寺を駒込村に移転させた。これが現在の「吉祥寺」である。

<山門は重厚な四脚門。参道には『八百屋お七』の比翼塚(ひよくづか)がある>

 「吉祥寺駅」は<井の頭線>のターミナルであり、<中央本線>の駅名でもある。立派な寺院があって、それが地名となり駅名になった……?。ところが武蔵野市吉祥寺には「吉祥寺」という寺はないのである。
 何故か!明暦の大火で江戸の再開発計画が進むなかで「吉祥寺」門前の浪人や農民にも立ち退きが命じられた。彼等は武蔵野の五日市街道沿いに移住し開拓を進めた。人々は、ふるさとである「吉祥寺」を偲んで「吉祥寺村」を称したが寺が存在している訳では無かった。
 また、「吉祥寺」は曹洞宗である。曹洞宗の学僧たちの修業所を栴檀林(せんだんりん)といい、学寮・寮舎を備え常時一千人余の学僧が修業していたという。この、栴檀林が現在の駒澤大学に発展していった。
   
<近所では「きっしょうじ」と呼ぶそうです。本堂前の狛犬はチョット変わり種>

六義園:富士

2008-06-14 | フォトエッセイ&短歌
 老中・柳沢吉保が将軍・綱吉のもとで政権を担当した時期、幕府の政治は大きく転換した。教科書的に言えば戦国の威風である「武断政治」から忠孝や礼節を尊重する「文治政治」への国政の転換である。
 『文武忠孝を励し 礼節を正すべき事』(武家諸法度の一部改正)で、刀(武力)から文(儒教)による政治方針の転換である。刀を振り回すなんぞワ、もってのほか!と松の廊下の刃傷事件(浅野内匠頭長矩)は即刻切腹。四十七士は義士に非ずと、暴徒として処罰される。
「生類憐み令」も慈悲の政治(文の政治)という権力の国政の転換の一つといえる。

<六義園(柳沢邸)の閑寂の木漏れ陽。綱吉は訪れては儒学を語ったという>

 六義園から約300mの所に俗に<駒込の富士>とよばれる富士神社がある。富士山を信仰・参拝する講(宗教グループ)で、神社の境内に小富士を築いて仙元大菩薩を祀る。商人・農民・職人など同業者の相互扶助的な色彩を持ち江戸を中心に発展するが、駒込富士はそのはしりと伝えられている。
 庶民が寄り合って得体の知れない神々を拝して宴会をしている様子に不穏な空気でも察したのか、幕府はしばしば禁止・解散を命じたが絶える事は無かった。宗教的な内容より日常生活のコミニュティの場という性格が強かったと考えられる。

<小山を築き、それを富士山に見なす。霊峰の雰囲気も巧に演出している>

 古川柳に 『駒込は一富士二鷹三茄子(いちふじ にたか さんなすび)』というのがある。<一富士>は駒込富士の富士さん、<二鷹>は近くの鷹狩りの鷹匠屋敷、<三茄子>は駒込の特産であるナスを指す。この付近は江戸八百八町の野菜の供給地と知られていた。近くには青物市場の遺跡もある。

<の組の講中が満願を期して建立したのであろうか。素朴な雑草が似合う>

六義園:吉保

2008-06-11 | フォトエッセイ&短歌
 6月は「水無月:みなづき」である。水も涸れ尽きるという意味ではなく、「水の月」で「田植えのために田に水を引く月」という農作業に関連しているという説が有力。その水無月は紫陽花(アジサイ)の季節で梅雨に濡れる花は七変化の色彩に染めあげられていく。
 駒込にある六義園の「あじさい山」のアジサイは未だ変化前で風采はなし。若葉の緑とサツキツツジのピンクが池の風景を圧倒していた。

<池をめぐる園路の散策が楽しめる、代表的な大名庭園の回遊式築山泉水>

 5代将軍:綱吉。何かと話題の多い犬公方とよばれる将軍である。60回に及ぶ「生類憐れみの令」で町民を震え上げさせた。赤穂浪士吉良邸討ち入り事件で四十七士に切腹を命じ町民の反感をかった。
 大火・地震・津波と度重なる災害で年号を改めたが、利根川が決壊し江戸は水浸し、だめ押しに富士山の大噴火で駿河から江戸まで降灰によって農作物は全滅と相成った。町民の不満や反感に晒されたのが、側用人:柳沢吉保である。『君側の大奸、侫奸邪智』と大変に評判悪い官房長官である。

<ひねもす池で悠然と戯れる亀と鯉。亀は万年、吉保の権勢を見て来たのか>

 上野国館林藩の江戸藩邸の小姓組頭(庭を散歩する時の将軍の草履取りレベルの任務)であった柳沢吉保が側用人として幕政を握り、甲府15万石の大々名にのし上がって行くのだから相当の大奸(だいかん=心底からの大悪人)ではあったのだろうか。
 やっと、六義園(りくぎえん)の話しになる。将軍:綱吉の厚い信任を得た柳沢吉保が1695(元禄8)年に中屋敷として譲り受けた地に7年の歳月をかけて財力と学識を傾注して築き上げた屋敷であったといわれる。

<わび茶室、宜春亭。小石川後楽園とともに江戸の二大庭園を称されている>

法務省・赤れんが

2008-06-04 | フォトエッセイ&短歌
 霞が関で最も「エライ」権威のある官庁は法務省である。別格に総務省があるが、各省庁を並べて書くときは法務省を筆頭に書くことになっている。桝添クンのいる厚生労働省なんていうのはズット下の方。何しろ、日本は法治国家で法秩序の維持を担う法務省の役割は極めて重い。
 犯罪の防止による治安の確保から、国民の戸籍・国籍の管理など国民のひとり一人に重大な影響をもつ法務行政を監督する訳でその方針は各方面に多大な影響を及ぼす。犯罪者を矯正するための刑務所、外国人の出入国に目を光らせる入国管理などの管理事務は分かり易い仕事の一つである。

<法務省の庁舎正門。赤れんが棟として親しまれている旧司法省の再建庁舎>

 ルーツは司法省で明治政府も大変だった。御一新のはずが江戸時代の年貢と変わらないと農民は一揆を起こし特権を奪われた士族は反乱を企てる。欧米列強の外交手腕に太刀打ち出来ず不平等条約に苦しむ。
 政府の近代化は急がれたが知識も技術もない。法曹界の近代化を急ぐ政府はフランス・ドイツから法典を学ぶと同時に司法省と大審院(戦後:法務省と最高裁判所)の建設を始めた。基本設計はお雇い外国人のドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンが行った。

<法務省の来年から始まる裁判員制度の準備。雨に濡れる裁判員ポスター>

 こうして司法省の庁舎(赤れんが棟)が、1895(明治28)年に竣工した。ドイツ・ネオバロック様式の建物で、レンガの華やいだ色彩を保たせながらも天皇制国家を体現するような重厚な趣を湛えている。その重厚堅牢な風貌は外観だけではなく建築工法にも用いれられ1923年の関東大震災でもほぼ無傷で乗り切ったが、東京大空襲で吹き飛ばされた。
 戦後、法務省本館として再建されることになる。1994年の改修工事では文化財としての観点から創建時の外観に戻され、国の重要文化財に指定された。以降、法務省旧本館として活用されている。

<中庭のツツジに映える赤レンガ棟。曇天にレンガの風合いが融け込んでいる>