年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

騎馬の古里-9

2007-07-27 | フォトエッセイ&短歌
 你好<ニハオ>東北紀行

  歴史の復習からしなければならない。『中国北東部からおこた高句麗(こうくり)は朝鮮半島北部に領土を広げ313年に中国の楽浪郡を滅ぼした。4世紀後半には更に南下を進め百済(くだら)・新羅(しらぎ)をも支配下においた』。この高句麗の国王の功績をたたえたのが吉林省集安に建立されている<好太王碑>である。
  碑文には… 391年以来,倭(わ:日本)が海峡を越えて来て、百済・新羅を打ち破って臣民とした。国境には倭軍があふれかえって城を破壊している。そこで好太王が自ら出陣し日本軍を征伐した<倭寇潰敗し、惨殺すること無数なり>…
まだ大和(ヤマト)朝廷が成立する前の話だし、王の顕彰碑で解釈は様々であるが、古代国家成立期の極東地域の緊張関係は読み取れる。
 また高句麗の騎馬軍団に苦戦したことも間違いなく、以降、馬や馬具や騎馬技術などがもたらされた。古墳の副葬品や埴輪がそれを物語っている。


  高句麗の好太王の山城=龍潭山(りゅうたんざん)公園から市内眺望
 思いもしなかった吉林省での古代日本史との対面であるが、やはり視点が違っている。教科書では高句麗は朝鮮国王とのニュアンスが強いが、ここでは明快に中国国王になっている。
 それはそれでナショナルな面倒な問題でもある。現在、中国には約200万の朝鮮族が住んでいるが、その内の120万が吉林省に集中している。1910年、朝鮮を日本が植民地にした時、土地を失った朝鮮農民が大挙して満州に移動してきたという歴史もある。
 いずれにせよ、好太王(広開土王)は将軍としても優れていたのだろう。朝鮮半島を押さえると内陸深く吉林にまで進出し拠点的な山城を築いている。山城の山頂は388mあり南天門と呼ばれる見張り台跡があり吉林市内が一望できる。
 國破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 何かこんな感じになるナ~

 
 右:龍潭「水牢」と怖ろしげな名称だが湧水池の事で水面には若緑の細波が揺れている。左:「旱牢」倉庫だが武器庫との説明があった。山頂に近くリスが遊んでいた。

電影 夢の果て-8

2007-07-22 | フォトエッセイ&短歌
 你好<ニハオ>東北紀行

 第一次世界大戦は「大正新時代の天佑」であると参戦した日本は戦争景気に燃え上がったが、終結と共に欧米の商品がアジア市場に再登場してきた。綿糸・生糸の相場は大暴落して戦後恐慌が始まり、企業の倒産・合理化・工場閉鎖が相次ぎ労働者は塗炭の苦しみに突き落とされた。
 日本労働総同盟などが結成され労働争議は3000件を越え戦前最高の高揚期を迎えた。労働組合、農民組合、無産政党、社会主義者の運動も活発に行われた。連合国の民主主義の提唱・ロシア革命や米騒動などを背景に1920年には最初のメーデーが上野公園で開催されている。
 このような国内外の政治的緊張感の漂う1923年9月、マグニチュード7.9の関東大震災が起こった。「社会主義者が朝鮮人を扇動して反乱を起こしている」「井戸に毒を投げ入れた」との流言の中で憲兵大尉:甘粕正彦らが無政府主義者の大杉栄・妻の伊藤野枝・甥の少年を東京憲兵隊本部で殺害した。甘粕は軍法会議にかけられ懲役10年の判決を受けた。治安維持法が成立するのはその2年後である。


 長春電影制片廠正面玄関:満映時代の遺物は一片もない。管理棟のみ。

 軍籍を剥奪された甘粕は3年で出所すると渡仏しそのまま満州へ渡り満州国建国に暗躍し民生部警務司長などを経て「満州は昼間は関東軍が、夜は甘粕が支配する」と言われるように絶大な権勢を誇った。
その彼が満映(株式会社満州映画協会)の理事長に就任するのが1939年である。満映は当時の政治上の必要性から生まれた「満州国」と「満鉄」の資本で成り立つ国策会社である。『建国の正当性』や『満州や中国の記録』や『日本軍(関東軍)の中国大陸における「聖戦」』などの映画を撮るなど関東軍の宣伝舞台であった。


 玄関の裏側:二階中央の部屋が甘粕正彦の服毒の部屋

 「日満親善」「王道楽土」「五族協和」を政治的に宣伝する映画だから、芸術性はもとより評価も良くない。歌う女優:李香蘭( 山口淑子)が登場してからは注目されるようになったという。『支那の夜』『蘇州夜曲』など満州の広大な大平原をバックにエキゾチックな李香蘭が日本青年とささやかな恋を語らう。流れるような美しい彼女の歌声… スクリーンに魅せつけられた内地の日本人は我も我もと満州に渡っていったという。
 しかし<日本の侵略と統治に抵抗する中国東北地方の人々に対する日本統治者の武力による鎮圧と思想宣撫を描いており、国策映画の代表作>と中国人関係者からは手厳しく論評されている。
 敗戦の混乱で極限を迎えた1945年8月20日、ソ連軍の長春占領の中で甘粕は青酸カリで服毒自殺をはかった。「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」辞世の句と伝えられるが定かではない。

サテ 元祖貝塚は!

2007-07-17 | フォトエッセイ&短歌
 『貝塚は人びとが食べた貝などのゴミ捨て場で、貝殻・人骨・獣の骨などの他に土器・石器・骨角器などの人工遺物も出土し、その時代の生活や自然環境を復元する資料となっている。日本の近代科学しての考古学はアメリカの動物学者E・S・モース博士の大森貝塚の発掘調査に始まる』と殆どの歴史の教科書に紹介されている一文である。
 
 1877年(明治10年)6月、蒸気船で横浜に上陸したエドワード・シルベスター・モースは汽車で横浜から東京に向かった。途中、大森停車場を発車してすぐの線路の切り通しの崖に貝殻が積み重なっているのを車窓から発見した。<大森貝塚>の発見である。東京大学理学部教授に任じられたモースは10月に発掘調査を実施し報告書を作成している。
 これは日本最初の科学的な方法にもとづいた調査で日本列島における石器時代の存在を立証するなど画期的な成果を上げた。そのために、<1877年の大森貝塚>をもって日本考古学の発祥の時と場所になっている。因みにモースは前世界を4区分に時代区分して各時代を説明している。(第一粗石世界)=打製石器時代、(第二磨石世界)=磨製石器時代、(第三銅世界)=青銅器時代、(第四鉄世界)=鉄器時代。恐るべき卓見である。
 1877年といえば新政府の土台は未だユラユラで西郷隆盛を中心に不平士族が大規模反乱を起こして西南戦争を戦っていた時である。

       
 土器を調べるモースの銅像。土器の表面にコードのマークがついてるぞ、報告書に(Cord-markedpottery)と記述する。それから10年、白井光太郎はこれを<縄紋土器>と訳す。縄文時代、縄文土器の名称の事始めである。モースは政府に招かれた「お雇い外国人」で約二年間だけ日本に滞在した。 

            
 
 発見から50年を記念して関係者の手によって<状況からここだ>によって「大森貝塚碑」↑記(品川区大井6丁目)が建立された。しかし、モースに師事し発掘を直接に行った佐々木忠次郎のコッチだ<証言>によって「大森貝墟碑」↓記(大田区山王1丁目)を建立した。
 すでに場所をめぐっては意見の違いがあって攻防激しいものがあったが、記念碑が2ヶ所に建ったのだから「元祖大森貝塚騒動」が再熱した。


 “Shell Mounds of Omori”(報告書)には貝塚の住所や地図が記載されていなかったのだ。[状況証拠か証言か]に一定の方向が出てきたのは1977年である。東京府が発掘地の地主に賠償金50円を払ったという記録が見つかったのだ。それは品川区大井6丁目あたりである。モースの<大森貝塚>は大森ではなく大井だったのだ…。しかしソコハマア、両方の碑とも「国指定史跡 大森貝塚」として国の史跡に指定されている。(文化財全国協:見学会にて)

偽満州国-7

2007-07-12 | フォトエッセイ&短歌
你好<ニハオ>東北紀行
 満州は「日本の生命線!」を確実化する戦略として『満蒙問題解決方策大綱』がある。第一段階で親日政権の樹立、第二段階で独立国家の樹立、第三段階で領有(日本に併合)と段階を踏んで植民地とするものであった。しかし、反日・抗日運動が激化し親日政権の誕生が難しくなると関東軍は「独立満蒙国家」建設を急いだ。
 清朝復活を夢想していたラストエンペラー:宣統帝溥儀(ふぎ)を担ぎ出して満州国の建国を宣言したのだ。1932年3月1日、王道楽土・五族協和をスローガンにした<日本人による中央独裁主義>の完全な傀儡(かいらい)の誕生である。首都・新京(現:長春)の300万人の都市計画が開始された。
 こんな話がある。満人の給与が低いという不満に<日本人は満人より能力も生活水準も高く、米を食わなければならない。満人は高梁を食べても暮らしていける。わざわざ日本から来ている日本人に少しでも余計に取って下さいというのが本当の親善というものだ。君らは満州の歴史を知っているのか。満州は日本人が血と引き替えにとったものだ。ロシア人から奪い返したものだ(駒井国務院長官)>


  偽満皇宮博物院の勤民楼<詔勅発布や外国使節との謁見が行われた>
 満州国でっち上げの張本人・関東軍司令部は中国共産党吉林省委員会、満州国の最高行政機関は吉林大学基礎医学院、満州国財政部は吉林大学大学病院、満州国最高検察庁は人民解放軍医院として当時の偉容を誇って使用されている建造物が少なくない。
 満州国皇帝:愛親覚羅溥儀の宮殿は「偽満皇宮博物院」として保存され、見学出来るようになっている。ちなみに(満州・満州国という語は使われていない。使う場合には必ず【偽】を頭につける)


 1945年8月9日、ソ連軍174万が満州に雪崩れ込んできた。翌9日関東軍は撤退を開始。<山田大将が溥儀に遷都を勧告しているところ> 
最終的に溥儀は日本への亡命を希望したが、一瞬遅れをとりソ連軍に拘束されハバロフスクの収容所に放り込まれた。満州国皇帝の淡い夢は13年間でついえてしまった。それは同時に日本ファシストの崩壊でもあった。

 
 当時のままの正門で中庭には「九.一八 忘れることなかれ」の碑がある。しかし、門外の脇ではオバサン達が終日タバコを吹かしながらカードを捲っている。中国の特段の風景ではない。
                         

伊賀越えの危機

2007-07-05 | フォトエッセイ&短歌
江戸散歩-1〔満州は肩が凝るから、楽しい話も入れて下さい。それじゃマア〕
 
 天正10年6月2日、日本史上最も有名なクーデターとされる<本能寺の変>で天下布武の夢を断ち切られた織田信長は紅蓮の炎の中で自刃した。本能寺の変があったその日、家康徳川は信長へ会いに行くために近臣30人の丸腰状態で堺にいた。次のターゲットは家康である。
 明智勢力下となった京・大坂の地で討たれるか、自決か、脱出か。イチかバチか、主要街道を捨て間道を抜けて領国・三河への脱出を決行する事になった。家康の生涯で最大の危機と著される<伊賀越えの危機>である。
 岡崎城までは210キロ。一行の前には家康の首を狙う、落ち武者狩り、山賊、一揆が待ちかまえている。あらゆる懐柔手段を労して決死の逃避行を進めながらやがて伊賀、甲賀の土豪・忍者・農民・商人などを味方につけることに成功する。そして3日間の悪戦苦闘の末に岡崎城下にたどり着く。 この時に情報探索・陽動謀略・機微迅速をものにして家康を守護したのが伊賀の忍者集団であった言われる。



 明智光秀を討った秀吉が天下統一を進めていくなか、危機を脱した家康も三河の片田舎で勢力を強大化し「小牧・長久手の戦い」では秀吉軍を圧倒し和睦に持ち込んだ。秀吉にとっては何とも目障りなタヌキ親爺だったのだろう。伊達政宗を服属させ天下統一を宣言した翌月に葦の生い茂る江戸に追いやってしまった。
 家康の本格的な城づくり・街づくりが始まるのは秀吉死後の1603年、征夷大将軍:江戸幕府開設後である。

  *幕府開設から4世紀 空に伸びる江戸の現在:東京オフイス街

 <伊賀越え>に従っていたメンバーに服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)の名が見える。伊賀者・半三保長の息子で彼の支配下の忍者達が家康の危機を救ったのだ。感服した家康は伊賀同心(忍者集団)として200名を召しだし、与力30騎とともに服部半蔵の支配下に組み入れた。
 以降、半蔵指揮官はこの忍者集団を率いて数々の戦闘を繰り広げ戦功を重ねて「鬼半蔵」と称され、8000石を領し徳川16将の一人に列せられたている。

     

 やがて幕府は安定期を迎えるが、江戸城近辺の警備を担当する事になる服部家(通称:半蔵)は西の丸の門外に伊賀同心の頭目として屋敷を与えられた。いつの頃からかその門が《半蔵門》と呼ばれることになる。将軍が非常時に脱出するための門だったともいわれる。現在でもなかなか警備は堅固で半蔵もスパイダーマンに変身しないと突破出来まい。

臨陣格殺-6

2007-07-01 | フォトエッセイ&短歌
你好<ニハオ>東北紀行
  1932年、第1次満蒙開拓団が満州(吉林省)に到着した年である。一行は小銃・機関銃・迫撃砲などの重装備の武装移民である。原野を開拓するなどというものではない。現地の農民達を武力で蹴散らし、タダ同然の値で買い上げるなど耕作地や放牧地など村ごと後には郡・県ごと奪っていった。当然、抵抗する農民もいる(土龍山事件:関東軍と数ヶ月戦うも破れ5千名が殺害される)わけで、「臨陣格殺」(反日と判断したらその場で殺害する権限)等の悪法を定めた。満州開拓の実態である。
 しかし、恐慌により困窮した悲惨な生活に苦しむ農民達は「王道楽土」の夢に踊って満州へと旅立った。例えば長野県大日向村では1/2にあたる350家族が家・墓までも処分して集団移住している。結局、27万人が満蒙開拓団として満州に渡った。「中国残留日本人孤児」問題の原点で未だ解決されずに見捨てられている。

 
 長春に向かう。曇天の空からは降りしきる雨滴を切り裂くようにT547号車は驀進する。走れども走れどもカーブする事はなく鉄路は一点に結ばれ消え去って行く。
 満州の地平線を臨む事は出来なかったが、延々と広がる田んぼでは人力による「田植え」が行われていた。日本の農作業と変わることはないが、その広大な面積には圧倒される。いつになったら田植えが終わるのだろうか…
  
             
 4人掛け1ボックスシートである。後ろにはハルビンに帰省するという人民解放軍の退役軍人夫妻が座っていた。ガッシリした体躯、日焼けした顔、歴戦の風貌である。「ワシは空軍で戦闘機に乗って国民党と戦って蒋介石を台湾に閉じこめたよ。次は朝鮮戦争でアメリカ軍との激戦だ。戦闘機だったから凄かった。良く生き延びてきた。戦争は懲り懲り、、平和な暮らしがいい」


 人民公社はどうなってるのか。20軒前後の日干し煉瓦の集落を指さして「あれだよ、中国人を追い出して日本の開拓団が家を建てた所だよ。トウモロコシやコーリャンを作って貧しかったが今は米を生産しているので豊になった。田畑の売買も自由に出来る」…