年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

塩田平:息づく絵

2009-04-26 | フォトエッセイ&短歌
 …まるで、ジグゾーパズルみたいにひび割れた絵だったけれど、その絵はまだかすかに呼吸しているようだった。武さんの絵は生還したのだ。もうすぐ70才になる佳子さんは戦死した武さんの身体を拭くように絵の上の埃をそっと払った…
 義妹の佳子さんが物置の奥から絵を出しながら云ったという。『無言館・祈りの絵』より。鮮やかな光が瑞々しく印象に残っている。興梠武氏の「編みものする婦人」(部分)。
             
<興梠武・16年都城連隊入営。20年8月8日ルソン島ルソド山にて戦死>

 戦争という重いテーマではあるが戦争を感じさせる絵はほとんどない。家族の人物画であったり、風景画であったり…戦争に繋がるものはなく、ひたすらに無言。一言でいい、何か言ってくれればどんなにか救われるだろうか。見るものは彼等の沈黙を言葉にしてこの事実を発しなければならないと重い責務を感じる。

<「遺された絵は、還らぬ人の分身である」と澤地久枝さん。愛は平和でこそ>

 無言館の坂を下ってくると、約90本の絵筆が埋め込んだ4メートルもある巨大なコンクリート製のモニュメントがる。上部には赤いペンキが不気味にぶちまけられている。
 「戦時下という厳しい状況にあっても力強く生きた画学生の、表現する喜びを多くの人に伝えたかった」「意味するところは、見た人がそれぞれ考えてくれればいい」と窪島館主。銃弾に倒れた若者たちの血糊が絵筆を浸食しているように感じられた。

<縦縞は絵筆。雑木林の小枝たちがザワザワと早春賦を語り合っている>


塩田平:無言の館

2009-04-23 | フォトエッセイ&短歌
 無言館(むごんかん)は戦没画学生の遺作を展示するという異例の塩田平にある慰霊美術館である。第二次世界大戦で没した画学生のレクエイムをテーマに奏でる展示館で、美術館「信濃デッサン館」の分館として1997年に開館したとてもユニークな美術館である。館主は作家故水上勉(みずかみつとむ)さんの息子である窪島誠一郎(くぼしませいいちろう)さんで私財を投じての建設であった。

<窪島氏は無言の風景と出会う旅という。無言館は静かに早春の中にある>

 無言館は、戦没画学生たちの遺作となった絵画・作品・絵の道具・手紙などを収蔵展示している。彼等は、特段の芸術的才能を認められて、芸術の才を研ぎ澄まそうとカンバスに向かっていた。まさにその時、高まった軍靴の響きは彼等の青春を蹴散らしていった。
 戦場に散った画学生達の無念の思いが切々と訴えかけてくる。涙なしには正視する事が出来ない。

<黒御影石の巨大なモニュメント。パレットを捨て銃を持つ感触は如何ばかりか>

 『あと5分、あと10分、この絵を描きつづけたい。戦地に行くことが決まって、初めて妻の裸体を描いた。この続きは必ず、帰ってきて描くから……そう約束して戦地に赴いた彼は、しかし2度と帰っては来なかった』
 解説すべき言葉もない。無言のカンバスが静かに語りかけている。戦争がどんなに野蛮な事か!日高さんは17年入営、満州メントカより南方に向かう。20年4月19日、ルソン島バギオにて戦死。享年27歳。場内撮影禁止、「画集」からコピー。
   
<「裸婦」「ホロンバイル風景」部分。お国の美術館だったら預けないと弟さん>

塩田平:北国の春

2009-04-18 | フォトエッセイ&短歌
 信州、上田市塩田平の桜は未だ蕾のままである。昨夜も雪に見舞われたが、里の雪はたちまち春霞の中に消えてしまった。信州の春はそこまで来ている。
 塩田平は上信越の要として古代から幕末まで歴史の十字路として史跡の宝庫。特に鎌倉時代から室町時代の中世の文化財が多く、信州の鎌倉と云われている。寺院を中心に重要文化財級の寺社が多く文化水準の高さを語っている。
 上田盆地の一角、塩田平は上田藩の米蔵として今でも里の様子を伝えている。

<春の訪れを待つ塩田平、周囲の山々は昨夜の雪で銀色に輝いている。>

 塩田平の南方、独鈷(とっこ)山の麓に信州最古の木造建築、国指定重文の中禅寺阿弥陀堂がある。平安未か鎌倉初期の建立というから、すでに800年以上の星霜を重ねている。
 祀つられている薬師如来像は、ほの暗い御堂に、右手の掌を前に向け、左手に薬の壺をのせ、穏やかな眼差しで泰然自若としている。病苦から人々を救う安心感を与えてくれる。

<春の雪をまぶした茅〔かや〕ぶきの宝形造〔ほうぎょうづくり〕屋根>

 正式名称は真言宗智山派竜王院延命院中禅寺。その中尊寺山門。阿形・吽形の金剛力士(こんごうりきし)が阿弥陀堂(薬師如来像)を守っているのだという。何ともローカルで素朴な微笑ましい仁王であることか。

<地方では重文級の文化財が遮蔽物もなく感触的に観賞できるのがいいな~>

春三景

2009-04-15 | フォトエッセイ&短歌
 4月14日、川崎市の人口が140万人を突破した事が報道された。全国17ある政令指定都市の8番目だが、人口増加率はトップ。市制移行した1924(大正13)年には5万人、戦後の高度経済成長期に急増し、今また相次ぐ大規模開発が続き、増加の一途を辿っている。公害の街のイメージは変わりつつある。

<開発地域の丘一つ越えると、まだこんな里山の風景が残っている>

 春型アゲハ。秋に蛹になったアゲハのサナギは寒い冬を越して春に羽化する。
 蝶は完全変態(かんぜんへんたい)をする昆虫の仲間だ。完全変態とは、一生を卵、幼虫、蛹、成虫と成長とともに体の仕組みや形を変えていく事だ。蝶は見事な変態を遂げるので昆虫の王様である。花の蜜は代表的な蝶の食べ物で、蜜の出る花に蝶は集まって来る。

<ストロー状に細長く伸びた口吻によって花の蜜や樹液、果汁など水分を吸う>

 政令指定都市には様々な地方自治が定められている。その一つに政令の定めで処理することができる事務がずら~と並んでいる。『行旅病人及び行旅死亡人の取扱に関する事務』『結核の予防に関する事務』など時代がかった仕事だと思っていたが、派遣切りによる行き倒れや結核再来などリアルな課題となって来ている。
 緑地保存や地域の環境保護、福祉の仕事は政令の定めで実現出来る。

<「爛漫の桜や空に飛行雲」句会の作品が短冊に揺らいでいる。秀作かな?>

清明の候

2009-04-10 | フォトエッセイ&短歌
清明の候
「清浄明潔」の略で「万物ここに至って皆潔斎なり」。春気玲瓏にして桜や草木の花が咲き始める。万物に晴朗の気が溢れてくる、春分後の15日目あたりの節気。白堂書 「つばめ来る 雁北へ帰る 虹初めて見ゆ」
 ツバメが南から姿を見せ始めると、ガンが北に去って行く。空っ風が収まり水滴が日光に当たって7色の橋を築く。春の訪れである。
     
<中国では 桐始華  田鼠化為鶉  虹始見。田鼠デンソはくまねずみ>

 農耕社会の日本では「自然暦」が古くから使われてきた。定期的に見られる動物や植物の現象の季節的変化をもとに作り上げた暦である。中でも優れた自然暦が「サクラこよみ」である。田畑の農作業開始の合図となる。そろって咲いてパッと散るのであるから誰の目にも鮮やかに映る。
 1分咲き、二分咲き…、満開、桜吹雪と短い花の命を更に細かく刻んで春の一日一日を数え、花冷え、花曇り、花7日、花より団子…等々と花にまつわる言葉は数え切れない。
 今年は開花宣言の後、気温が下がり風もなかったので花の命が長いという。片平川の花のトンネルを歩く。

<若芽の淡い緑に交じった山裾に盛り上がる形もいいが、仰ぎ見る桜も一趣だ>

 柿生の里山の風景には早くも鯉のぼりが飾られ、春風の中にゆっくりと泳ぎ始めていた。
 先日「にほんの里100選」の選定結果が報道された。この選定基準が単なる里の景観を問題にしているのではなく、景観や生き物を支え、里のめぐみを生かす暮らしや営みがあり、そうした暮らしを築き持続させようとする里の生活にまで踏み込んでいるのが良い。
 サクラの「サは田の神」「クラは居ます」が語源で、戦争を美化したり鼓舞する具に使うとはもっての外と白堂さん。

<貴様と俺とは同期の桜、咲いた花なら散るのは覚悟見事散りましょ国のため>



隅田川:築地の市場

2009-04-06 | フォトエッセイ&短歌
 わが国最初の鉄道ターミナル駅「旧新橋停車場」を汐留に戻り、築地川に沿って隅田川に向うと巨大な東京都中央卸売市場の迷路に迷い込む。何しろ、毎日の生活に欠くことのできない水産物・青果物・食肉などの生鮮食料品の卸売市場で、特に水産物は日本最大である。卸売市場としての規模も世界最大だそうで構内が迷路状態になるのも無理はない。

<午後の構内はセリの活況ある喧噪も清掃も終わり静かに明日の入荷を待つ>

 世界最大と云ってもピンとこない。一日平均3300トンの魚や野菜などが入荷し、およそ21億円が取引されている。世界にその名を知られ「観光名所」となり、最近は外国人見学者も多いが、セリの現場ではトラブルが頻発し一時見学中止騒動も起こっている。
 江戸時代の日本橋魚河岸がルーツであるが、関東大震災で壊滅、一時芝浦に仮設されたが、生鮮食料品は隅田川から船で運ばれたり、汐留駅から貨物で運ばれるなどの輸送面から、現在の築地に開設される。トラック便が主流になりまた豊洲への移転問題がすすんでいる。

<巨大な胃袋を思わせる、昼でも暗い構内。フォークリフトの野菜の区分作業>

 築地の埋立工事の安全祈願がされた波除稲荷神社から、築地市場勝どき門に抜けると、勝鬨橋(かちどきばし)の袂に出る。そこには「かちときのわたし」の当時の記念碑がある。
 1905(明治38)年、日露戦争の旅順要塞陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付したとある。旅順の陥落で日本中が提灯行列で沸き立っていた歴史の1頁を物語っている。1940(昭和15)年、勝鬨橋の開通まで銀座・築地方面と月島と結ぶ重要な交通手段であった。

<碑には京橋區祝捷會挙行之日建之。月島地帯の発展を支えた渡船場の碑>

隅田川:陸蒸気走る

2009-04-01 | フォトエッセイ&短歌
 浜離宮庭園の大手門の一帯は「汐留:しおどめ」である。江戸城の外堀は江戸湾(江戸湊)に直結しているので、満ち潮・引き潮の影響を受ける。そのため海と堀とを仕切る堰を造って潮の干満を防いだのが、この地域で「汐溜り」といった。汐留の地名の由来である。
 汐留駅という駅名はあるが地名は「新橋」である。

<大手門橋。汽車開通後に汐留は首都東京の表玄関として大変に賑わう>

 日本初の鉄道は1872(明治5)年、汐留(新橋駅)~横浜(桜木町)に開設された。計画が決定されたのは1896(明治2年)で、首都東京と港がある横浜の間、29kmの敷設である。自力での建設は無理なので、技術や資金など全てイギリスからの援助に頼った。計画から開通まで3年間がかかった。
 「異人切り」を画策していた尊皇攘夷論者の方針転換は早かった。明治2年といえば江戸無血開城の翌年、まだ新政府の土台どころか「目とも鼻ともつかない」段階で鉄道開設の計画を始めたのだ。

<開業当時の旧新橋停車場とプラットホームが実測に基づいて忠実に再現>

 開業時、運賃は「賃金」と呼ばれ新橋~横浜間、下等で37銭5厘、中等で75銭、上等は1円12銭5厘だった。37銭は米1斗(約15㎏)だったから相当の高額だった。陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれ凄い人気で乗客は1日平均4347人。
 歴史家のアーノルド・J・トインビーは、「人類の歴史の奇跡の一つは、日本の明治以降の近代化である」と述べている。鎖国から、汽笛一声新橋を経て、近代日本へと日本は猛進していく。



<線路が再現されている。正面は測量の第1杭を記念する歴史的な0哩標識>