年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

双子死んぢめえ

2007-04-29 | フォトエッセイ&短歌
 <二子宿-1> 高島屋の企業城下街として集客の脚光を浴びる田園都市線の「二子玉川駅」。その駅舎先端からは多摩川の対岸にある「二子新地駅」が望める。駅前の大山街道周辺は三業地(芸者屋・料理屋・待合)として華やいだ時代があった。その面影を<二子三業組合>の銘板が付いた街灯柱が物語っている。
 大山街道の二子宿の宿場の名残の色町の名残かと思ったらどうもそうではないらしい。
 江戸時代、幕府は多摩川を江戸防衛の最前線と位置づけて架橋を制限していた事は歴史的に言われている事だが、この川崎市瀬田と世田谷区玉川の「二子橋」架橋は大正14年7月というからホンのツイ最近の事。それまで「二子の渡し」(ふたごのわたし)として人は勿論、馬や荷車も大型の船によって「舟が出るぞ~」の船頭の声によって渡っていたと言うから長閑なものだったのだ。江戸赤阪御門を起点とし、三軒茶屋、二子、溝の口、厚木を経て大山詣の街道として栄えた。二子神社・兵庫島付近に渡し場があったのではないかと言われている。

 話は戻って二子新地の由来であるが、架橋工事の時これといった繁華街もなく役人接待のために芸者を他所から呼びよせたという。エ~イ面倒だ。歓楽街をつくって芸者・待合・料理を地元で調達出来るようにした。それが「二子新地」だという。下っ端役人でさえこれだから役人天国極まれり、嗚呼~官吏様々である。
 この橋を「ジャマ電」と言われた「玉電」が溝の口まで走っていた事は記憶に新しい(現:田園都市線)。駅名を二子新地前駅と言ったが『フタゴシンジメエ』⇒『双子死んぢめえ』に聞こえて縁起が悪いという理由で「前」を削ったそうな。
 また土地の南の坂戸村の近くに二つの塚があったことから二子の地名で親しまれていた。その二子塚の土はかまどを作るのに良いと言われ、古くから掘りとられ、明治時代に入って掘り尽くされた。その時に石棺、刀剣、埴輪が出土したというから前方後円墳だったのかも知れない。対岸の多摩川台古墳の権力者と対決するような豪族が川崎側で権勢を誇っていたものと考えられる。



箱根湯坂路

2007-04-22 | フォトエッセイ&短歌
 『奢れる平家は久しからず』。平家一門外は人である、と豪語した平家政権も公家化することによって各地の武士団の離反を招き、遂に1185年の「壇ノ浦の戦い」に破れ滅亡した。源平の戦いの終焉であり、武家の世の到来である。
 源氏の旗に結集した東国の武士団は棟梁である頼朝と主従関係を結び領地の支配権<御恩>を認めてもらった。その見返りとして「いざ鎌倉!」と言われるように軍事力<奉公>の提供である。頼朝は平家滅亡後も京に向かわず鎌倉で指揮を執った。幕府(戦場で最高司令官である大将がいる幕の中)を開いた。武家政権の成立である。
 とはいっても、所詮は地方政権で「すべての道はローマに通ず」るほどではないが、政権の中枢機関が鎌倉に成立したことによって朝廷のある京都や諸国からの往来は増加し、街道の整備が急がれた。
 例えば元祖・東海道は、険しい箱根山を避けて足柄峠を越えていが、鎌倉時代に入ると、幕府は京都朝廷との連絡を密にするため、距離的に短い箱根越えの街道を普請した。これが鎌倉古道と言われる湯坂路である。


 『十六夜日記』の阿仏尼が京都から鎌倉に下った際に通ったという古(いにしえ)の「湯坂路」として歴史に刻まれている。鎌倉武士の気概を思いながら新緑の古道に足を踏み入れるのもまた悪くないかもしれない。
 箱根湯本駅から国道1号を塔之沢方面に行き、早川にかかる旭橋を渡り、「北条早雲の湯」を左にすると「湯坂路(鎌倉古道)の看板である。雑木林の登山道に入る。石畳の道を進むと、やがて湯坂城跡で鎌倉に向かって続くである。

  
  
 箱根湯本駅-湯坂城跡-大平台分岐-浅間山-千条ノ滝-小涌谷駅
*江戸幕府により箱根街道が開かれると、裏街道とされて表舞台から姿を消した。今は寂として往還の面影すらない。遅い辛夷がいっぱいに咲き始めている。

半世紀の光芒

2007-04-15 | フォトエッセイ&短歌
 <絹の道-2> 『泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった4はい(4隻)で夜もねられず』教科書に必ず出てくる狂歌である。1953(嘉永6)年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが開国を求めて江戸湾に入港した時の動顛ぶりを謳ったものである。 それから5年後、「日米修好通商条約」が締結されるとさっそく自由貿易が開始された。
 中心は横浜で外国商人と日本商人との間で銀貨で行われ、その最大の輸出品は生糸である。外国商人は優秀な日本の生糸を安値で買いあさった。甲信地方、北関東および多摩地域で生産された生糸が八王子周辺に集められ、八王子市鑓水の商人が仲買として活躍し「鑓水商人」の名で知られるようになる。

 その生糸を運んだ幅3尺位の街道の名残をシルクロードとして史跡保存している。この付近はかつてその「鑓水商人」の拠点として沸き立った集落で、豪商達の蔵が建ち並んだであろう。商人のひとり八木下要右衛門の屋敷跡に絹の道資料館がある。
 しかし、生糸の輸出により活況を呈した浜街道も1908(明治41)年の横浜鉄道(現在のJR横浜線)の開通によって、その使命を終えた。横浜開港からちょうど半世紀、にわかに脚光をあびたのち忽然と歴史の表舞台から消えた。山間に花開いた豪商達の夢は一瞬のうちに閉ざされた。


 「絹の道」は思わぬ結果を呼び覚ました。NHK流に言えばその時歴史が動いたのである。生糸の需要は高くいくらでも売れた。輸出品の80%が生糸である。しかも自由貿易だから忽ち輸出超過となり、国内では品不足が起こり諸物価が高騰した。生糸8倍・米は実に10倍である。庶民の生活は圧迫され貿易に対する反感が強まり「攘夷運動」が激化し、倒幕の機運に火が注がれた。皮肉な事に開国に踏み切った幕府が開国に抵抗するグループに潰されたいった。  
      

二ヶ領用水の今昔

2007-04-08 | フォトエッセイ&短歌
 多摩川河岸に沿って西北西に長々と伸びる川崎、かっては稲毛米や多摩川梨など農産物の一大産地であった。肥沃な扇状地の成せるワザで「多摩川は川崎の母なる川」である。しかし、こうなるためには500年にも渡る水との闘いが繰り広げられていた。
 多摩川は暴れ川で、かつ川底が低く農業用水としての利用が困難であった。「川を眺め、川に悩む」。タヌキオヤジ・徳川家康の着眼は鋭かった。1597(慶長2)年といえば関ヶ原の戦いの前だが、代官の小泉次太夫を起用して稲毛(いなげ)・川崎二ヶ領(にかりょう)用水の工事を開始させている。用水工事は、約14年の歳月を経て完成した。その結果、この二ヶ領用水は流域60ヶ村、2007町歩の水田を潤し、米の収獲量を増やし近世川崎地域の生産力を高めたといわれる。<街の中を流れる現在のニケ領用水>
 

 その後、多摩川からの取水口の開設・分量樋・用水路の改修を繰り返しながら二ヶ領用水は農民達の手で進化し続けてきた。しかし、日照りなどが続くと水の絶対量が不足して騒動は絶えることがない。嘆願・訴訟あるいは実力行使にと用水の記録は水騒動の記録でもある。
 1821(文政4)年の「溝口騒動」は一揆にまで発展し名主の家を打ち壊している。この水騒動はその後も絶える事なくしばしば発生した。一件が落着するのは実に昭和16年の円筒分水(えんとうぶんすい)の完成によってである。
 <噴水のように吹き出る用水の水をプールのような円筒でうけとめ、それを百分率の割合で水を公平に分けるシステム> 国登録有形文化財 二ヶ領用水久地円筒分水(にかりょうようすいくじえんとうぶんすい)


これによって水の流量や水位が変化しても「久地二子堀」「六ヶ村堀」「川崎堀」「根方堀」の4本の堀に公平な分配が出来るようになった。しかし、皮肉な事に、都市化が進み農業用水路としての役割は終わり下水道化して悪臭に悩まされる事になった。
 最近、ようやく汚染対策がなされ散策路としての整備が一部ではなされるようになった。

      

鑓水の峠越え

2007-04-01 | フォトエッセイ&短歌
 <絹の道-1> 幕末から明治初期の頃の話である。南多摩郡由木村鑓水地区(東京都八王子市鑓水:やりみず)と神奈川県横浜市をつなぐ道路を「浜街道(はまかいどう):別名・神奈川往還」と呼んだ。生糸を運搬する荷車が横浜港を目指して列をなし、西洋の文物を持ち帰えるなど、時代を感じさせる活況を呈していたという。
 日本の「シルクロード」にあたるということから、後に「絹の道」とも呼ばれるようになった。概ね国道16号線にあたり、現在も京浜臨海部と内陸部を結ぶ重要な産業道路として経済の動脈になっている。


 1996年文化庁は「絹の道」を街道遺跡として「歴史の路百選」に選んでいる。鑓水峠(やりみずとうげ)に残る0,5㎞程度の距離だが当時の面影をそのままに留めている。人力や牛馬に頼ってこの急峻な坂道に汗をひたたらせながら生糸を運搬したのだ。
 彼等の力足によって削り取られたかのように路面は凹んでいる。歴史は常にこんな庶民の労働の中にある。身売りのように野麦峠を越えた過酷な女工達の製糸工場の哀史を想いながら春の気配濃い峠の[絹の道]を歩く。

 街道筋の小泉家屋敷(有形民俗文化財)。茅葺き屋根の入母屋造りのどっしり重量感は民家建築の歴史と迫力を示し圧巻。外見は平屋だが内部は3階建てになっていて階上で養蚕を行う養蚕農家の典型的な建て方だという。おカイコさんの桑の葉を喰うザワザワの音響は潮騒に似ていて絶える事なく続く……。<小泉さんが生活しているので内部を見ることは御法度>