年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

夏草に埋もれし街

2013-09-25 | フォトエッセイ&短歌

 陸前高田は太平洋に面したリアス式海岸の半島に囲まれた小さな平野に広がった街である。津波を抱え込むような地形で甚大な津波被害を受けた。
 街の東側には気仙川が広田湾に流れ込み、上流から運ばれた土砂によって砂州が広がっていた。ここに津波・高潮・潮風を防ぐために松を植林したのは江戸時代の初めである。沿岸の漁師や住民はこの防潮林・砂防林の重要性を体験的に認識し350年に渡って絶え間なく手入れをしてきた。その結果、7万本近いアカマツ・クロマツの砂丘が造られ、白砂青松の高田の松原として完成され日本の渚百選にも選ばれた。
 このように高田の街は背後を奥深い岩手の山脈に囲まれ、前面に松原越しの太平洋の海原を垣間見る事が出来る穏やかな街となった。
 この高田の街を一瞬にして呑み込み押し流したのが、3月11日のマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震で発生した大津波である。松原が決壊する頃には気仙川が逆流し市街の津波の高さは15mに達していた。余震が落ち着き津波が引いてからも激しい地番沈下で海水は引く事は無くヘドロの街と化した。市役所も学校も線路も駅も壊滅した。腰まで沈むヘドロの中で遺体の捜索が続けられた。
 暮らしをどうするのか、復旧をどうするのか、工程表の作成も出来ないまま虚しく月日が経過していった。遅い春が行き、炎暑の陽射しにヘドロがひび割れる頃、惨劇を物語る瓦礫が累々を無残な姿を現した。まるで無差別空爆によって破壊された市街地のようだ。違うのはトレラー形を残して転がり、漁船が山裾に乗り上げ、空洞の鉄筋建物の屋上にトラックが載っているという生々しい手の付けようもない自然の猛威である。
 半年が経ったが、その奇妙な風景は変わる事は無かった。しかし、アリが巨大なセミの亡骸を引っ張ていつの間にかどこかに隠し納めるようにガレキもかたづけられた。津波から2年目の春が過ぎ夏が来た。ケロイドのような地肌は緑濃いアシに被われ、海風に鋭い葉先をゆらしている。遠くから眺めると穏やかな緑のオアシスにも見える。
 自然のエネルギーの爆発の前に、人間の営みが如何に小さいものであるかを知るのみである。

アシの緑に被われた高田の市街地松。左手奥が陸前高田駅と市役所のあった地点

  二年半ヘドロも涸れて夏草が緑陰つくりて爪痕を隠す

  葦揺れて惨劇隠し青々と陸前高田にひと夏の風

  壊滅の松原眺むる海原のリアスの湾は静けさ抱きて

  流されし陸前高田の松原に葦が茂りて夏過ぎ去し


奇跡の一本松

2013-09-24 | フォトエッセイ&短歌

 陸中海岸国立公園の景観のポイントとなっていた「高田の松原」は陸前高田市の象徴として白砂青松の美しさを楽しませてきた。約7万本と言われた黒松・赤松に囲まれた重量感と歴史を感じさせる遊歩道は四季それぞれに姿を変えて陸中海岸の自然を展開してくれた。
 仙台藩と沿岸住民によって海岸に松が植えられたのは江戸時代の初めであったが、その後も植林は続けられ岩手県を代表する強固な防潮林・砂防林に育ち、津波・高潮・潮風などから沿岸を守ってきた。記憶に新しいものだけでも1896年(明治29年)6月15日の明治三陸津波、1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸津波、1960年(昭和35年)5月24日のチリ地震津波でも高田の松原はドッシリと根を張り津波を退けてきた。
 しかし、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による10メートルを超える大津波に呑み込まれ、全ての松がなぎ倒され流されて壊滅した。防潮林を撃破した津波は防潮堤を蹴散らし道路を寸断し橋を押し流し、市街地を廃墟にした。陸前高田市の犠牲者率は大きく特に、浸水範囲内では100人中11人近くが死者行方不明者となった。
(死者1,555人 、行方不明者225人:H24年7月)
 津波がおさまり、凍てついた北風に雪が舞うヘドロと瓦礫が広がる惨状の中に一本の松が生き残っていたのだ。松林南端の一角に松が一本だけ流されずに毅然と立ちつくしていた。7万本の1本である。被災地の人々は「奇跡の一本松」として復旧復興のシンボルとして仰ぎ見る復興の吉兆とした。
 しかし、津波に耐えて奇跡的に残った一本松だったが、根が海水に犯され2ケ月後の5月に枯死が確認された。復興のシンボルとして親しまれてきた一本松、無念の思いを化学樹脂で複製し震災の記念とする事になった。

炭素繊維強化樹脂複合材料によって製作された「奇跡の一本松」

  

  テカテカと日を映しおる造りもの「奇跡の一本松」は芽吹くことなし

  レプリカの一本松にも祈り込め津波の惨劇風化させじと

  三陸の海眺めつつ街道行けば津波の標識が続く

  バス停も「奇跡の一本松」とあり土産物屋の屋台も並ぶ

  海鳴りに松風もなく松一本希望となるのか孤影侘びしく


蝉の脱け殻

2013-09-03 | フォトエッセイ&短歌

 酷暑の夏も峠を越したが、厳しい残暑はこれからである。緑陰の蝉時雨も心なしか弱まってきたか。朝夕のヒグラシやツクツクボウシの透き通った鳴き声にホッとする。特にヒグラシの声には哀愁があってちょっぴり寂しさを感じるものだ。残暑の向こうに秋の気配が感じられる。
 雑木林の葉裏に鋭い爪を立てた飴色に光る蝉の脱け殻のあるのを見付けた。古語では空蝉(うつせみ)と優雅な名で呼ばれている。林が生活の中にあった子供の頃、セミの羽化をよく目にしたものである。夕方、地上に顔を出した幼虫はゆっくり樹に登っり、足場を固めるように爪を立てる。辺りが暗くなると、背が割れて白い成虫が顔を出す。
 その後は体を痙攣させて、力を振り絞って上体を殻から出し、最後はスルリと逆さ吊り状態になって脱皮は終わる。早くも翌朝には鳴きなじめるという。悪戯小僧たちも幼虫から成虫に脱皮するセミの誕生を厳かに見ていたものである。この感動的なセミが誕生する生命のエネルギーを幹や葉裏から支えているのが、針の先のような鋭い爪である。空蝉になった今も風雨に負ける事なく彫像のように在るのが印象的である。
 謎多き不思議な昆虫である。7年間も地中に生活しこの世に生を受けて腹が割けるほど鳴いのだが、それが最期である。1週間そこらの短い生涯はおわる。いったい何しに地上に出て来るのか。地上にひっくり返って蟻の餌食になっている死骸を見ると哀れを感じる。
 そんな風な一瞬の蝉の鳴き声を聴いていると、松尾芭蕉の『閑さや 岩に染み入る蝉の声』の句の深みが出て来る。
 (元)生物の教諭の感想は違っていた。種族保存のために地上の出て来る。生まれて直ぐに成人となって声を張り上げ鳴くのであるが、それは求婚の相手探し、今でいう「婚活」である。めでたく交接、産卵するともう地上での生活の意味がなくなって死ぬのだという。種族保存のために太く短く豪快に生きてオサラバ!するので、哀れというのとは違うのでは無いか、というのある。

残暑の中に飴色の光沢を光らせるセミの脱け殻

  幼虫は体ふるわせ羽化すれば脱け殻残し戻ることなし

  緑濃き千鳥ヶ淵の蝉時雨意味あるかの如くただひたすらに

  暑かった 残暑の夕刻一陣の風にのりたるヒグラシの調べ

  軒下の西日の影も長引きてツクツクホウシの鳴きも破調か

  雨風に爪鋭くして落下せず空蝉は知る命の神秘を

  外苑の影長くあり風流れ日暮れの蜩声落とし鳴く