年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

新春<3>竹駒拝殿

2011-01-25 | フォトエッセイ&短歌
 「竹駒」という社名の語感は悪くはないが、現在の岩沼市域の旧称が「武隈(たけくま)」でありそれが転訛したのであろうか。その「武隈」は近くを流れる阿武隈川(あぶくまかわ)に由来するという。
 さて、842(承和9)年の陸奥国(現在の福島・宮城・岩手・青森)の国守に任命された小野篁(おののたかむら)はなぜここに神社を勧進したのか。
 研究者の見解によると岩沼は都のある畿内を起点とする山道(後の東山道、現在の東北本線や国道4号に相当)、および、海道(後の東海道や陸前浜街道、現在の常磐線や国道6号に相当)の両者が畿内から出て初めて合一する地点。ここから山道・海道は重なって北上し、陸奥国府・多賀城(仙台市)で再び分岐するのだという。竹駒稲荷神社は、古代から続く2つの主要幹線が分岐・合流する交通の要衝の地であったという訳である。

<社殿は仙台藩伊達吉村によっる造営。焼失を繰り返し平成6年に再建された>

 竹駒神社はお稲荷様だから狐とかとに関係があるのかと思うが狐の姿はなく、人間生活の基となる衣、食、住の守護神である倉稲魂神(うかのみたま・稲荷神)、保食神(うけもち)・稚産霊神(わくむすひ)を祀っている。神様の話は全く分からないので受け売りである。
 その為に、産業開発、五穀豊穣、商売繁盛、海上安全、家門繁栄、安産、厄除、交通安全、所願成就などの祈願に訪れる人が多いという。まあ、これだけのお願いにご利益があるとすれば全国の崇敬者から篤い信仰を仰がれるのも最もである。こんなスパー神様が今年の運勢をたったの100円で占ってくれるというのだから、そりゃもう大変なものだ。

<拝殿の前庭にはお神籤(おみくじ)が純白の花が咲いたようにの盛り上がる>

 100円の大枚を払ってお神籤を購入するも、信心が薄いのか小凶と出た。「こんなものあてにはならん」とはいえ気持ちの良いものではない。大吉に勝るものはなし。

<松の枝にまで堅く結び付けたお神籤。初詣で凶の出る割合は何割なのか>

新春<2>竹駒稲荷

2011-01-20 | フォトエッセイ&短歌
 随身門(ずいじんもん)を潜り本殿に向かうと向唐門(むこうからもん)が待っている。向唐門は大きさでは宮城県最大級で指定文化財になっている。唐門(からもん)だから内と外を区切る境界を意識させる門で「いよいよ本殿が近いよ」ということだ。
 唐門というと中国産のように思われるが平安後期の日本生まれの門である。切妻屋根の側面にある三角形の飾り(破風=はふ)を付けたもので唐破風と呼ばれる。普通、弓を横にしたような形をし、中央が高く、左右になだらかに流れる曲線を持つ独特の形をしている。

<屋根に独特の唐破風を持つ唐門。前後に破風を持つものを向唐門という>

 唐門には竹駒稲荷と書かれた大きな提灯がぶら下がっているので「お稲荷様」であることが分かる。ガイドにはこの竹駒稲荷神社は京都市の伏見稲荷大社などと共に日本三稲荷の一つにあげている。残るのは、愛知県の豊川稲荷大社と茨城県の笠間稲荷神社である。
 普通、三大稲荷というと宮城の竹駒稲荷神社は入っていない。 伏見稲荷大社を第1位に上げるのは衆目の一致するところだが。当事者にしては悩ましい序列である。4大稲荷ではダメなのかナ~

<華やかさを演出する向唐門の大提灯。後方の建物が社殿>

 また、武術はもとより文才は「天下無双」であり漢詩の分野では「日本の白楽天」と言わた小野篁(おののたかむら)の話に戻る。
 小野篁は嵯峨上皇を批判し律令という当時の刑法では絞首刑にあたる罪を犯したが、人物と才能を惜しまれて罪一等を減じられ島流しとなる。この時嵯峨天皇が小野篁に意地悪質問をして彼の才能を試した問題というのが伝えられている。
 「子子子子子子子子子子子子」を何と読むか。小野はたちどころに「ねこのここねこ、ししのここじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と読んで天皇の鼻を明かしたという。で、許されて政界に復帰し従三位参議を拝し842年に陸奥国守(現在の福島・宮城・岩手・青森の4県)に任命される。
 彼がその時に国府鎮護の神として伏見稲荷を勧請して創建したのが竹駒稲荷神社と伝えられている。

<日本海側の大雪が嘘のように門の脇には八分咲きの寒桜が揺れている>

新春<1>竹駒初詣

2011-01-13 | フォトエッセイ&短歌
 神社仏閣に深い信仰を抱いているわけではないが、初詣の華やぐ雰囲気は悪くはない。ガタの来る身体に夢の持てない社会、出口の見えない閉塞感と元気の出ない暮らし向きなど「御破産に願いまして」と心機一転で進みたいものだ。旧年の悪玉を脱し新年の善玉に託したい、そんなささやかな願いのイベントでもあろうか。
 その点、神仏側もよく心得ていて、無信仰だろうが、一週間前にクリスマスを祝った信者だろうが、伊勢神宮の神職だろうが、東大寺の大仏派だろうが、遍く迎え入れてくれる。宮城県岩沼市稲荷町にある初詣40万人の人出でにぎわう竹駒神社(たけこまじんじゃ)にうかがう。仙台平野を流れる阿武隈川の北岸に位置している。

<竹駒神社の旧参道。仙台駅から東北本線で20分の岩沼駅下車、徒歩10分>

 神仏信仰とは別に神社仏閣は建造物や仏像などの文化財や伝承や故事など古い歴史があってなかなか面白いものだ。特に寺社の言い伝えなどは無形なので歴史事実を反映しているのか、全くの架空の物語なのかは判らない。神々の伝承なら神話の世界で済んでしまうが歴史上の人物が絡んで来るとそうはいかない。
 竹駒神社を創建したのは小野篁(おののたかむら)という平安時代初期の紳士録に記載されて高級官僚である。そんな官僚トップがなぜまた辺境のみちのくの地に足跡を残す言い伝えがあるのか、あるいは本当にこの北の地に来ているのか。
 参道を進んで正月用に「謹賀新年」とドレスアップした指定文化財の随身門(ずいじんもん)をくぐる。
     
<随身門は主神を守る守護神像を左右に安置した神社の門のことである>

 小野篁(おののたかむら)は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守(みねもり)、孫に三蹟の一人小野道風など王朝貴族のサラブレットである。
 834(承和元)年、遣唐副使に任ぜられるが、正使藤原常嗣(ふじわらつねつぐ)の専断に憤慨し争いを起こした。そして、病気を理由に乗船を拒否したので遣唐使船は小野篁を残して838年6月、大坂の難波(なにわ)を出航した。
 藤原常嗣との激論が何だったのかは解らないが、朝廷の外交方針に対する批判だったかもしれない。というのはこれを最後に、遣唐使が廃止された。加えて、朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪の上隠岐への配流という重罪に処された。
 小倉百人一首に出てくる小野篁の『わたの原八十(やそ)島かけて漕(こ)ぎ出でぬと人には告げよあまの釣舟』はこの時に詠まれたものである。その後、許されて隠岐より召し返され官位を上げられ要職を歴任している。842(承和9)年の陸奥守の任命もその一つである。
            

<篁は夜ごと地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたともいう>