穴沢天神社から多摩自然遊歩道を戻り菅小谷緑地を歩く。スゲが茂っていたので菅になったと「新編武蔵風土記稿」にある。このあたりは多摩川の河川敷で湿地帯であったのであろう。やがて川崎市文化財重要習俗技芸に指定されている「菅の獅子舞」で有名な(菅村)薬師堂に至る。
薬師堂は稲城三郎重成が亡き妻の供養のために小沢城の麓の山間に建立した重成山極楽寺の堂塔の一部である。それを機会に重成も出家して永真入道と名乗り、相模川に大橋を架け供養をしている。この橋供養には源頼朝も参列したが、この時落馬してそれが原因で頼朝は53歳の生涯を閉じた。
<この橋の脚が関東大震災の時、地中から現れ国の指定史跡に指定された>
菅の獅子舞は三郎重成が薬師堂を建立したときに子供たちに五穀豊穣・疫病退散を祈願して奉納させたものである。天狗の先導で雄獅子、雌獅子、臼獅子の三頭の獅子が行列を組み、笛と唄の道行ばやしによって舞い込んでくる。そして土俵を一周しながら舞う。三頭の獅子は酒を飲み、博打を打ち争うが最後に手打ちをすというドラマチックな舞いである。
江戸名所図絵にもあるので多摩川の菅の渡しを渡って多くの江戸っ子が見物に来たのであろうか。
<神奈川県内の最古の獅子舞となっている。この日は相撲大会も開かれる>
薬師堂の本尊は当然の事ながら薬師像である。とりわけ眼病には霊験あらたかで「穴あき石」を薬師様に奉納し、お百度参りをするのだという。
麻疹や熱病で失明するのも為す術もない江戸時代、穴の開いた石を探してきて「どうか子どもの目が塞がれず、向こうが見えるようにして下され」とお百度を踏んだという。今でも「穴あき石」が見つかる事もあるし、転じて幸福招来の石として菅村の古老たちは「穴あき石」をお守りにしているという事だ。
<お百度参りの数を示す百の珠のある大きなソロバン。現役を引退しひっそりと>