年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

多摩:薬師堂

2009-08-30 | フォトエッセイ&短歌

 穴沢天神社から多摩自然遊歩道を戻り菅小谷緑地を歩く。スゲが茂っていたので菅になったと「新編武蔵風土記稿」にある。このあたりは多摩川の河川敷で湿地帯であったのであろう。やがて川崎市文化財重要習俗技芸に指定されている「菅の獅子舞」で有名な(菅村)薬師堂に至る。
 薬師堂は稲城三郎重成が亡き妻の供養のために小沢城の麓の山間に建立した重成山極楽寺の堂塔の一部である。それを機会に重成も出家して永真入道と名乗り、相模川に大橋を架け供養をしている。この橋供養には源頼朝も参列したが、この時落馬してそれが原因で頼朝は53歳の生涯を閉じた。

<この橋の脚が関東大震災の時、地中から現れ国の指定史跡に指定された>

 菅の獅子舞は三郎重成が薬師堂を建立したときに子供たちに五穀豊穣・疫病退散を祈願して奉納させたものである。天狗の先導で雄獅子、雌獅子、臼獅子の三頭の獅子が行列を組み、笛と唄の道行ばやしによって舞い込んでくる。そして土俵を一周しながら舞う。三頭の獅子は酒を飲み、博打を打ち争うが最後に手打ちをすというドラマチックな舞いである。
 江戸名所図絵にもあるので多摩川の菅の渡しを渡って多くの江戸っ子が見物に来たのであろうか。


<神奈川県内の最古の獅子舞となっている。この日は相撲大会も開かれる>

 薬師堂の本尊は当然の事ながら薬師像である。とりわけ眼病には霊験あらたかで「穴あき石」を薬師様に奉納し、お百度参りをするのだという。
 麻疹や熱病で失明するのも為す術もない江戸時代、穴の開いた石を探してきて「どうか子どもの目が塞がれず、向こうが見えるようにして下され」とお百度を踏んだという。今でも「穴あき石」が見つかる事もあるし、転じて幸福招来の石として菅村の古老たちは「穴あき石」をお守りにしているという事だ。

<お百度参りの数を示す百の珠のある大きなソロバン。現役を引退しひっそりと>


多摩:天神様

2009-08-25 | フォトエッセイ&短歌

 小沢城址富士塚の尾根をそのまま西に真っ直ぐ進むと丘陵の先端に出る。右手にジャイアンツのグラウンドがあり、谷戸一つ越えた丘陵には「よみうりランド」の広大な一角が見え隠れする。レクリェーションセンターであるが、モチーフにした聖地公園には国宝妙見像、重文聖観音、仏教各派の祖師像など変わった一郭もある。
 小田急線読売ランド前駅もあるが、京王相模原線京王よみうりランド駅前からはスカイシャトルが発着している。

<多摩丘陵南部にある郊外型の遊園地で野外劇場などの何でもあり施設>

 ジャイアンツのグラウンドを背に丘陵を下っていくと三沢川に出る。急峻な崖の上は小沢城址である。その中腹に小沢子太郎重政が日夜参詣していたという穴沢天神社がある。「延喜式」(菅原道真が太宰府に流された頃の法律書)に記録されているので格式の高い古い神社である。祭神はスクナヒコナノミコト、後に菅原道真も合祀され天神さまとして親しまれている。
 現在は獅子舞と江戸里神楽が有名で都の無形文化財に指定されている。このあたりは東京都稲城市で神奈川県との国境になる。


<獅子舞は「道中獅子」と言われ、74段の石段を獅子が舞いながら登るという>

 すでに見たように境内の下から湧水がほとぼしり御神水とされている。ポリタンクを持参して水を汲みにくる市民が絶えない。脇には弁天像が祀られている。洞窟は古墳時代の横穴古墳だったと言われている。
 手をかざすとヒンヤリと身に沁みる。それは政子が我の子を討ち、甥一族を謀殺した尼将軍としての苦渋なのか。はたまた小沢小次郎重政の無念の涙なのか。
<蛇足ながら> 小次郎重政の妹は綾小路三位師季に嫁して娘を生んでいる。その娘は小沢信重によって密かに養われていたが、政子は重成の遺領小沢郷を彼女に相続させたという。


<近くの威光寺にも横穴古墳利用の大規模の弁天洞窟があり湧水が絶えない>


多摩:富士塚

2009-08-19 | フォトエッセイ&短歌

 天神山を下り空堀を越えると富士塚に至る。富士塚は八州台とも呼ばれ削平された平坦地が広がる。多分、この地点が城山と呼ばれる拠点で小沢城の要塞となっていたものと考えられる。
 菅(川崎市)、矢野口、長沼、大丸、、百村、坂浜(稲城市)一帯を小沢郷と称し土着の豪族が支配していた。そこえ稲毛三郎重成が乗り込んできて豪族の居館を取り上げて城を築いた。これが小沢城で、これを息子の小沢子太郎重政に与え、自分は枡形城を居城にしている。

<小沢城の中核部、富士塚に建つ小沢城址の碑。鎌倉武士の夢の跡である>

 小沢城は三つの峰を利用した天然の要害と云える。南は仙石谷戸の丘陵に繋がり、前方北側は急斜面になっていて眼下に多摩川が一望出来る。
 しかし、頼朝の御家人として鎌倉幕府創建に力を発揮した稲毛一族はあっけない最期を遂げる。頼朝が死んだあと北条義時は権力を手中に収めるために邪魔者の粛正をはかった。まず、関東の雄、畠山重忠を稲毛三郎重成に討たせ、すかさず大河戸三郎に重成を謀殺させたのである。続いて小沢城主の小沢子太郎重政を宇佐美与一に討たせたのである。小沢城は北条一門の管轄下に入り家来である小沢左近信成に受け継がれた。後日、小沢城は北条氏の激戦の戦線司令部となるが、またの機会に。

<眼下の多摩川を挟んで関東平野が展開できる。狛江・三鷹・府中市方面>

 ここには富士塚の由来を語る「富士登山三十三度大願成就」の記念碑がる。江戸時代末期に民間信仰として盛んになった「冨士講(浅間講とも)」の信者によって建てられたものである。難しい教義を持つ信仰ではなく、「講」を作って集まり、農民たちの日常に即した娯楽的な要素の強いものだったという。

<幕末、幕府の農民支配が緩むと様々な「講」を作って息抜きをしたのでは…>


多摩:天神山

2009-08-14 | フォトエッセイ&短歌
 浅間山の祠の前部はちょっとしたテラス状になっている。痩せ尾根を巧みに利用して広場を造っているのだ。物見台として敵の軍勢を分析して戦術を練ったのかもしれない。また戦線を抜かれ堀を突破された時の防御施設もあったものと思われるが、近世の石垣を使った城と違って中世の山城はそのような遺構がないので実態がわかりにくいのだ。

<クヌギ林に覆われる物見台テラス。武器(つぶて石)庫や馬場があった>

 浅間山の高台を下るとまた南北に切り開いた深い空堀があり、そこには当時の古井戸の跡がある。埋められてしまって井戸という景観はないが、危険という事で埋めたいう古老の話が残っているという。籠城したときの命の綱は水であるので、築城の難問は水の確保であった。今でも浅間山の麓には湧き水が威勢よく噴き出している。

<三沢川に面する崖から滔々と湧き出る湧水。ちょうど井戸のあった下あたり>

 再び坂道を登ると小沢城を構成する二つめの天神山(小沢峰)に至る。物見台(物見櫓址)がある。「のろし」によって敵の動静や味方の態勢の手順を伝えたのである。まだ南蛮渡来の鉄砲が種子島に伝えられる350年も前の穏やかな戦時体制の話である。
 飛び道具と言えば弓矢であるが、ここでは当時の飛ぶ武器「つぶて石」が多数見付かっている。司令官の号令一声、敵軍目がけて一斉に石を投げつけたのだろうか。

<鬱蒼とした昼なお暗い雑木林であるが、北側は急崖で多摩川が一望である>

多摩:浅間山

2009-08-09 | フォトエッセイ&短歌
 指月橋から寿福寺に至る坂道の右側一帯が小沢城址である。かっては放置された荒山で足の踏み入れようもなかったが、現在は多摩自然遊歩道として整備され中世の山城を偲ぶ事ができる。
 すでに見たように稲毛三郎重成の父は平氏系の秩父武士団の一族で町田市の小山田を根拠にしていたが、分かれて稲毛に進出し稲毛重成を名乗り源頼朝の御家人となって盤石の地歩を築いた。その拠点としたのが小沢城である。

<多摩区菅城下の三沢川の川縁にある多摩自然遊歩道の小沢城址の登り口>

 小沢城は浅間山・天神山・富士塚の三つの峰を中心に多摩川を望むように構築されている。小沢城址の玄関口になる遊歩道の入口、城の直下にあたるので城下の地名が残る。
 馬の背のような尾根を登る。両側は断崖絶壁になっているが竹藪混じりの雑木林が鬱蒼としている。
 そこに「小沢城址里山の会」のガイド版がある。しばし足を止めて戦争の風音に耳を澄ます。
『~真下の窪地、草木に覆われて知るべくもないが、本土決戦を妄言した戦争の1頁の歴史が秘められている。太平洋戦争時、防空隊の探照灯が設置されていたという。B29の爆音を聞き取る聴音機が設置され、電気計算機が高度や方向を割り出すと、信号が探照灯の覆いを開き銀色に輝くB29を照らし出す。するとここから4キロ離れた枡形山(枡形城址)にある高射砲陣地は照らし出されたB29の砲撃を開始する…。こんな事が64年前に行われていたのだ~』

<浅間山に至る探照灯が設置されたあたり。多摩丘陵の自然がそのまま残る>

 探照灯のあった尾根をさらに進む。地形を生かした空堀を下って上ると関東八州を望む事ができる浅間山である。小さな祠の神社が歴史の足音を聴きながら猛暑の濃い緑の中に佇んでいる。お館さまの小沢小太郎重政が、雑兵の槍の触れ合いが、B29を窺う兵士の号令が…

<浅間山に残る小さな祠。関東八州を望める高地で物見台跡と云われている>

多摩:仙石谷

2009-08-01 | フォトエッセイ&短歌
 小田急線読売ランド駅から町田街道を渡り紫式部の小径などというロマンチックな坂道の右手に日本女子大附属高校を見ながら登る。多摩丘陵の北端でかっては深山を思わせる「山々」であったが、今は格好のベットタウンとして開発が進み緑地保全の対象地となっている。
 フルーツパークを越えると尾根に出る。それを越えると仙石山寿福寺の参道入口になる。眼下には多摩川が横たわりその向こうには首都東京のビル郡が累々と続く。
 寿福寺は鎌倉建長寺の末寺で臨済宗では川崎市内最古の寺である。文字通り山あり谷にありの仙人が隠棲するような郷である。寺伝によれば「この山に仙人道鏡がこもり練行終身をつんだので仙石谷」という。

<黒松の濃い緑の並木に被われる参道。一昔前は「開かずの門」だった山門>

 寿福寺は聖徳太子の建立と伝えれているから古い歴史を持っているのだろう。その後も災火、荒廃、再興を繰り返している。文治年間(1185~90)頼朝の怒りをかった九郎判官義経と武蔵坊弁慶が鎌倉から奥州平泉に逃れる途中、一時この寿福寺に隠れ住んで「大般若経」を書写している。
 義経・弁慶の鐙と袈裟(あぶみ・けさ)が残されている。また本堂裏の五財弁財天の池には「弁慶の隠れ穴」が、仙石の入口には「弁慶渡らずの橋」とか「弁慶の足跡石」などがある。義経ゆかりの地でもある。

<本堂には室町時代の国一禅師坐像(重要歴史記念物)が安置されている>

 『江戸名所図絵』に寿福寺を中心とした「仙谷十景」の景観図がある。江戸名所に取り上げられたという事は鄙のローカルではなかったのかも知れない。現在、開発をまぬがれて所在の判るものは指月橋と光照崖の2景。指月橋と言えば京都:槙尾の西明寺の門前、清滝川に架かる朱色鮮やかな名橋をイメージしたのだろうが… 今は面影もなくコンクリむき出しの粗末な橋である。

<指月橋、月を指す橋。川面に揺らぐ月見をしながら酒を酌みかわしたのか>