年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

みちのく<7>善宝寺の緑陰

2010-09-27 | フォトエッセイ&短歌
 善宝寺の奥の院は龍王殿である。名の通り竜神(りゅうじん)を祀っている。竜は想像上の動物であるが、神格化されて「竜神」となって竜神信仰のシンボルとなった。水中や地中に住み、ときには空中を飛んで稲妻を放ち、雨を降らせるという事だ。
 これが、海神(わたつみ)信仰と関連し漁民の間にも竜神が信仰され、竜神祭あるいは竜宮祭を行って海の平安を祈ったという。

<豪快な彫刻が施されている、奥の院:龍王殿の本殿>

 仏であり、神であり、竜でありと神仏習合の賑やかな善宝寺であるが、歴史的には竜神信仰が中心になっているのだろう。
 江戸時代に北廻り航路が開設され酒田湊の発展と共に善寳寺の信仰が一段と広まったとある。明治時代、漁業関係者の発願によって我が国唯一の「魚鱗一切の供養」の五重塔が建立され現在の偉容が整ったという。
 五重塔(ごじゅうのとう)は、仏塔の形式の一つで、釈尊の遺骨を奉安するもので、仏教寺院において最も重要な建物とされているのだが… ここでは「魚鱗一切の供養」塔となっている。

<如何にも龍神様の霊験新たかな緑陰に聳える均整のとれた善寳寺の五重塔>

 山形と言えば出羽三山である。羽黒山、月山、湯殿山の三山の総称で古くから信仰の対象となった霊山で、修験僧の出羽三山信仰の場として知られる。
 善宝寺から鶴岡羽黒線を20㎞も走ると羽黒山の出羽神社に着く。出羽神社は出羽三山神社の修験の祖と云われているだけに歴史も古く来歴も複雑でどんな神様を祀って何があったのかは計り知れない。読むこともままならない。まずは末社の群が目を引いた。出羽三山には百一末社と称し、羽黒を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在している。

<羽黒山:出羽神社の末社群。大雷神社、健角身神社、大山祗神社……>



みちのく<6>湯野浜海岸

2010-09-23 | フォトエッセイ&短歌
 「五月雨を あつめて早し 最上川」(『おくのほそ道』:松尾芭蕉)の出羽大橋を渡って日本海側を南下する。庄内海岸砂防林の黒松が延々と続く、白砂青松(はくしゃせいしょう)100選の街道である。余りに立派砂防林となってしまったので、海が隠れてしまっているのが惜しい。砂地を利用したメロンの産地でもある。
 砂防林街道が切れると湯野浜の砂浜が豪快に展開する。鶴岡市湯野浜、夏の終わりの海岸では無心に少女が波に戯れている。明るい少女たちの声が潮騒とハーモニーしながら届けられる。

<こんな刻が誰にでもあったんだ。遠い昔の少年時代の淡い想い出をたどる>

 湯野浜(ゆのはま)温泉は日本海岸最大の温泉地海岸と云われ、日本海に沈む夕日を眺めながらの温泉が売りだ。もとの名は「亀の湯」という。<漁師が仕事を終えて浜を歩いておると、傷をおって弱った大亀が浜の砂にお腹をつけていた。「大きな亀。何をしているんじゃろう」と不思議に思い大亀が海へ帰った後、その砂に手を入れてみると「うわー、あったかーい。これはお湯じゃ」とびっくり仰天。「亀の湯」(湯野浜温泉)の故事である>
 寄せる波に打ち棄てられた靴が、転がっては留まり、留まっては転がっている。みちのくの秋はもうすぐそこまで来ている。

<暑かった夏もようやく終わろうとしている。濡れた砂が艶めいて光っている>

 湯野浜の「亀の湯」から2㎞ばかり入った平野の中にある曹洞宗の古刹:善宝寺(ぜんぽうじ)に寄る。本尊は薬師如来(やくしにょらい)で天慶(てんぎょう)年間の創建と言うから歴史は古い。創建のときに二竜神が姿を現し、法号を授けて寺内の貝喰池(かいばみのいけ)に身を沈めたという伝承をもつわが国有数の竜神信仰の寺としても有名である。
 山門、五重塔、龍王殿などの壮大な伽藍は1200年の信仰の歴史を物語って壮大であるが…、経営上の手腕もうかがわれる。

<善宝寺総門から山門(三門)を見る。三解脱門(さんげだつもん)で正門となる>

みちのく<5>酒田みなと

2010-09-19 | フォトエッセイ&短歌
 『氷点下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔にも雪がかかり、生きているものは自分と何匹かのネズミだけ。炎暑の夏には蚊やブヨに悩まされての厳しい毎日でした。亡き妻智恵子の幻を追いながら、自らの手で自らの生活を守り、信と善と美に生き抜こうとした高潔そのものの理想主義的な生活でした』山荘のパンフレットには高村の一人暮らしをそんな風に記している。
 現在の「高村山荘」は当時の小屋を保存するために村人がすっぽり覆ってしまった。長く保存するためにはやむを得ない処置とは云え少しよそよそしい。

<当時のあばら屋を覆っている現在の山荘。隙間から内部を見る事が出来る>

 花巻:高村山荘から再び東北自動車・山形自動車道に乗りあげて日本海側に向かう。と言うのも「地方を活性化するとともに、流通コストの削減」を図るという『高速道路無料化社会実験計画』という長たらしい政策が行われているからである。その役所は国土交通省道路局有料道路課である。ようするにタダで高速道路を走らせてそのプラスマイナスを分析して将来的には高速道路の無料化を検討するというものだ!
 無料箇所は37路線50区間の合計1,626kmが対象となっている。特に山形自動車道(山形北~酒田みなと=約100km)は長距離に及ぶ。「酒田みなと」は最上川河口に開ける酒田港の北部に広がる発展途上の港湾である。
  
<港湾都市に変貌を遂げている酒田港はエコ思考。風力発電が並ぶ>

 酒田港が重要な港として発展したのは江戸時代である。最上川の舟運により内陸部から運ばれた紅花や米、各地の特産物が酒田港に集められた。幕府はここを天領とし河村瑞賢に大坂・江戸までの海運路を開かせた。この航路を「西回り航路」と云い、北前船によって大坂・江戸に繋がった。特に大坂は天下の台所として日本経済の中心地になった。

<昔の面影もない酒田港。中国・ロシアや韓国が主要な相手国となっている>

みちのく<4>高村の独居

2010-09-15 | フォトエッセイ&短歌
 高村光太郎との出会いは教科書の『道程』である。<僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る ああ、自然よ 父よ……>中学生であったのだろか、今となっては、定かでないが、熱く道程の解釈をしてくれた国語教師の事を思い出す。
 その後、詩集『智恵子抄』で、あまりに有名な「あどけない話」に出会う。<智恵子は東京に空がないと言ふ、 ほんとの空が見たいと言ふ。 私は驚いて空を見る> 何とも綺麗な詩でイメージを掻き立てられた事か。
 ところが、高村は戦争が始まると、戦意高揚のための戦争賛美の詩を数多く発表している。終戦とともにその自分に恥じて岩手県の山奥に籠もり、懺悔の謹慎生活に入ってしまった。

<高村が蟄居した稗貫郡(ひえぬきぐん)太田村の雪の吹き込む粗末な小屋>

 そこは周囲に人家もない孤立したあばら屋である。たたみ三畳の小さな板の間に囲炉裏が切られそれに土間が続く。この粗末な建物で7年間も自分で切り開いた畑を耕し独居自炊の生活を送っている。
 かすかな隙間から内部を覗うと粗壁の壁土は欠落し、囲炉裏の自在鉤が黒く光っているのが見える。この小屋は現在、「高村山荘」として套屋(とうや)で被われ,昔のままの姿で保存されている。
 高村はこのあばら屋を< 三畳あれば寝られますね。これが小屋。これが井戸。山の水は山の空気のように美味。あの畑が三畝(うね)、今はキャベツの全盛です。……>と独居の生活を詩に描いている。
  
<当時の小屋は套屋にすっぽりと覆われている。隙間から内部を覗き見ると…>

 「高村山荘」の裏山を登って行くと「智恵子展望台」が整備されている。高村の智恵子哀惜の詩が続く。< 展望二十里南にひらけて 左が北上山系、 右が奥羽国境山脈、まん中の平野を北上川が縦に流れて、あの霞んでいる突き当りの辺が 金華山(きんかざん)沖ということでせう。智恵さん気に入りましたか、好きですか。後ろの山つづきが毒が森。そこにはカモシカも来るし熊も出ます。智恵さん こういうところ好きでせう>

<この丘から、病める妻智恵子との愛の絶唱を想い浮かべて山林孤棲を慰めた>

みちのく<3>高村記念館

2010-09-11 | フォトエッセイ&短歌
 奥州街道(おうしゅうかいどう)は、江戸時代の五街道の一つで江戸日本橋から陸奥白川(福島県白河市)へ至る街道である。更に福島から仙台までの仙台道、仙台から松前までの松前道も東北諸藩の参勤交代や蝦夷地開発のための交通絡として重視された。そのため、広義には、江戸から北海道の松前までを奥州街道と云っている。
 その奥州街道を青森で別れ羽州街道に入ると津軽平野のど真ん中に出て弘前城下に至る。津軽平野は、農業に適した肥沃な壌土であり、太平洋側のように「ヤマセ」に悩まされることは少く米作りが盛んである。

<津軽平野にそびえ立つ津軽富士(岩木山)を望む収穫間近の稲作地帯>

 津軽と言えばリンゴの産地。福島・長野など各地で個性豊かなリンゴが盛んに栽培されるが、青森リンゴの生産量は全国のほぼ半分を占めており,依然として津軽は日本一のリンゴ生産地である。
 本当においしいのは自然のままのリンゴだと農家の人はいう。「いくらおいしくても、見た目が悪いと売れない。色が悪くて傷のついたりんごが一番うまいのにね」「色を良くするために袋をかけると本当の味は出ない。おいしいのは自然のままだが、そうすると日に焼けて色は悪くなる。さらに虫の食害などで傷ができる。その傷を治そうとりんごが糖度を上げる(「なめら」という)ので、おいしくなるんだ」とも教えてくれた。
 傷つきリンゴが美味い秘密を聞いた!

<酸っぱいシャッキリ感を漂わせた青いリンゴ。青春のほろ苦さにたとえられる>

 津軽から東北自動車に乗り上げ花巻南で下りる。花巻と云えば宮沢賢治であるが、時間の事もあり、今回は高村光太郎に絞った。高村は太平洋戦争の末期、昭和20年5月に知己の間柄だった宮沢賢治の弟清六の家に疎開している。
 戦後は「日本文学報国会」の一人として戦争謳歌、戦意高揚の文学活動をした事を恥じて近くの山(岩手県稗貫郡:ひえぬきぐんの太田村)に小屋を作って閉じこもってしまった。7年後に十和田湖の「乙女の像」彫像制作を決意し東京に戻っている。ここに高村山荘と
高村記念館がる。

<光太郎の遺品が展示されている記念館。智恵子の切り絵などの展示もある>

みちのく<2>袰月海岸

2010-09-06 | フォトエッセイ&短歌
 平舘灯台を10kmも北上すると津軽半島随一の景勝地として知られる、袰月海岸(ほろづきかいがん)に達する。岬の先端:高野崎に立つと津軽半島冬景色の竜飛岬が津軽海峡の荒波を越えて見える。その先には北海道の松前半島がうっすらと続く。
 陸奥の果てである。海岸線は奇岩、怪岩がいたるところに突きだしているが、圧巻は柱状節理の断崖絶壁である。水平の地層が垂直に切り立って海面に突き出ている。柱状節理は、流れ出した溶岩が冷え固まるときに収縮するために、規則正しい伸長割れ目が生じたものである。

<イメージとしては干ばつでひび割れた地面を縦に切り取った断面という感じ>

 息をのむほどの青い海、その透明度は渓谷の湧き水のようである。海水浴や釣りなどが楽しめ、夜の沖合いはイカ釣り船の漁火で輝くという。
 展望大地から遊歩道で磯まで下りると「潮騒橋と渚橋」の2つの太鼓橋が架かっている。断崖と奇岩が入江に囲まれ、さいはての旅情が、朱の太鼓橋に漂っている。「潮騒橋と渚橋」何か、伝承があるのだろうか…

<津軽国定公園に指定されている「袰月海岸」。東津軽郡今別町袰月地内>

 先端の高野崎(たかのさき)には高野埼灯台が立つ。灯台を少し進んだ古道に「松蔭くぐり」という海岸沿いの難所がある。1852(嘉永5)年3月、吉田松陰は国防視察のために砲台(台場)を訪れ、その時に通行したとされる。
 吉田松陰と言えば「安政の大獄」で斬刑に処された、幕末の傑物であり、多くの門弟が明治維新を闘っている。
「国防視察」と言えば格好はいいが、津軽海峡を通行するという外国船を見学したくて通行手形無しで津軽藩まで無許可の旅となった。藩に内緒の離脱で、いわば脱藩行為である。帰郷した松陰は脱藩の罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けている。

<高野崎灯台は紅白の珍しい色彩。吉田松陰はここでも密航を企てたのか>


みちのく<1>松前街道

2010-09-02 | フォトエッセイ&短歌
 青森市から津軽半島の最先端:竜飛岬に通じる国道280号線が松前街道である。軒下を潜るように海岸に沿って走る松前街道(旧道)は、刻が止まったまま残暑の中に白く続いている。小さな漁港がポツンと現れては消えて行く。松並木が街道の面影を残して思い出したように現れる。
 平舘灯台のあたりから津軽国定公園になり、海岸線の素朴な美しさが100Kmに渡って続く。

<平舘海水浴場から平舘海峡越しに下北半島を望む。左に北海道も望まれる>

 平舘海峡を目前に覗う平舘灯台の地に平舘砲台跡がある。江戸近海ならともかくこんな陸奥(みちのく)のひなびた海岸に砲台を構えたのは何故か。1847(弘化4)年、ペリーが黒船4隻で浦賀に来航する6年前、この平舘村に異国船が入港、上陸したオランダ人8名が食料を要求するという大事件が起きたのである。
 驚いた幕府は沿岸防備のために弘前(津軽)藩に命じて津軽半島の各所に西洋式砲台(台場)を構えて外国船の攻撃を命じた。緑陰に静まる平舘砲台はその一つで、高さ2m程の土塁を波打ち際に築いてある。    

<松を植え砲台が海から見えないように工夫。砲が火を噴く事はなかった>

 暑い夏だった。気象庁は日本の平均気温の統計を取り始めた1898(明治31)年以降最も高くなったと発表。ヒートアイランド現象で都市の気温が高くなったと言っていたが、都市化の影響の少ない地方都市でも凄まじい気温上昇である。青森でも平均気温を2.4度も上回っている。
 すでに、二十四節気の処暑も過ぎ「朝夕は冷気が加わり、涼風が感じられる頃」なのだが一向にその気配はない。残暑厳しい秋口である。陸奥の旅から帰京「風に吹かれ」再開である。

<暑いなア~夏バテだよ。それにしては少しも体重は減らないし魚は美味いし>