年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

季節は桜

2012-03-31 | フォトエッセイ&短歌

 二子玉の下流、多摩川の堤に数十本のソメイヨシノが植わっていて間もなく花見で賑わう。その中の何本かが1ヶ月も早く開花する。その事を知ったのは20代の終わり頃であった。
 新米教師が始めて卒業生を送り出す卒業式を迎えた朝、絶壁をよじ登りきったような高揚感と疲労感、あるいは解放感もあったか。しばし茫然と多摩川の堤に足を止めて一服した。3年間の苦い失敗と幾多の悔恨が生徒の顔と共に思い出されてくる。難しい時期の思秋期の子供たちの教育なんて体験を積み重ねていかないと分からない。文字通り「分かったような顔をして」無我夢中でやって来た新米担任教師の3年間、少しは彼等の心に届くものがあったのか…。ゆっくりと吸った一本のマイルドセブンの紫煙が何とも美味かった。もう40年も前の事である。
 3月初旬、乾いた風は冷たくサクラの小さな蕾は堅く閉ざされ春の気配もない。ところが数本のサクラが見事な風合いで咲いているのである。弱い朝陽の中でそこだけが、一足はやく春が訪れたかのようだった。式場の壇上にはピンクの桃と菜の花が溢れるように飾られていた。

 以降、毎年1ヶ月早い花見のスポットを秘かに訪れる。五分咲きの年もあれば満開の時もある。ソメイヨシノ(染井吉野)の早咲きなのか、別の品種なのかは分からない。何となくソメイヨシノは大和の吉野あたりから来たサクラと思っていたのだが。実は江戸末期、江戸の染井村(豊島区駒込)の植木職人達によって育てられたサクラだという。エドヒガン桜とオオシマザクラの自然交雑種ではないかと言われている。
 今年は寒冬で早咲きの花見のスポットも半月以上も遅れてようやく開花した。

<染井吉野に先がけて咲いた満開の河津桜>

  咲き満ちる里の桜のてんこ盛り園児の声を含みて丸く

  見上げればピンクの傘を突き抜けて桜前線東北に向かう

  樹齢経し染井吉野の割れ目から花一輪の跡継ぎの若木

  春の夜の街灯切れし月明かり河津さくらの一枝揺れる

  春の日の光のどけき伸びすれば老いのため息節々が泣く

  


石臼挽き

2012-03-22 | フォトエッセイ&短歌

 府中の旧甲州街道と府中街道の交差点あたりは江戸時代の「番場の宿」で結構それらしい面影を残した楽しい街である。交差点を200mほど西に進むと塀に石臼を幾つも塗り込んだ割烹料理屋の塀がある。何故、石臼(いしうす)なのか意図は分からないが面白い企みで、歴史を演出する雰囲気はある。
 とは言っても石臼を知っている者が少なくなった。まして、使用の目的や使い方を知っている若者はいないのではないだろうか。資料館か民芸館に行けば江戸時代の「庶民のくらし」のコーナーに展示されているので形は分かるが、使用方法までは判らない。説明によれば、「まるい厚い石を二つに重ねた製粉器。上の雄臼の穴から穀物を落とし込み、上の石をまわして、石の重みで粉にする道具」とこんなことが書かれ、1400年前には日本に伝えれたともある。
 昔々の道具のようだが、食料事情が悪かった戦後は少し田舎に行けば殆どの家庭にあって日常的に使っていたのである。麦・大豆・甘藷・ソバ・屑米(粃:しいな)などを石臼で粉にしてまんじゅうやスイトンなどの食材にしたのである。
 ギザギザの「目」が付いた、下臼と上臼をごろごろと擦り合わせて粉にするので長い間使っていると石が摩滅して「目」が無くなってしまう。すると、ゴロゴロと回り難くなり、製粉が出来なくなる。すると、石屋さんに「目立て」をしてもらうのである。
 私は石臼派最後の世代である。戦後の食糧事情が極端に悪かった時期だったので、麦や屑米を石臼で挽いてウドンとかスイトンなのど「自家性食材増産」に励んだのである。思い出の深いのは、サツマイもを薄く切って天日干しにして、それを砕いて、石臼で粉にする。その芋の粉を練って握って蒸かしたのが「芋団子」である。真っ黒けのウンコ状の何とも見てくれの悪い「団子」であるが、蒸かしたては結構な美味で嫌いではなかった。戦後の代用食の見本みたいな代物であったが、忘れられない匂いと味であった。そんな食生活が刷り込まれているのか、サツマイ、ジャガイモ、サトイモ、ヤマイモと芋類は大好きである。

<石臼を塀に塗り込んだ、割烹番場屋の塀は見応えがある>

 

  街角の石臼並ぶ黒塀の割烹料理の味は円やか

  軽やかに石臼廻せばハラハラと野趣の香りの粉は積もりて

  麦大豆粃(しいな)蕎麦の製粉に臼ゴロゴロの感触が腕に

  ゴロゴロと石臼の響き遙かなり戦後も遠く平成24年

  街道の宿場の跡の賑わいに老いたる足もつられて歩く


地盤沈下

2012-03-17 | フォトエッセイ&短歌

 東北大震災から1年、哀しみが癒えぬまま各地で様々な慰霊式や追悼集会が行われた。「震災のあの時(過去)」「復興の取り組み(現在)」「これからの生活(未来)」被災者も直接被害を被らなかった者もあの巨大地震に文明とは何だったのか、反省を込めて対面せざるを得なかった。
 分かった事は日本には「動かざる大地」などはないということである。どこでもいつでも「大地は地震によって揺れ動き」自然災害に見舞われうるという事実である。この自然災害の予知情報を確実にして災害を最小限に止める人間の知恵が問われている。
 3月11日14時46分18秒から始まった地震は観測史上最大のマグニチュード9.0と発表され、宮城県では震度7を記録、気象庁は「東北地方太平洋沖地震」と命名した。まさに北海道の利尻から鹿児島まで日本列島が揺れ動いた。その結果、日本列島は、縮んだり・伸びたり・沈降したり・隆起したり、海岸線も海抜も姿を変えてしまった。南三陸の志津川港周辺、鉄工所や船舶エンジン工場があった場所は完全に海になってしまった。
 国土交通省の特別機関「国土地理院」の調査では、今回の津波で青森県から福島県で計443平方キロメートル(東京23区の7割)が浸水したと発表、今後これらの浸水地域がどうなるかも不透明だという。
 早々と国土地理院は測量を終え、地図の書き換えも終わり「全国都道府県市区町村別面積調」も完了した。しかし、「被災した自治体に気の毒だ」として、当面は地図を更新しない方針だという。
 地盤が沈下し面積の減少した市町村への地方交付税の減少につながるからだという。ウッ 復興支援で増額されるのが筋だろう。面積が減ると地方交付税額も減額されるという事なのか?!こんな事もあるんだ~。しかし、マア、地方交付税が減少するから日本の国土境界である海岸線の見直しをしないとは信じがたい。そこで交付税の算定方法を検索したら「基準財政需要額=単位費用×測定単位×補正係数」こんな式があったが、何だかわからん。

<地盤沈下で海水が引いていない。現在はどうなっているのか松川海岸付近>


  マントルに浮かぶプレートその上に明日も知れぬ文化を築く

  プレートは力競べでぶち切れて地殻を破るマグニチュードが

  海底の巨大ナマズのヒゲ動く地割れ海荒れ列島は歪む

  あの日から耐震免震超頻度 南海トラフまだまだと笑う

  歩けずに倒れ込んだと竹やぶに針の手休めぬ亡き母を想う


安全神話

2012-03-12 | フォトエッセイ&短歌

 3月11日、東京電力福島第一原子力発電所で世界最悪レベルの事故が起きてから1年が経った。被災地の復興は遅々としながらも進んでいるが、原発事故に関わる復旧は進まないどころか、混迷が広がっているというのが感想である。
 原子炉のメルトダウンによって、大量の放射性物質が広範囲に放出され、福島では16万人が避難生活を続け、県外の6万2千人は行政側でも把握しきれていないという。政府は「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」に線引きし住民の帰還を進めるというが、3割の人は戻りたくないという。
 「絶対安全」であったはずの原発の最悪事故の真相は未だ明らかにされず、放射性物質の人体への影響は曖昧で、除染の見通しは立たず、停止から廃炉までには40年はかかるとすれば、故郷への思いを断つ人もでよう。
 それにしても、原発の何たるかを知らなかった事を振り返る。原子力発電も核兵器もウランやプルトニウムを使った核分裂反応によって生じる莫大なエネルギー(衝撃波と高熱)を利用するという点では共通している。被爆国の日本が世界有数の原発大国として18カ所・54基もの原発が設置されていたのだ。
 3.11は「安全神話」から私たちの目を覚まさせたという貴重な経験となった。原発推進を言ってきた専門家の中には「原発のある自治体の危機管理が拙かった。万一に備えて徹底的な事故対応が必要、住民側にも油断があった」と今になって指摘した。言語道断であろう。「安全神話」「原発マネー」を盾に住民の原発に対する疑義を許さず、批判を押さえ込んできた事を棚に上げて「住民の油断」では被災者は浮かばれない。
 先ずは、一度、原発を停止して「原発事故を想定内」にして、今後どうするかを議論する絶好の機会である。福井県の高浜原発3号機・新潟県の柏崎刈羽原発6号機が定期検査のため原子炉を完全に止める。続いて北海道の泊3号機が4月下旬に定検に入ると、国内54基全ての全ての原発が止まる。推進派は電力不足を声高に叫び再稼働に動き出している。
 自然エネルギーへの転換と節電の工夫が夏に向けて問われる事になる。3月11日は「原発ゼロ」「原発なくせ」行動が全国150カ所で実施された。

<川崎平和公園:原発ゼロカウントダウン inかわさき>

 

  原子炉の瀟洒な建屋水爆し爛れ狂った竜骨晒す

  作業着に身を固めての会見はメルトダウンの説明も出来ず

  海望む原発城下の見納めは透明魔神のセシウムの舞い

  モニターの原子炉建屋破砕して安全神話の自縛も解ける

  戒厳の封鎖地点を越え行けば阿鼻叫喚の廃墟の地獄か

  早春に溶け込んでいるステージは原爆ゼロの思い膨らむ


啓 蟄

2012-03-07 | フォトエッセイ&短歌

 雛祭りが過ぎ、春の訪れの足音が聞こえ始める、二十四節気の第3:啓蟄(けいちつ)を迎えた。大地が暖まり冬眠をしていた虫が穴から出てくる時季、柳の若芽が芽吹き、ふきのとうの花が咲く早春である。
 ところが、今年は厳冬で寒さも長引いている。梅・福寿草など春を届ける花の開花の遅れが伝えられている。毎年、この時期には屋敷の土手に芽吹いた蕗の薹(フキのトウ)をザル一杯届けてくれるKさんはまだ訪れない。蕗の芽吹きも遅れているのである。春一番の蕗の薹は香りもほのかで柔らかく天ぷらにすれば絶品のツマミになる。
 燗酒に蕗を肴に一杯やりながら土から這い出した虫たちと季節を共有するのも悪くはない。春は廻り来たのだ。特集と銘打った震災被災地のニュースが、今の日常の暮らしと直後の混乱とを並べるように伝えられる。震災直後、公表を差し控えた映像や記録も明らかにされ始め、改めて当時の緊迫した様子が分かる。九死に一生を得た弾ける笑みもあれば、九死に一生を得てしまった苦渋と嘆きの哀しみもある。津波に消えた孫を思う老人の顔には生き残ったという喜びも生気もない。幸運と不幸、生死を別けた一瞬の出来事を背負って生きていかなければならない多くの人もいるだろう。
 茶の間で映像を眺める私に何が出来るのだろうか。震災1周年、遅い春も自然の営みなら妖怪のような津波も自然現象である。人間は大自然の中の小さな1つの存在者なのだ。

<まだ、寒かろう。ツツジの頭にささやかな思い遣りの帽子が贈られていた>

 

  啓蟄の大地緩みし荒川の様にもならん河辺のカエル

  木の芽時急ぎ穴出ず虫共が凍て吹く風にしばし留まん

  冷やでよし燗酒もよし啓蟄の居酒屋狭し「なでしこ」の快

  ゴミ箱の酒ビン凝視し医師ひとり仮設のドアを押し開けて入る

  蕗のとうは雪の下で準備された 百合子の好んだ色紙を想う


横行結腸

2012-03-01 | フォトエッセイ&短歌

 人間ドックの超音波検査の結果、大腸内視鏡検査を受ける事になった。検査で数個の大腸ポリープが発見され、組織を採取し病理検査を行ったところ悪性腫瘍(癌腫)であることが判明した。
 大病で入院するという経験が無かったので、ガン(横行結腸癌)の診断には些か慌てたが、無症状で自覚症状がなく、医師の「いずれ取るが、急ぐことはない」と長閑な対応だった。そこで、私も長閑に「60を越えているけど、放置した場合はどうなるのか」と問うと「やがて肺、肝臓、リンパ節に転移し苦しんで死ぬこと請け合い。手術は想像しているより簡単です」との返事が返ってきた。                
 手術後の復帰の準備期間が必要と考えて夏休み直前の2003(平成15)年7月に手術をする事にした。術名は腹腔鏡併用結腸切除術及び胆嚢摘出術である。いわゆる、開腹しないで行なう内視鏡手術である。ヘソの上部に穴を開け、そこから大腸を引き出し病変部位を切除するのである。この方法は腸管同士がうまくつながり、縫い合わせにミスが無ければ手術創が小さいので回復は早い。
 私は10日目には退院し、普通食で杖を片手に歩け歩けを励行した。退院時の医師の指示であったが、腸を切断して、こんなに歩いて良いものかと心配したものである。が、この有酸素運動に効果があったのか、術後の経過も良好で1ヶ月後の健診で「心配なし」のOKが出た。再発の8割以上は術後3年以内、5年以上再発しない場合が完治の目安だともいう。回復祝に帰りには熱燗1本をしみじみと味わった。3ヶ月後には晩酌をやったからアルコールは悪くはないのかも知れない。
 その後も大腸内視鏡検査の度に複数のポリープを切除して来たのではあるが、悪性腫瘍には至っていない。今年は術後9年目、何処かにガンが潜んでいるかも知れないが、横行結腸癌に関わる再発は無いだろうと考えている。
 古稀を迎え、来年のポリープ検査はどうしたものかと、ふと、改めて病院を振り返る。

<世話になった病院だが、余り行きたくない所だ>

  モニターにオレンジ色に輝きぬ見事なポリープ医師称賛す

  手術終え点滴の管ボンヤリと動くを知って昏睡に入る

  人生は五十年だよと癌が云う後は付録だと私が応える  

  七階の窓を数えて思い見る行きたくもなし懐かしくもあり

  もういいか再発もなく古稀迎え肩身も狭し高齢者社会