年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

丹沢・三保村

2008-04-27 | フォトエッセイ&短歌
 富士山東麓の御殿場を源流とする鮎沢川は丹沢山地と箱根山の間の谷を抜け神奈川県に流入し酒匂川(さかわがわ)となる。その後、御殿場線とほぼ並行して流れ、小田原に達し相模湾へ注ぐ二級河川である。
 この酒匂川の上流に酒匂川沿岸の洪水調節と神奈川県全域への上水道供給を目的に「酒匂ダム建設」が始まったのは1969年。ダム底に223世帯が水没したが、当時の山里の生活は丹沢湖記念館で偲ぶ事が出来る。せめて消えゆく村の記念にと「酒匂ダム」は湖底に沈む旧・三保村に因み「三保ダム」へと変更された。
 このダムによって出来た人造湖は、丹沢山系にある事から「丹沢湖」と命名された。丹沢湖周辺は丹沢大山国定公園に指定され人造湖であるが周囲の自然とよく調和しており、「かながわの景勝50選」・「ダム湖百選」にも選ばれ観光地に変身した。

<小雨に煙る永蔵橋。天気が良ければ後景に富士山がのぞく景勝スポット>

 ダムといえば「黒部ダム」の壮大華麗なアーチ式ドーム型を想像するが、「三保ダム」は土木工事の塊の様な鈍くさいロックフィルダム。ロックフィルダム工法もいくつかあるが土質遮水壁型(どしつしゃすいへきがた)と呼ばれるもので、マア簡単に言えば、粘土や土砂や岩石を谷間に放り込んで堤を築いて流水を貯水したダムということだ。

<土質遮水壁型ロックフィルダムの特徴は土盛りの堤なので自然の感じがある>

 周囲の自然景観との繋がりや一体感があって優しい雰囲気となる。とは云え、湖水の反対側は壮大な土盛りの斜面を見下ろすことになる。そして、この三保ダムの特徴としてロックフィルダムとしては異例ともなる5門の水門(ゲート)を有する洪水吐きの存在であるのだそうだ。これだけの大規模な洪水吐きを有するロックフィルダムは全国的にも稀少なものだとか。
 堤の高さは95m、長さ587m、総貯水容量649000000 m³と言ってもピンとこないが、川崎の西長沢浄水場に送られる市民の水ガメになっているというから驚きだ。そうか、丹沢湖の水の世話になっていたのか。所在地:神奈川県足柄上郡山北町大字神尾田

<西側山裾に造られた5門の水門(洪水吐き)。ガバッと流れたら爽快だろう>



幻想の大倉山

2008-04-23 | フォトエッセイ&短歌
 坂を登りきって大倉山公園に足を踏み入れると、「古代ギリシャ風神殿」を想起させる白亜の重厚な建物が展開される。「横浜市大倉山記念館」(指定有形文化財)である。列柱の下部が細くなっているが、これはプレ・ヘレニズム様式。プレ・ヘレニズムとは、ギリシャ文明が栄えるより前にエーゲ海で栄えたクレタ文明に由来する様式で、世界的にも類例を見ないとか。
 <クレタ文明は紀元前2000年頃にエーゲ海のクレタ島に栄えた文明で、クノッソス宮殿跡などがよく知られている>
 「東西文化の融合」を掲げる大倉邦彦に共鳴した古典主義建築の第一人者、長野宇平治の設計による「大倉精神文化研究所」である。1981年、横浜市が寄贈を受け、現在はギャラリーやホールや図書館など市民の文化芸術の活動拠点の一助にもなっている。

<大倉邦彦(1971年没)は日本橋で紙問屋を経営。1932年に研究所を開設>

 大倉邦彦の人となりは知らない。ガイドによれば、佐賀の士族江原家の産、上海の東亜同文書院を卒業後、大倉洋紙店社長に就任する。日本の教育界・思想界の乱れを憂えて教育や思想文化研究に力を注いだ。その研究機関として「大倉精神文化研究所」を開設したとある。
 <丘を地球と見立て、敷地を世界地図の形に造園して、その中心位置に深さ三十尺の穴を掘り、ここを地球の芯としてそこに四尺四方の石棺を据え、その中に青銅の柱を立てた>とあるがよく意味がわからない。が1945年、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘禁されたとあるから、その方面で頑張ったのであろう。
 
<階段上部は吹き抜けで独特な空間を構成し、登る者を獅子と鷲が睨んでいる>

大倉山の高台に建つ記念館の周辺には松が大きく生長し、梅林、桜、ハナミヅキ、それにコブシ、コデマリ、と言った四季折々に花が咲く。正面玄関左脇にある榧(カヤ)の木は、樹齢200年ぐらいとか。記念館を大きく覆うように大きく育っている。

<塔屋、外回りの下部が細くなっている列柱にエーゲ海を思わせる春の陽が>

薫る大倉山

2008-04-20 | フォトエッセイ&短歌
 東急東横沿線にはいくつかの公園があるが、その中で最も豊かな自然と見事な建造物を持っているのが大倉山公園である。大倉山駅の北西側の急坂を登っていくと突如ギリシャ神殿を思わせるような「横浜市大倉山記念館」が聳え立つ。
 その記念館の裏側斜面が「大倉山梅林」である。歴史を辿りながら梅の香りを楽しむ散策も悪くはない。雑木林の合間に畑が点在する名もない丘に大倉邦彦が「大倉精神文化研究所」を建てたのは1932年である。
 いつしか丘陵は「大倉山」と呼ばれるようになり、東横線の「太尾駅」も1934年に「大倉山駅」と改称された。東急電鉄が乗降客誘致に梅林を造って開園していた「太尾公園」も「大倉山公園」と改められたという。
 電車賃を風流な花見客で稼ごうとした電鉄は偉かった。更に線路を挟んだ対岸に大倉山学園をつくって教育事業でも稼ごうとしたが、教育と営利の両立は難しくこれは失敗し今年を最後に閉校される。
 現在、20種類200本の梅の木が植えられ、色とりどりの花が楽しめる。紅梅に白梅、一重に八重、垂れに横にとそれは見事である。桜のボア~とした華やかさとは違う凛としたした華やかさが魅力である。青空に映えて咲く小さな白い花は心を和ませる。

<遅咲きの花も終わって新緑の葉に変わっている頃だろう。花の命は短くて…>
   
<ニュースを独占している後期高齢者も春の陽を浴びてゆったりと花見を満喫>


 梅林を抜けて北西の方向に歩いて行くと鶴見川の新羽橋にでる。流域の形が夢を食べる獏(バク)という野獣に似ていることから「バクの川」として親しまれている。しかし、「2002年、全国一級河川の水質現況」で、鶴見川の水質はワーストワンと報道され、バッチイ川として一躍有名になってしまった。
 この鶴見川、丘陵地と台地の間をバクの面のように蛇行しながら緩やかな勾配で流れる。河床は浅く、川沿いも低くて平らな沖積地が連なっているので、昔から大雨のたびに洪水・氾濫をもたらす暴れ川。2005年には「特定都市河川」に指定され洪水氾濫による災害対策が進んでいる。

<「バクの川」の特徴がよくわかる大曽根台地点。前方は綱島橋あたり>

探照灯の春

2008-04-13 | フォトエッセイ&短歌
 山脈が続いた川崎の「山岳地帯」も小田急多摩線の乗り入れによって一気に開発されたが、古沢地区は「市街化調整区域」に指定され、閑静な住宅と長閑な里山が残る。田舎風の田園風景の中に時代を思わせる家屋や竹林、一面に広がる畑に点景する農作業なども見ることが出来る。
 谷内六郎の絵から切り取った、そんな風景の中に「平和の碑」があった。「第二次世界大戦時の末期(1944年)、海抜70mの地点に米軍の爆撃機を照らし出すための探照灯(サーチライト)基地が建設され、その基地跡の記念碑」だという。
 黒川照空隊陣地の様子は不明だが、狛江に<照空燈(夜間飛来する敵機を地上から照らし出す兵器)を操作する小部隊>が駐屯していた。この狛江陣地は陸軍の高射砲第112聯隊第3大隊第14中隊第6分隊で、中央線以南、京浜地帯より北の地区に多摩川をはさんで配備され、高射砲六十七門、照空燈十八を装備する精鋭であった。とあるからこの支隊であったのかも知れない。
都心に向かう爆撃機:B29のコースは決まっていて、偏西風を利用して西から襲ってくる。そのため高射砲陣地や照空陣地は飛行コースに沿って迎撃体制をとったが、機能する事はなく都市の無差別爆撃を許した。



<里山集落にも戦争の爪痕が眠っている。桃の根元の地神塔と並ぶ平和の碑>

 古沢地区は鎌倉古道が通る。探照灯基地跡の反対側斜面の山影に、九郎明神社が建つている。伝説によれば『昔、義経・弁慶が古沢集落に差し掛かったとき日が暮れてしまい、うら淋しいあばらや家に一夜を乞うと快く泊めてくれた。翌朝、義経はその礼として一振りの太刀を贈って鎌倉街道を北に向けて旅立った。村人はその太刀を村の神社に奉納したという。それからその神社を九郎判官義経の名をとって九郎明神社とした』とある。
 多くの源九郎判官義経伝説の一つであるが、近くの寿福寺にも義経と弁慶の鐙(あぶみ)があり「弁慶渡らずの橋」の伝説もあるので、奥州に落ち延びる時に滞在したのかも知れない。
 頼朝との確執に疲れ藤原氏を頼りに北を彷徨う義経一行の伝説にふさわしい昼なお暗い竹林に囲まれている。

<鬱蒼と茂る竹林に囲まれた石段。タケノコの季節だ。佐藤家でご馳走になる>


切支丹屋敷

2008-04-08 | フォトエッセイ&短歌
 『自転車』という志賀直哉の作品の一節、「恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ」。志賀は切支丹屋敷が恐ろしかった訳ではなく、ブレーキがない自転車で切支丹坂を下ったのが、恐ろしかったと言っているのだが(少年直哉の頃の自転車にはブレーキがなかったのか…)。
 織田信長のキリシタン保護政策もあって信者75万人。恐れをなした為政者はキリシタン禁止令を出したが思うように徹底しない。江戸時代、鎖国禁教政策のさなか「島原の乱」が勃発し一気に徹底弾圧に踏み切った。
 宗門改(しゅうもんあらため:日本人たる者、必ず何処かの寺院に所属せよ)を行って、キリシタンをあぶり出して処罰した。この初代宗門改役(奉行)に任じられたのが井上筑後守政重で小石川茗荷谷の屋敷内に牢屋を設けた。切支丹を捕らえて審問し処刑する牢獄であった。人々はこの屋敷を切支丹牢獄屋敷とよんで恐れた。
 後日談がある。1708年、イタリアの宣教師シドッチは屋久島に潜入、逮捕されこの屋敷に拘束される。新井白石は彼を尋問し『西洋記聞』を著した。シドッチの供述は鎖国下の日本に国際的視野の一条の光を差し込ませたが、在牢5年目で牢死。

<残虐な弾圧史に語られる「八兵衛の:夜泣石」の悲しい伝説が語られている>

 大正から昭和に、それは「大正デモクラシーの余韻」と「満州侵略が本格化する軍国主義台頭」の狭間でもある。社会主義運動・労働運動はダイナミックに躍動していた。
 熊本から上京した貧窮の小作人の息子(徳永直)は小石川の博文館印刷所に植字工として勤務。操業短縮に反対し大争議を闘うが工場閉鎖と官憲の弾圧で敗れ、同僚1700人とともに解雇される。
 徳永直は、この争議を基に『太陽のない街』を執筆し、無名の一印刷労働者が書いたプロレタリア文学の傑作としてプロレタリア作家として独自の位置を占める。
 貧しい労働者長屋の様子を『太陽のない街』は描いている。 ~「谷底の街」は事実「太陽のない街」であった。千川どぶは、すっかり旧態を失って、無数の地べたにへばりついたようなトンネル長屋の突出しに、押し歪められて、台所の下を潜り、便所を繞り、塵埃と、コークスのカラと、空瓶や、襤褸や、紙屑で川幅を失い、洪水によって、やっとその存在を示しているに過ぎなかった~。

<『太陽のない街』の舞台となった共同印刷株式会社。現在はその面影は無し>

 都営三田線:白山駅の近くに白山神社ある。将軍家の白山御殿の屋敷神であったが。一時、歯痛に効く流行神として賑わったとか…。ここから、共同印刷を通り切支丹屋敷に向かう。

<境内には遅い桃が咲き、春の陽がゆらゆらと射す。後は東洋大学の校舎>

さくら咲く

2008-04-05 | フォトエッセイ&短歌
 この時期外国人の花見客で賑わう芝・増上寺はかって寺領1万540石(寺格百万石)の最大の寺院。京都・知恩院と並ぶ浄土宗の拠点で江戸時代には修業僧や学問僧など常時3千人もの僧侶集団が生活していた。
 家康が江戸入府の折、粗末な増上寺の前で存応和尚(ぞんおうおしょう)に対面したのがきっかけで徳川家の菩提寺として隆盛を極める事になったのだ。
 また一説には江戸城の魔除けの役割を持っていたからとも言われる。古くから東北の方角を「鬼門」、南西を「裏鬼門」として恐れられた。その為に東北の方角に上野・寛永寺を南西の方角に芝・増上寺を祈願寺として建立したともされる。何てったって徳川宗家を守護する訳だから莫大な経済的保障を与えたのであろう。


       
<増上寺大殿:本堂に映える芝居の舞台のような満開のサクラ>

 家康は日光東照宮に葬られるが、葬儀は増上寺で執り行うよう遺言する。2代将軍:秀忠と正室が増上寺に埋葬されるに及んで徳川家の菩提寺として盤石の地位が築かれた。だが物事には思わぬ落とし穴もあるものだ。3代・家光は「東照宮」、4代・家綱、5代・綱吉は東北の祈願寺「寛永寺」に葬れと遺言。
 芝・増上寺の威勢は一気に凋落の憂き目に遭遇、危機感を抱いた増上寺側は抗議行動を展開するが寛永寺側も利権付きのこの栄誉を手放したくはない。熾烈な菩提寺争いは結局は交互に葬られることで一件落着だとさ。

<かっての広大な寺領に東京タワーが聳える。新旧の塔、ミスマッチでもないか>

 『今鳴るは芝か上野か浅草か』。現在も除夜の鐘でおなじみの増上寺の大梵鐘は、江戸三大名鐘の一つに数えられ、朝夕六度ずつ江戸の町の隅々まで響きわたったという。

<将軍家綱の命により鋳造された高さ3m、重さ約15トンの風格ある大梵鐘>

桜咲く

2008-04-01 | フォトエッセイ&短歌
 日本には古来より「ウメ暦」「ヤナギ暦」などの自然暦がある。花や鳥の様子で農作業の手順を判断したのだ。中でも「サクラごよみ」は優れた自然暦である。何故ならパッと開花し、サッと散るので誰の目にもはっきりした季節の指標花となり、農耕開始を告げるからである。そのためか、各地に春の祭礼の日(花見の日)を定めて『花見に行き、物忌みする風習』が残っていたという。
 春の陽に盛り上がって咲き誇る満開の桜は目を奪われる美しさである。が既にその時はハラハラと散りさっていく。儚い花の命は、また人の命の儚さをなぞっているのか。
 哀しくも二度と繰り返してならない特攻隊を描いた映画「ホタル」(監督:降旗康男・高倉健主演)を想う。
 貴様と俺とは同期の桜/同じ兵学校の庭に咲く/咲いた花なら散るのは覚悟/みごと散りましょ国のため。元の詩は「少女倶楽部」に発表された西条八十の「二輪の桜」。君と僕とは二輪の桜 /積んだ土のうの影に咲く/どうせ花なら散らなきゃならぬ /見事散りましょ国のため

 3月初めから気象庁が発表する「染井吉野(ソメイヨシノ)の開花予想」を示すのが「桜前線」であるが、これはマスコミの造語で気象庁の公式用語ではない。気象庁の資料では、サクラの「開花予想の等期日線図」というのだそうだ。気象庁が示す「開花」とは、花が5~6輪、開いた状況。東海・関東地方では約7日で8割開花しそれを満開と称するが同時にハラハラと散り始める。
 今年は「桜前線」の北上が早く、加えて一気に満開状況で、予定された桜イベントの時には桜吹雪となって散り去ってしまいそうである。その桜吹雪の華やかさは花見の最後のステージとして愛でられているが、それが終わると葉桜である。
          
 桜咲く満開の芝公園のサクラ越しにそびえる東京タワー。東京のシンボル・観光名所として知られる東京タワー(日本電波塔)もすでに建設後、半世紀。経済成長のシンボルとして注目を集めた世界一の自立鉄塔も今その二代目が生まれようとしている。頂点より赤色(インターナショナルオレンジ)と白色を交互に配した障害標識ともなっているが、曇天で鮮やかな彩りとはならなかった。