年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

頭の良くなる湯

2015-12-28 | 俳句&和歌

◇◇◇  頭の良くなる湯

  師走も下旬、カレンダーが磯野波平氏の髪の如く侘びしくなった某日、暖冬で雪が無いというので蔵王山麓の青根温泉行を思い立った。例年なら根雪がしっかりと根付いてノーマルタイヤでは入れない山腹でも乾いた寒風だけで雪の気配は全く無い。
 宮城県柴田郡蔵王山麓の青根温泉は仙台藩62万石の伊達正宗の湯治場として1546年に湯小屋が開かれたのが始まりというから歴史は古い。掛け流しの湯でお殿様の気分に浸れる。湯元不忘閣にはそれにまつわる古文書なども展示されていて物語は尽きなかった。
 侘びた木造のすき間から木枯らしが吹き込む長い廊下を進み「御殿湯」に向かう。途中、に「頭の良くなる温泉」の能書が目についた。何処の温泉にも「効能書」があるが、ズバリ頭が良くなる温泉というのは始めてである。
 蔵王山中にある『三階の滝』には大カニが住み、『不動滝』には大ウナギが住んでいました。大蟹は滝壺(住み家)が狭くなったので大ウナギの滝壺が欲しくなり、壮絶な戦いを挑んでウナギをハサミで切り刻んでぶん投げました。
 頭部は青根(あおね)に、胴体は峩々(がが)へ、尾部は遠刈田(とおがった)に飛んで行きました。その結果、青根温泉(頭痛、眼病に効能)になり、胴体は峩々温泉(胃、腸、肝臓に効能)になり、尾は遠刈田温泉(神経痛、婦人病に効能)になったんだと。
 何だか、頭が痛くなりそうな話ですが、山本周五郎がこの不忘閣で「樅の木は残った」を執筆したというのも納得!


  雪降らず山は眠れず凩に波濤の如く裸木荒ぶる

  吾も無く顎まで浸る温し湯に粒子となりてふるさとに還る

 


   稜線に今年が烟る冬の暮

   枯萩の青根湯殿の野面積み

   ビル風は枯葉と缶をこき混ぜて

 

 

※野面積み(のづらづみ)=自然石をそのまま使用する石垣の積み方


 


同性パートナー

2015-12-16 | 俳句&和歌

◇◇◇  同性パートナー

 海老名市議会が12月3日、鶴指眞澄市議の辞職勧告決議案を賛成多数で可決した。「重大な人権侵害。市民、LGBTをはじめ多くの方々の信用を失墜させ、議会への信頼と名誉を著しく傷つけた」という珍しいケースである。
 同性愛者は「生物の根底を変える異常動物だ」との発言に対する議会の反応である。実は、鶴指議員は「異常人間を正当化した報道はするな」「マスコミの報道は倫理観に欠けている」と報道のあり方を問題にして、その例として上げたのである。ゲイだのレスだの「異常動物」に「優越感」を持たせるような報道の姿勢がケシカランという事である。どちらにしても時代錯誤で軽率過ぎる発言である。
 昭和19年の生まれというから「同性婚」・同性パートナー制など云う人間のあり方を理解出来ないし、想像力も及ばないに違いない。余程、腹に据えかねたのであろう。
 渋谷区では、同性カップルに対して「結婚に相当する関係」と認める「パートナーシップ証明書」の発行に踏み切った。申請者の嬉しい弾けるような笑顔のカップルが、写真付きで報道された。鶴指市議の憂国の悩みは尽きる事はない。
 「こんな人生の選択の幅があったなら私の人生替わっていたかも知れない」と子育ての終わった友人女性の溜息にドッキリ…、案外多いのかも知れない。

 


 零れ灯に落葉踏み行く酔い深く青春バラード口にしながら

 行き行きて老骨さらし鎮もれる解体を待つ昭和の社宅


   

   居酒屋の灯がまばたいて夕しぐれ

   高架下木枯らしまとめ束にして

   灰色の街に公孫樹の燦々と


芭蕉の旅たち

2015-12-05 | 俳句&和歌

◇◇◇  芭蕉の旅たち

 松尾芭蕉が、ちぎれ雲に誘われ漂泊の旅への思いを止めることが出来ずに『奥の細道』に旅立ったのは元禄2年3月27日である。弟子:杉風の別邸である採荼庵に仮住まいしていた芭蕉はそこから仙台濠に浮かぶ船に乗って出立した。
 松平陸奥守(仙台藩伊達家)の屋敷を曲がると隅田川に出る。目の前の清州橋を潜ると右手に小名木川の河口に架かる大きな虹型の萬年橋が見える。橋桁と川面の間に遠く富士山が望まれる。葛飾北斎は富嶽三十六景「深川萬年橋下」で橋の様子やその美しさを見事に描いている。
 古い地図には「元番所のはし」の記載がある。小名木川は行徳の塩や近郊農村の野菜、米などを江戸へ運び込むための運河であったので、船荷を取り締まる「川船番所」が置かれていたからである。番所はずっと以前に中川口へと移され、芭蕉庵はその辺りにあった。
 その住居を処分して仮住まいの採荼庵から旅立っている。漂泊の旅への決意である。隅田川を上った芭蕉一行は日光道中初宿の千住から草加、春日部に向かった。
 芭蕉は大橋の北詰・南詰どちらで船を降りたのか、荒川と足立で熾烈な論争があると聞いた。『奥の細道』の出発地点、つまり「初の矢立」はどこか、ということだ。
 江戸時代、橋を渡ることには特別な感慨があった。橋は江戸を去る第一歩であり、江戸入りの第一歩でもあった。とすると左岸の荒川側が優勢となる…


 舟番所江戸の名残りを留め居る 入り鉄砲に出女を探る

 「秋深き隣は何を」人恋し旅を栖の芭蕉がほろり

 短日の芭蕉めぐりの遠足は深川めしと熱燗でしめる


 

  小名木川夕暮れごとに冬に入る

  菊乱れ芭蕉稲荷の女郎蜘

 

※採荼庵(さいとあん・さいだあん)=ここから川舟に乗って千住に向かう
※清州橋=昭和 3年創架で芭蕉は知るよしもない。独のケルンの橋をモデルにしている
※「秋深き隣は何をするひとぞ」=大阪晩年の句、2週間後に逝去
※栖(すみか)=住むところ