年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

陽射し<2>河津桜

2010-02-26 | フォトエッセイ&短歌
 花と言えばサクラ、サクラと言えばソメイヨシノ。そのソメイヨシノに1月余も先がけて春の訪れを告げる河津桜(カワヅザクラ)に人気が集まっている。2月と言えば北風勘太郎が吹きすさぶ、冬の 真っ盛りであるが、日溜まりを見つけて見事なピンクの花をつける。
 河津桜の歴史は新しい。1955年、静岡県賀茂郡河津町で偶然に発見され、学術調査で新種と判明された。オオシマザクラとカンヒザクラの自然交配種と推定される。その後、原木は改良増殖され1974年にカワヅザクラ(河津桜)と命名され、翌年に河津町の木に指定された。

<河津桜は開花予想がむずかしく「なんとも人騒がせな桜!」なんだそうだ>

 サクラではなくザクラという。何と言っても、人気があるのは花の少ない春まだ遠い時期の「早咲き桜」として華やに花を咲かせるからである。蕾は濃紅色で妖艶なふくらみをみせ、開花すれば染めあげたような淡紅色のかたまりとなって小枝がたわむように萌える。
 花期が1ヶ月と長いのも特徴である。花弁は透き通るような薄ピンクのソメイヨシノとは趣が違う。満開ともなれば一夜にしてサッと散り去るソメイヨシノの方が良いという人も少なくない。

<ソメイヨシノと比較されるカワヅザクラの…さてあなたはどちらに軍配を!>

 サクラの話題がしきりだが北からの風に木々の小枝が震えている。
 季節はまだ2月、雪の舞う日も多い。1936(昭和11)年2月26日、東京は雪に覆われた。その雪を蹴散らせて、陸軍皇道派の青年将校率いる1400余名の部隊が国会を占拠するなどクーデターを起こした。2.26事件である。以降、軍部が政権を動かし日本は戦争への道を転げ落ちていく。

<シビリアンコントロールの機能が失われると国の存亡に関わってくる>

陽射し<1>雪の椿

2010-02-21 | フォトエッセイ&短歌
 去る2月19日は、二十四節気の「雨水(うすい)」で歳時記の季語を決める基準日となっている。新聞や雑誌のコラムや随筆の書き出しの適切な枕となって、物書きには結構重宝がられている。「北風、肌を刺す寒さだが、暦の上ではすでに雨水だ。草木は芽を吹き始め陽射しは柔らかくなる。入試を終わった子ども達の笑顔も心なし輝いて見える…」てな具合になるわけだ。
 「雨水」の意味は「雪散じて水と為る也」。今まで降った雪や氷が解けて水となり、雪が雨に変わって降る」ということ。つまり寒さがゆるみ、草木の芽の兆しが見えてくる時期になった。寒さが峠を越して春の陽射しに恵まれる候。
 しかし、春の訪れを幽かに告げる雨水を待つように関東地方南部にも雪が降った。
 
<わずかだが、雪景色を堪能。雪に震え上がった山椿の赤が雪に滲んで美しい>

 暦には『鴻雁来、草木萌動(こうがんきたる そうもくほうどう)』などと記している。意味は「冬の間、沼などで遊んでいたガンが北へ渡っていく。草木が芽を吹き始めている」実際の季節の移り変わりと二十四節気がずれるのは理由がある。
 もともと二十四節気は古代中国の皇帝が農作業の目安に作成したもので、黄河中・下流の移り変わりを基準にしているので日本に置き換えると多少のズレが生じる。がやはり、春は近いのだ。

<雪は半日で消えて、グラウンドでは親子がボール蹴りに興じている>

 空っ風にも舞うことなく、雪の重みにも耐えたのか、秋の落ち葉がそのままふわりと大地を覆っている。落ち葉の間からは名も知らぬ雑草が緑芽をのぞかせている。
 何を語っているのだろう。バンクーバーの氷上の舞いなのか、沖縄の普天間基地の行く末なのか。

<影は確かに短くなって春を予感させている。お二人の幸せな人生を!と思う>

鎌倉Ⅰ<7>幕府移設

2010-02-16 | フォトエッセイ&短歌
 日蓮の辻説法跡碑を後に小町大路を北に進むと土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)屋敷跡がある。
 頼朝は不和となった京都の義経を討つために軍議を開いたが、誰も引き受ける者がいない。そんな中で土佐坊昌俊が進み出てこれを引き受けた。昌俊は「下野に住む老母と子供たちに憐憫を与えてやってほしい」と言上すると頼朝は快く承知した。
 文治元年(1185)、昌俊は手勢を率いて京都へ赴いたが、撃退されてしまった。逃げ込んださきが鞍馬山、義経ゆかりの鞍馬の僧兵たちに捕らえられ、六条河原で斬殺された。

<土佐坊昌俊の屋敷跡。頼朝対義経の骨肉相食む鎌倉物語の一つである>

 更に小町大路を進むと横大路(よこおおじ)にぶつかり右手が宝戒寺(ほうかいじ)山門である。このシリーズのスタート地点に戻った。横大路は鎌倉幕府の中核を成す「六大路」の一つで重要な軍事道路である。
 「梶原景時、罪にて鎌倉中の道路を作るよう頼朝より命ぜられた」という類の記録が少なくない。頼朝の「道路整備好み」というから精力的に道路建設に励んだようである。
 横大路を左に折れ200mも進むと鶴岡八幡宮の三の鳥居にでる。

<神社仏閣が多い鎌倉は鳩も過密である。石垣にかじるついて生活圏を必守>

 若宮大路を鎌倉駅方向に下り、教会を左折すると幕府跡がある。関東を平定した源頼朝が鎌倉に入って1192(建久3)年、征夷大将軍となり鎌倉幕府に開いたのはよく知るところである。幕府の所在地は大倉御所(おおくらごしょ)と呼ばれ、現在の清泉小学校の一帯で角地に幕府跡碑がある。
 ところが、3代将軍源実朝が殺害されると源氏血統の後継者は無く北条一族が政権を握った。第3代執権であった北条泰時の時、幕政の中核となっていた北条政子が死去する。心機一転を図る目的で幕府政庁の移転を行った。国会を移設したみたいなものである。
 幕府の有力御家人宇都宮氏の邸宅があった所に移ったので宇都宮辻子(うつのみやずし)幕府と呼ばれる(辻子(ずし)とは小道のことある)。

<宇都宮稲荷神社が祀られている宇都宮辻子幕府跡。これにて鎌倉Ⅰは終了>

鎌倉Ⅰ<6>辻説法

2010-02-11 | フォトエッセイ&短歌
 本覚寺門前の南北に走る道路を小町大路(こまちおおじ)という。夷堂橋を南(右方向)に進むと材木座海岸に至る「鎌倉時代随一の商業地区」で庶民的街であったという。舟運で運ばれた物資が取引されたのであろう。八幡宮に向かう北方面が幕府高官・有力御家人の屋敷が並ぶ、鎌倉の心臓部である。
 小町大路は、鎌倉幕府による都市計画の中核をなす「六大路」の一つで、メインストリートの若宮大路の東側を並行する。

<閑静な住宅街となっている小町大路。通称「辻説法通り」とも呼ばれている>

 小町大路が「辻説法通り」の異名があるようにここら辺りで日蓮が盛んに辻説法を行っている。日蓮上人は法華経こそ仏教の神髄であるとして「南無妙法蓮華経」の題目を唱えよ!他の宗教は邪教であるから惑わされるな!と他宗派を激しく攻撃し、邪教を許している幕府をも強く批判した。
 日蓮上人は小町大路の街頭に出て、道行く人々にこの教えを説いた(辻説法)。鎌倉仏教の興隆期でもあったので他の寺院から怒りをかい、幕府の弾圧も繰り返された。しかし、これを法難ととらえ弾圧に屈せず、民衆の側に身を置いて日蓮宗を布教していった。

<日蓮上人の辻説法跡碑。広宣流布の捨身の言論活動を続けた生涯でもある>

 鎌倉には、日連上人の足跡が多く、日蓮宗の寺院も多数ある。日蓮は1282(弘安4)年、武蔵国池上で60歳の激しい生涯を閉じた(本山は甲斐国の身延山久遠寺)。その後六老僧と呼ばれる弟子達(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)によって日蓮宗は独特のあゆみを重ね、日本の仏教界に大きな地歩を示している。
 「辻説法碑」の近くにある妙隆寺(みょうりゅうじ)もその一つ。第二祖、日親上人は立正冶国論の一書を献じ足利義教将軍の政道を糺そうとしたが捕らえられた。そして、水・火・湯鑵(熱湯ぜめ)の拷問にあい、舌端を切られ、ついには焼き鍋を被せられる極刑を受けたが、よく耐え忍んで法華経公布につとめたとされる。

<「鍋かむり日親」で今も語り継がれる妙隆寺。右手は100日間の水行の池>

鎌倉Ⅰ<5>夷堂橋

2010-02-06 | フォトエッセイ&短歌
 鎌倉幕府第2代将軍は頼朝の嫡男、頼家(よりいえ)であるが、習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招いた。ために、有力御家人十三人の合議制によって政治を進める事になった。頼家が重病に陥ると3代将軍をめぐる隠謀密約の主導権争いが激化する。
 頼家の子(一幡=いちまん)派の比企氏と、頼家の弟(実朝=さねとも)派の北条氏が対立した。北条時政は先手を打って仏事にこと寄せて比企能員(よしかず)を自邸に呼び寄せ殺害した。比企一族は一幡の邸である小御所(現:妙本寺)に立て籠もって奮戦したが北条氏に敗れ、一族は討死・流刑・死罪の処断がなされた(比企能員の変)。
 能員の末子である2歳の男子が助けられた。この男子が比企能本(よしもと)で、後に許され鎌倉に戻り、比企一族の菩薩を弔うために妙本寺を建立した。鎌倉時代に幾つもあった御家人サバイバルの一つであるに過ぎない。

<頼家は修禅寺に幽閉され暗殺。実朝も公暁に襲われ落命源氏は3代で滅亡>

 妙本寺から若宮大路に向かうと滑川に架かる夷堂橋(えびすどうばし)がある。夷堂橋は「鎌倉十橋」の一つで琵琶橋・勝の橋・裁許橋などの名称が如何にも鎌倉的である。どうも江戸時代頃の風流人の、あるいは観光業者の「鎌倉の名数」遊びの一つであるようだ。
 鎌倉五山、鎌倉七口、鎌倉十橋、鎌倉三十三観音などのように名数で史跡を伝えたという説である。ともあれ、後世の破滅的な行く末など露ほども疑う事のなかった、愛しき頼朝と政子は二人して夷堂橋を渡り乳母の比企尼(比企一族)の屋敷(妙本寺)を訪れたのであろう。

<鎌倉十橋の一つ夷堂橋。コンクリのつまらない橋だが擬宝珠の感じがいい>

 夷堂橋の袂に夷堂(えびすどう)があった、というか、夷堂の前に橋があったので夷堂橋といったのか。この夷堂に1274(文永11)年、佐渡流罪をご赦免になり、鎌倉に戻った日蓮が一時滞在し辻説法などの拠点としていたことから、日蓮宗に改め本覚寺(ほんがくじ)の創建となった。2世日朝のとき身延山から日蓮の遺骨を分移、東身延と称し栄えた。

<夷堂橋の袂の「本覚寺山門」脇の七福神の一人、夷様を祀っている夷堂>

鎌倉Ⅰ<4>祇園山

2010-02-01 | フォトエッセイ&短歌
 東勝寺跡にある「腹切りやぐら」から「祇園山ハイキングコース」が設定されている。馬の背を20分も上り下りすると、祇園山に達する。鎌倉が急峻な山に囲まれた天然の要塞都市であることが分かる。
 しかし、現在、この土地を激しく侵略しているのは武士達ではなく宅造達である。開発が進み住宅が山の裾から中腹まで攻め込んでいる。歴史的風土特別保存地区などを盾にどうやら守っているという状況だ。これ以上の開発は世界遺産指定にはとても無理となるか…

<祇園山展望台から由比ヶ浜・材木座海岸を一望する。冬の陽を鈍く映している>

 「祇園山ハイキングコース」の終点、祇園山展望台から15分の山裾に八雲神社(やぐもじんじゃ)がある。八雲神社は「お天王さん」の愛称で親しまれている大町の鎮守で鎌倉で最も古い厄除開運の神社と伝えられる。
 新羅三郎義光が八幡太郎義家の助勢(後三年の役)のため鎌倉に立ち寄った際、疫病が流行っていたため京都の祇園社から祭神を勧請し、祈願したところ、疫病は退散し、住民は難を逃れたといわれている。
 従って古くは祇園社(祇園さま)であった。祇園さまは「牛頭天王(ごずてんのう)と素戔男尊(スサノウノミコト)を祭神とする神仏習合。これが問題だった!明治の神仏分離で整理整頓され「牛頭天王」という社号が禁止され、八雲神社に名称を変えさせられた。

<牛頭天王はどこに追放されてしまったのか。神道国教化の犠牲である>

 八雲神社から閑静な住宅街を少し歩くと参道の杉木立が屹立する妙本寺(みょうほんじ)に至る。この辺りの地勢は祇園山の麓に入り組んだ「谷戸」で比企ヶ谷(ひきがやつ)と呼ばれている。
 鎌倉時代に比企能員(よしかず)一族の屋敷があったからである。比企能員は源頼朝の信任厚く頼朝の死後も源氏を支えた。それが災いして北条氏から睨まれ、挑発を受けて比企の乱で滅ぼされた。

<妙本寺の無念のメッセージか。賑やかな鎌倉の寺社にあって寂として揺れず>