年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

木守柿

2006-10-28 | フォトエッセイ&短歌
この時期の『サザエさん』の定番の一つに柿泥棒のモチーフがある。泥棒をするわけではないが絶妙のタイミングでカツオが柿ドロボーの嫌疑をかけられる。原因がサザエであったりして波平の拳骨の落とし所がなくなったりして…町内は柿一つで大騒ぎとなる。
今は昔の話である。マックもケンタッキーもなく子供のおやつに柿が重宝がられたし、塾もなく遊び疲れた腹ぺこの子供には道路に枝を伸ばしている柿は十分にドロボーする対象に成り得たのだ。今時、柿泥棒なんかする必要はないし、そんな根性のあるガキはいない。『サザエさん』のピンチである。


「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」なんて分かりやすい句もある。栽培の歴史は飛鳥時代にまで遡り、鏡餅に添えるなど神聖視され民俗学の世界では注目されている。福島や広島の地方にはこんな話もある。…柿は実を多くつけるところからその豊穣性にあやかろうと、新婚夫婦が初夜に「柿問答」してから床に着くという…。どんな悩ましい問答なのか。ウマクイッタカナ!

「木守柿(きもりがき)」と言えば2つ3つワザと取り残した柿の事である。爺さんは言ったものである。冬も近く、おこも(乞食)さんも辛かろう、手の届くところに残して置いてあげろ。婆さんは言ったものである。小鳥たちも虫をついばんで穀物を守ってくれた。秋深く虫たちも居なくなるでの、残して置いてあげろ。
いわれなきイジメでまた今日も子供が命を絶った。他者への思いやりを語るすべはないのか。むべなるかな、必修科目を偽ってまでも受験競争に勤しむを可とする昨今である。

            

世田谷の下町、長谷川邸の近くの住宅街。秋空の中に見事に柿がたわわに色付いている。
塀には烏瓜(カラスウリ)の朱が秋の陽を映して輝いている。何とも落ち着いた色合いである。カラスが好むのも無理はないって?イヤイヤ、由来は唐朱瓜(からしゅうり)で実の色が朱墨の原料となる辰砂の緋色に似ているからだそうだ。

  長谷川町子美術館 
  田園都市線 桜新町駅下車 徒歩7分

武蔵の乱

2006-10-25 | フォトエッセイ&短歌
大田区と世田谷区の南西端は神奈川と東京を画する多摩川にぶつかる。その多摩川の流域(丸子橋~二子玉)には約50基の古墳が連綿と造られ荏原台古墳群と呼ばれている。古墳は「土を高く盛った古代の墓」なので古墳の形、死者を葬るための棺などの施設、死者の生前の環境を示す副葬品などを調査する事によって被葬者の権力の有り様が明らかになってくる。


その一つ、野毛大塚古墳。墳丘に登る見学者から想像出来るように全長104mもある帆立貝式古墳(ホタテ貝の形)で段築のテラスには朝顔形埴輪など各種のハニワが飾られている。5世紀前半に造られ甲冑・剣・直刀などの副葬品からこの地方(武蔵国の南部)の大豪族の墓である事が分かる。時は誕生したての大和政権が全国統一の事業を推し進めていた頃である。

武蔵国造の乱(日本書紀)
武蔵国では<小杵のボス>と<笠原のボス>が武蔵国の国造(くにのみやつこ=国を治める豪族の位)を争っていたが、決着がつかなかった。そこで<小杵(おき)>は上毛野(群馬県の前橋・伊勢崎あたり)の小熊の大ボスに援軍を頼んだ。これを知った<笠原(かさはら)>は京に逃げ上り朝廷に訴え裁断を求めた。
全国支配を窺っていた大和朝廷は「ヨッシャ!」とばかりに<小杵>を討ち果たし、<笠原>を国造に任命した。<笠原>は感泣し橘花・多摩などの土地を朝廷に献上した。
こうして、大和朝廷の力が及ばなかった関東地方も朝廷の支配下に入っていく。古代専制国家成立期の激動の国づくりのエピソードである。権力を象徴する巨大古墳はそんな遠い歴史を沈黙の中に物語っている。


前方部の付け根の造出部に並ぶ柵形(さくがた)埴輪で非常に珍しく、仮称である。
                     
古墳を被う木陰にはホトトギスが揺れている。 
      暗紫色の斑点の花模様がいかにも古代がかっている。
東急大井町線等々力駅下車


里の秋(上)

2006-10-13 | フォトエッセイ&短歌
  収穫の終わった田畑はしばらく長閑に冬の到来を待つ。切り株には穏やかな残暑に照らされて蘖(孫生:ひこばえ)がスクスクと伸びている。緑の鋭い葉先が季節外れだが早場米の耕作で刈り取りが早いのだという。
  畦の枯れ草や用水路の小枝でも燃やしているのだろうか、薄い煙が漂って流れている。村里のあたりまえの初秋の風景も開発とダイオキシン問題で滅多にお目に掛かることが出来なくなった。

  

 見ることが無くなったと言えば田螺(タニシ)である。
稲刈りの済んだ田んぼは来年の田植えに向けて一休みして体力を整える事になるが、足跡の窪みや切り株の根元にはタニシがいた。棒でほじくり返すと3~4個のタニシが出てくる。落ち穂拾いとイナゴやタニシの捕獲は子供たちの仕事であった。
 茹でてから針でつまみ出し味噌味で煮付けるのだ。何とも泥臭いのでゴボウやショウガで佃煮風味にする。この稲刈りの時期はイナゴの収穫期でもある。蒸してから羽をむしりみりん醤油で炒めるのである。
 
 肴に和風居酒屋で戯れに取ってみる。何とも香ばしく滋味なるツマミであるが、思い出の味とは「似て非なり」。こんな上品な美味い食べ物では無かった。
 もう何というか、口元に近づけただけで「ゲボッ、ウオッツ」としたくなるような「味と匂い」だった。貴重な動物性タンパク質の供給源であったし、メタボリック・シンドロームなどは心配御無用の戦後の食料不足の頃の話である。      

 農作業の正面には冠雪の消えた富士山が煙っている。麓の自衛隊の演習地では茅を踏みしだいて戦車が行き来している。ドロドローン・ドロドローンと重い砲弾の響きが絶えることなく続く。朝鮮半島の核実験の報に呼応するかのように。
                 御殿場から裾野市に抜ける



風神雷神

2006-10-06 | フォトエッセイ&短歌
 風神雷神図屏風と言えば江戸初期の文化を代表する建仁寺所蔵の二曲一双の屏風(国宝)である。作者俵屋宗達は金箔の天空に湧き立つ雲に乗って風神と雷神が大嵐を巻き起こそうと躍動する絶妙な構図を大胆に描いた。しかし何とも可愛いユーモラスな神々であろうか。「そこの坊ーズ、臍とるぞ~」そんなゴロゴロ様の声が聞こえて来そうだ。



 田舎館(青森県南津軽郡)の村役場の天守閣から眼下の田圃を見ると「風神雷神」が一望出来る。村おこしの柱として『千人の力で田んぼに巨大なアートを!』(The Rice Paddy Art) と15000㎡の水田をキャンバスに見立てて絵を描くのである。
 文字通り村内外から1000人を越す参加者によって田植えが行われる。古代品種の紫稲・黄稲・赤稲や現代種のつがるロマンなどの苗を植えつける。田植えの終わった時は普通の田園だが梅雨明けの成長期頃からは日に日に雷神風神像が見事な「絵」となって形象されていくのだという。

 近代的な役場の屋上から高々と展望台を設置、天守閣と称して巨大アートを見渡せるように仕組んである。アッと息を呑む壮観な眺めである。風が吹くとサワサワと雷神が動き出し天に昇っていくかのようである。やがて収穫を迎える秋にはどんな変化を遂げるのであろうか。黄金色に染め上げられた風神雷神の進化した姿をイメージするだけでも楽しい。*右側の風神は遠慮させていただいた。

 ユニークな村おこし企画である。村人が挙って1年がかりで完成させていく。日本の穀物自給率30%未満(フランス200%超・イギリス100%超)でドウスンダ!日本の農政。そんな中で農業を基盤に地方を活性化させていこうとしている気概が受け取れて頼もしい。何か村に活気さえ感じられた。9月29日、小学生からばっちゃんまで1212人で稲刈りが終わったとの便りが届いた。津軽はそろそろ紅葉に埋まる。

       

      横浜:寺家ふるさと村の谷戸田にも収穫の秋が来た。
      刈り取った稲は掛干し(棒掛け)天日で自然乾燥させ
      て脱穀機にかける。(横浜市青葉区寺家町)
     
      東急田園都市線「青葉台駅」下車バス
      小田急線「柿生駅」下車バス
 

苅田岳

2006-10-02 | フォトエッセイ&短歌
 蔵王の主峰熊野岳と苅田岳に抱かれた「御釜」はエメラルドグリーンの湖面を巻き立つガスにその神秘的な姿態を隠そうとしていた。それは龍神の鋭い牙からモクモクと雲を吐き出しながら尾根を越えて来る壮大な動きだった。御釜を見下ろす我々の足許にも押し寄せてきた。視界3m、太陽が雲間の月のようにボンヤリと浮かんで見えた。
 爆裂火口に水が貯まった湖。表面から10数mの深度で摂氏2度まで下がり、更に深度を増すと温度が高くなる特殊双温水層で世界にも例がないという。
 とその時とぐろを巻ていた龍神が尾でも振ったのだろうか、突風が起こりガスが切れ初秋の青空が一瞬垣間見られたが、彼女は再び神秘な姿を晒すことはなく深い霧の中に埋没した。肌に冷たいものが流れた。

 霧雨の苅田岳の西は山形に続く九十九折の長い下り坂である。東は宮城白石に出る長い坂道が続く。小さな雨滴が転がり落ちて西に行くか東に行くのか暫し迷っていたが、一陣の風がどこかに連れ去った。
 
西側に飛ばされると最上川に収斂され荒れ狂う日本海に流れ込みナホトカ港辺りに達するかも知れない。東側に転がると阿武隈川に注がれ温暖な太平洋をゆったりと渦巻きながら日付変更線越えアメリカの西海岸にぶつかるかも知れない。何か一瞬のたわいない事が生涯の存在のあり方を決定していくのだ。
 あの時の男の戯れの一言によって、あの時の女の何気ない仕種によって東西への流れが決定される。それからも幾つかの峠を越えながら流れ流れた今がある。あの時、反対側に転がっていたら全く別の人生を歩んでいたかも知れない。良かったのか悪かったか……自分にとっての分水嶺となった峠はどこだったのだろうか。
           

 麓の高原では蕎麦の花が満開だった。ローングリーンの絨毯に花嫁の純白なドレスが踊っているように華やいで見え艶めいた香りが漂っている。手に取って眺めると素朴だが気品のある容姿をしている。『蕎麦の花も一盛り』ナルホドナ~。現今、うっかり使えない諺ではあるが。


    宮城遠苅田温泉から苅田峠を越えて山形蔵王温泉に至る