年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

線路は続かず

2013-10-03 | フォトエッセイ&短歌

 大船渡線は1918(大正7)年に開通した一ノ関-- 大船渡間を走る国鉄であった。一ノ関 -- 気仙沼間は北上山地の最南端を越える山間地であり、気仙沼--大船渡間は太平洋に臨む三陸海岸の沿岸部を走る。
 大船渡線は「鍋弦線」と揶揄され、「我田引鉄」の代表例として話題になった。立憲政友会の佐藤良平は衆議選に当選すると計画路線に横槍を入れ変更をせまった。スッタモンダの揚げ句完成した路線を空から眺めると北斗七星の柄杓(鍋底)のような形になってしまった。「オラが村の代議士先生」による「我田引鉄」、さすが小澤一郎先生のふる里、岩手県の昔話しである。
 そんな話しが可愛らしく思われる大災難がこの大船渡線を襲った。東北地方太平洋沖地震と未曾有の大津波である。線路は流失し、鉄路は飴のようにひん曲がり、彼方に押し流され、壊滅したのである。地震の被害だけで済んだ「一ノ関 -- 気仙沼」間は1ヶ月後には運転を再開出来たが、津波で流された沿岸部(気仙沼--大船渡)の鹿折唐桑駅(ししおりからくわえき)から大船渡市の盛駅(さかりえき)間は復旧の目途はたっていない。
 宮城県石巻から気仙沼駅を結ぶ、気仙沼線でも大船渡線を凌ぐ大被害を受けた。沿岸部を走行する柳津駅-- 気仙沼駅間は津波で線路も駅舎も築堤や盛り土とともに流され痕跡すら残っていない区間もある。柳津駅 -- 気仙沼駅間はBRT(バス高速輸送システム)で運行を開始しているが、復旧復興の計画は白紙状態だ。
 南三陸のリアス式海岸の沿岸を結ぶ東浜街道(45号線)は白砂青松と断崖絶壁を繰り返す絶景の海岸美を誇る。がそれは津波という恐ろしい災害を裡に抱えてのロケーションであることを東日本大震災で思い知る事になった。当時の映像を見ると東浜街道は瓦礫ガレキ街道でこの世のものとは思えない魔界となった。
 その東浜街道にからむように惨状を留める気仙沼線が走っていた。津波から2年半、瓦礫は片付けられ、乾いたヘドロを隠すように夏草が猛暑をはね除けて青々と茂っている。
 南三陸町清水浜では盛り土も線路も流されたが、鉄筋のガードは流失を免れ東浜街道が潜ってい。振り返ってその惨状をカメラにおさめる。

流された気仙沼線。右手奥が清水浜駅(しずはま駅)のホーム。

 

  流されしホーム跡の土塊に残暑に燃える真っ赤なカンナ

  流失の曲がりし線路の黒錆に葛の花巻きて夏終わりゆく

  雑草に占有されて静ずまれる篠突く雨の駅舎の広場

  夏草が線路の跡に伸び盛り打ち棄てられし舟をも隠し

  ゴミとなる鉄路の軽きに踏み入れば彼方の土手に枕木と共に

  「線路は続く何処までも」口ずさむ跡形もなき廃路に立ちて

  文明の証しとなりし鉄道が塵芥となる科学とは如何に