年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<41>動物供養

2010-11-25 | フォトエッセイ&短歌
 明暦の大火の多数の焼死者を供養したことから始まった回向院はその後も横死者や行き倒れの無縁者を葬ったが、彼等にとって安らぎの地とはならなかった。1923(大正12)年の関東大震災で塚も堂宇も壊滅、1945(昭和20)年の東京大空襲で再び焼け野原となって戦後の復興を待つ事になる。
 人間様だけではない。「有縁も無縁も、人も動物も、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」のが回向院の理念とか。馬頭観音堂が有名であるが、「猫塚」「オットセイ供養塔」「小鳥供養塔」など古い歴史を持つ慰霊碑、供養碑もある。邦楽器商組合の「犬猫供養塔」などは面白く納得である。最近はペット様の供養が大繁盛であるが、極楽浄土へのお値段はいくらくらいなのだろうか。

<ずら~と並ぶ犬猫の卒塔婆。犬猫の遺体を抱える家族が順番待ちで並ぶ>

 回向院には山東京伝、竹本義太夫などの他に鼠小僧次郎吉の墓がある。義賊として物語、テレビなどでよく引き合いに出される「ねずみ小僧」は、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれる。盗人(窃盗犯)とは云え憎めない。長年逮捕されなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が盛んになった。
 現在ではギャンブルに勝つ、受験に合格する等の祈願にお参りする人が絶えない。鼠小僧は天保3年、浜町の松平の屋敷へ忍び込んところ遂に御用となる。次郎吉の自白によれば、窃取した金高は12000両前後、侵入した屋敷は大名旗本の屋敷150箇所であった。処刑された鼠小僧に墓などあるわけがないのに江戸の回向院のみならず、遠州・三州・尾州など各地に鼠小僧次郎吉の墓が存在する。
 現在もご利益を得るために墓石が欠かれるため、欠き取り用の白い前立(代理墓石)が備えられている。              

<墓石を欠き取りにお参りに来る人は後を絶たない。少年は合格祈願かな!>

 回向院の特徴は無宗山無縁寺の名称の通り宗派に拘らず、無縁仏をも葬っている事である。明暦の大火での多数の焼死者の遺体を埋葬させた事から始まっているが、万治年間には牢死者、行き倒れ人の埋葬も命じられている。宗派間のトラブルやカネにならない無縁仏が敬遠されるのが世の風潮。これは幕府の優れた社会政策である。(隅田川シリーズは一時お休みします)

<京葉道路に面した回向院。石造明暦大火横死者供養塔は都指定文化財>

隅田川<40>無縁寺回向院

2010-11-21 | フォトエッセイ&短歌
 江戸最盛期、両国橋は一日に4~5万人の利用者があったのではないかと推定されている。平賀源内は『根南志具佐(ねなしぐさ)』の中で両国橋の賑わいを「世界の雲はここの群集の舞いあげる塵からできているように見える」とまで表現した。     
 <蛇足>この両国橋を渡れなかった集団がいた。時は元禄15年12月14日、忠臣蔵の47士は本所の吉良屋敷で上野介を討ち泉岳寺に引き上げる。ところが、正面に江戸城の見える両国橋を渡るのは如何なものかと断わられる。幕府の裁定に対する反逆罪、赤穂の浪人は江戸市中を通り抜けるのはまかりならん、というわけだ。一行は万年橋を渡り、永代橋を渡り築地の旧浅野屋敷を振り返りつつ主君の眠る泉岳寺へと向かったのだそうだ。

<薄暮の両国橋の歩道。疎らな歩行者が川面の風を受けて急ぎ足で渡っていく>

 両国橋を渡ると両国で右側にビルに挟まれた、浄土宗 国豊山 無縁寺回向院(むえんじ えこういん)がある。「十万の、亡者がうかぶ 回向院」(柳多留)
 1657(明暦3)年に起きた明暦の大火(振袖火事=ふりそでかじ)で市街の6割以上が焼土と化し、焼死者10万8千人の尊い人命が奪われた。身元や身寄りのわからない人々も多かった。将軍:徳川家綱はこの無縁仏を手厚く葬るようにと現在地に土地を与え大法要を執り行わせた。これが万人塚で回向院の歴史の始まりだ。その後、安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬したのだ。

<万霊供養塚(万人塚)の上に立つ聖観音。爽やかなイメージである>

 「勧進相撲」の名が示すように、寺社修復の費用を確保するために寺社の境内で開催された。その為、相撲の興行は寺社奉行が采配した。当初は深川八幡をはじめ各所の寺社を転々としたが、寛政年間頃に両国の回向院境内に定着した。
 そんな訳で、回向院には相撲・力士関係の石碑群が多数ある。1936(昭和11)年には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。

<国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある>

隅田川<39>両国橋

2010-11-18 | フォトエッセイ&短歌
 防災用に確保された橋のたもとの広小路(火除地=ひよけち)は、原則的には空地だったが、火除地の機能を損なわない範囲内で公私に渡って利用が許された。都市の有効土地利用である。
 幕府が薬園や馬場などに使用した火除地もあるが、なんと言っても町人の世界である。露店・見世物小屋・芝居小屋・水茶屋・料理屋が広小路の周辺や川端に並び一大歓楽街が出来上がった。特に川開きから始まる夏の両国橋周辺の賑わいはさながらラッシュアワーなみで、その混雑の様子が江戸っ子の話題になったのだろう。浮世絵の題材にしばしば登場している。
 隅田川の堤防は整備され散策路(テラス)となっている。そのコンクリートの壁面に隅田川の浮世絵が掲示されている。

<隅田川テラスギャラリーから。「江戸両国橋夕涼大花火之図」拡大>

 隅田川の両国橋と言えば納涼・花火の打ち上げ。河岸の桟敷、屋形船や屋根船、橋上にひしめく見物人など夏の最大のイベントである。
 享保16年は西日本を襲った蝗害による飢饉、疫病による多数の死者、この事態を重くみた時の将軍吉宗が、陰暦の5月28日に、慰霊と悪病退散を祈って隅田川で水神祭を挙行した。その際に両国で死者の冥福を祈る「川施餓鬼」を目的に川開きが行われ、厄払いのために花火を打ち上げたと云われている。華麗に夜空を彩る花火も、もとは鎮魂のためのものだった。これが、今にも続く両国の花火大会である。
    
<左端は、歌川広重の『名所江戸百景』。両国の納涼花火の打ち上げの図>

 隅田川は江戸の人々にとって舟遊びなど娯楽の舞台であると同時に、重要な物資運搬・交通の手段でもあった。現在も首都東京の交通の動脈であることには変わらない。残念な事に空を奪い川を奪い岸辺を奪いと自然破壊の象徴である首都高速道路に覆われている隅田川。
 上に伸びているのが、首都高6号向島線で左に伸びるのが7号小松川線で江戸川区に至り京葉道路に接続している。

<隅田川の上に架かる首都高の両国ジャンクション。左が下流で新大橋に至る>

隅田川<38>両国広小路

2010-11-13 | フォトエッセイ&短歌
 ようやく隅田川も江戸時代一番のにぎわいを見せた両国橋界隈に来ているが、中心となるのが両国橋である。
 防衛の観点から橋を嫌った幕府ではあったが、一ケ所ぐらいはと物資搬入などを考慮して市中から遠く離れた千住大橋に架橋した。ところが1657年の明暦の大火の際に「橋が無く逃げ場を失った江戸市民が火勢にのまれ、多数の死傷者(全体で約10万人)を出してしまう。
 老中酒井忠勝は防火・防災の目的から架橋を決断するが、この惨事を教訓に橋の袂に防火用の空地(火除地=ひよけち)を設置したのだ。後に広小路と呼ばれ13ヶ所が数えられている。上野広小路はいまでも地名として残っている。ただし橋の位置は現在よりも下流側であったらしい。

<日本橋側の両国橋の門柱と袖石。手前の靖国通りに両国広小路の碑がある>

 こうして隅田川の2番目に架けられた橋、江戸市中では始めての橋は1659年頃には完成している。長さ94間、幅4間の木の橋は大土木事業で「大橋」と名付けられた。
 江戸時代、現在の吾妻橋辺りの下流は大川(おおかわ)と呼ばれていた。そのために橋も「大橋」と名付けられたが、西側の武蔵国と東側の下総国の二国を結ぶ橋として両国橋と俗称された。その後、下流に新大橋が架橋されたのを機会に両国橋を正式な名称にしたという。

<葛飾北斎の「両国橋夕陽見」。両国橋は弧を描きその先に富士が見える>

 江戸時代には橋を渡るのに(通行料)渡り賃を取られた。渡し船の渡し賃(船賃)が2文だったことから、橋渡りも2文だったそうだ。これを徴集するのが橋の袂に設けられた橋番所。
 現在の両国橋は、震災復興橋梁として昭和7年に架設された3スパン鋼製の桁橋である。総工費987500円。橋桁部分は大きく曲線を描きアーチ橋のようにも見える。全長164.5m全幅24m。東京都選定歴史的建造物に選定されている。

<両国橋は補修工事中で航行安全のためにアーチ部分に朱を塗装している>

隅田川<37>柳橋

2010-11-09 | フォトエッセイ&短歌
 神田川が隅田川に流れ込む河口一帯が柳橋である。柳橋は1630年、徳川幕府が米蔵「浅草御蔵」(あさくさおくら)を設置した地域である。米蔵は旗本に給料として現物支給するため全国から運んだ米(農民の収めた年貢米)を蓄えた所である。
 給料である米を春、夏、冬の三回にわけて支給したが、旗本が米俵を担いで帰るわけではない。蔵の付近(蔵前)の札差と呼ばれた特権商人が彼等の米を現金化し手数料をピンハネして旗本に渡した。内職する貧窮旗本の話は有名である。彼等は札差商人から次回の米を抵当に高い利息で「給金」を前借りした。10年先の米まで抵当に入っている旗本も珍しくはなかったと言う。
 蔵前の札差商人は絶対に取りっぱぐれのない旗本の給料を手中に収め豪商に伸し上がっていく。

<ビルの間から隅田川に流れ込んでくる神田川の河口。前方の橋が柳橋>

 柳橋には豪商と呼ばれる札差や役人、米商人あるいは各種の商人などが集まって来て賑わったのだろう。浅草旅籠町が生まれ江戸前の料亭が軒を連ね歓楽街としても栄えた。船遊び客の船宿が軒灯を連ね柳橋芸妓が色を添え、江戸の後期には新橋と並ぶ花街として活況を呈した。柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと物語で語られている。
 現在、その面影はないが『浅草橋』から『柳橋』にかけてたくさんの屋形船や釣り舟が両岸に繋留されており、船宿の名残を留めている。

<柳橋の袂で屋形船の営業する船宿:小松屋。護岸のコンクリ塀に載っている>
            
 幕府は江戸城の防衛と市内の治安のため、あるいは財政の問題もあって橋を嫌った。柳橋が完成したのも浅草御蔵(あさくさおくら)の成立後40年も経った1698年である。隅田川へ流れ込む手前に架けられたので「川口出口の橋」と呼ばれた。
 吉原通いや深川への渡航の猪牙〔ちょきぶね〕はここから出たため、船宿や料理屋が遊興の拠点として賑わった。辰巳芸者で有名な深川花街が寛政・天保の改革で弾圧を受け、芸者たちが次第にこちらへ移ってきてから本格的な花街の成立となった。

<昭和4年完成の風情も色気もない柳橋。永代橋のデザインを取り入れる>

隅田川<36>関東郡代

2010-11-05 | フォトエッセイ&短歌
 日本橋馬喰町から靖国通りを越えると神田川に掛かる浅草橋南詰めの交番である。その交番の脇に小さな植え込みがあり郡代官屋敷(ぐんだいやしき)跡の碑が建っている。
 江戸に拠点を定めた徳川家康は関東一帯から東海方面の関八州の天領(直轄地)に代官(陣屋)を置いて支配させた。関八州の代官を統括したのが関東郡代(かんとうぐんだい)で行政・裁判・年貢徴収・鷹場の管理なども取り仕切らせ、警察権も統括させるなど絶大な権限を任せた。
 1642(寛永19)年、伊奈忠治(ただはる)が、河川の改修や築堤を命ぜられ時に関東郡代が制度として成立したのであろうといわれる。TVドラマの舞台になる関八州見廻役という名称が使われるようになるのはずっとあとの事である。

<関東郡代の屋敷地跡。1806年、焼失後は馬喰町御用屋敷と改称された>

 浅草橋からビルに挟ませた運河のような神田川をみる。更に神田川を上ると小石川御門があって飯田橋辺りで江戸城の外堀に繋がっている。その後、神田川は高田馬場・西新宿・高井戸を経て井の頭公園の池に達する。
 南こうせつとかぐや姫の♪♪貴方は もう忘れたかしら赤い手拭い マフラーにして♪♪の『神田川』は新宿区西早稲田あたりを歌ったものだそうだ。

<井の頭池を水源とする神田川は全長約25km、浅草橋をへて隅田川へと注ぐ>

 浅草橋を神田川を見下ろしながら渡ると台東区浅草橋1丁目で「浅草見附」跡碑が神田川沿いの船宿を眺めている。赤坂見附は有名である。「見附」は城を防御する最も外側の城門のことである。江戸幕府は江戸城の警護のために主要交通路の重要な拠点に三十六見附を築いて、首都の防備を固めた。
 虎御門・数寄屋橋御門・四ツ谷御門・市ヶ谷御門など外堀に沿って造られているが、これらの砦で戦火を交える事はなかった。江戸は天下太平の惰眠をむさぼった。

<家康がどれほど危機管理をつのらせ、防備を徹底させたのかがうかがわれる>

隅田川<35>牢屋敷

2010-11-01 | フォトエッセイ&短歌
 日比谷線小伝馬町駅一帯は伝馬町牢屋敷(でんまちょうろうやしき)のあった場所である。牢屋敷と言っても、江戸時代には懲役や禁固という処罰が原則としてなかったの現在の刑務所ではなく拘置所(未決囚の収容所)に近い施設である。
 取り調べを受け、裁きが終わり、所払いとか遠島ということになればその場所に送られる。死刑の裁きが出ると、牢屋敷の一角で斬首刑が執行された。因みに現在でも死刑囚は刑務所ではなく拘置所に留置され絞首刑を待っているのである。
 「大物」になると見せしめのために伝馬町牢屋敷から市中引き回しの末に、品川鈴が森や千住小塚が原で処刑され獄門(さらし首)とされた。

<大安楽寺の伝馬町牢屋敷跡地の碑。線香の煙が絶えることなくのぼる>」

 伝馬町牢屋敷は明治8年に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。牢屋敷跡は、たたりを怖れて誰も住まず「牢屋が原」と呼ばれ荒れ果てていた。
 そこで、牢屋敷でも最も忌まわしい、斬首刑を行っていた処刑場跡に「大安楽寺」を建立し、霊を慰め市街化を進めた。明治の財界の大物、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進したので「大」「安」楽寺と名付けたそうな。明治15年の事である。

<吉田松陰なども伝馬町牢屋敷で斬首。十思公園の一郭にある処刑場所>

 小伝馬町を過ぎると馬喰町(ばくろちょう)である。江戸通りに面する横町は洋品雑貨から繊維製品卸売業者の集中する問屋街である。
 江戸時代、この付近は日光道中・奥州街道の出発点にあたり、馬市(いち)が立ち、馬喰=博労(ばくろう)や馬薬師(うまくすし)(馬医)が多くいた所であったことが地名の由来とされる。すでに江戸時代の後半には馬喰町に62軒の問屋登録記録があり、問屋街として発展しつつあった。
 各地から訪れる仕入れ、売り込みの商人たちの出入りも盛んで、大小の旅籠が集中し、江戸一番の旅館街としても活況を呈したと言われる。

<小間物を中心にした東京一の問屋街。道路に溢れた卸物が活気を呼んでいる>