年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

旅順の城-1

2007-05-30 | フォトエッセイ&短歌
 你好<ニハオ>東北紀行
 満鉄:南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう)は、日露戦争後の1906(明治39)年に設立され、1945(昭和20)年の第二次世界大戦の終結まで中国東北部(旧満州)に存在した。
 この満鉄は単なる鉄道会社ではない。「陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」とあるように、炭鉱開発(撫順炭鉱)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力、農林牧畜、ホテル(ヤマトホテル)など80余りの関連企業を持った多様な事業を展開した国策会社である。
 まさしく、大陸侵略の大動脈として、ラストエンペラーの満州帝国の光芒の歴史をになって爆走した。日本の近・現代史の大陸政策そのものであるとも云える。

<機上窓から「北方の香港」と呼ばれる大連市を俯瞰する。>

 ツーリストのコピーは『アカシアの風吹く大連から ロシアの薫り残すハルビンへ』とお洒落なものである。修学旅行を思わせる観光地パック旅であり、お国柄、見たいところは見えない旅であったが、デカ~イ・デカ~イを中国を<満鉄>に乗って垣間見て来きました。
<中山広場に向かって建つ大連賓館:日本の統治時代のホテル・宿泊所>


 日清戦争で朝鮮半島を手中に納めた帝国日本は大陸侵略の野望を実現すべく遼東半島の領有権をもせしめたが露仏独の抵抗で断念する。世に云う三国干渉の臥薪嘗胆である。南下政策をとるロシアにとって遼東半島は必須の地であった。その先端に位置するのが「大連」で「旅順口」はその入口にあたり、激戦となる「203高地」は「旅順口」を見下ろす丘陵上となる。ロシアはこの丘陵全体を要塞化し鉄壁の構えを敷いた。
 一方、大陸侵略を進める日本にとっても遼東半島は必須絶対の地であったのだ。こうして1904(明治37)年、日露戦争は開始され翌年に講和条約が結ばれた。

<鉄壁の防壁を爆破しながら攻め上がる日本軍:山頂からのロシア軍の機関銃の弾痕がまなまなしい。日本軍兵士の死傷数約20万人。晶子は弟の無事を祈り詩をうたう>

君死にたまふことなかれ 旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ
君死にたまふことなかれ すめらみことは戦いに おほみづからは出でませぬ 
 
 旅順の攻防戦を謳った与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」(明星:掲載)の1節である。これに対して、大町桂月は「乱臣なり賊子なり国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と激しく論難した。

かの子流転

2007-05-20 | フォトエッセイ&短歌
 <二子宿-2> 通称ニコタマ:二子玉。多摩川の二子橋(ふたごはし)の袂に二子神社がある。神社の境内に<岡本かの子の文学碑>がある。それを記念して純白の彫刻が聳えている。「誇り」と名づけられた長男:岡本太郎の作品で、<この「誇り」を亡き一平とともにかの子に捧ぐ>とある。
 よく分からなかったモダンアートであったが、かの子の生涯を重ね合わせて観ると、空に伸び上がり飛び立とうとしているが、上手く飛翔する事が出来ないエネルギーの苦悩のようなものが感じられるのだが、サテ……

 「としとしに わが悲しみは 深くして いよよ華やぐいのちなりけり」~岡本かの子の歌である。名前の割には作品の評価は高くはなく、“芸術は爆発だ~”の芸術家:岡本太郎の母と言えば納得の女流作家である。高津村の大地主大貫家の別邸で誕生したが、二子の本宅で養育母に育てられ、16歳の頃には和歌を詠い、与謝野晶子を訪ね「新詩社」の同人となる。「明星」や「スバル」から大貫可能子の名前で新体詩や和歌を発表。21歳の時の画学生:岡本一平との結婚で岡本家から放逐される。夫一平の放蕩は度を超し経済は破綻し、長女を出産する頃には神経を病み精神科に入院する。
 夫婦間の亀裂は更に深刻化し、彼女の崇拝者であった学生と夫の了解を得て同居するようになったというから、凄まじい現実を歩み始めた。その後、小説家への転身を決意し、パリ、ロンドン、ベルリンなどを巡りアメリカ経由で昭和7年に帰国する。

 かの子は大日本帝国憲法が公布された1889(明治22)年に生まれ、日独伊三国軍事同盟が調印される前年の1939(昭和14)年に亡くなっている(享年49歳)。
 日本の近代国家建設は帝国主義の確立期でもあるが、彼女もまたその激しい時代を生きた。絡みつく古い時代の足かせに苦しみながらも覚醒した自我が前へ前へと押し上げていった。その意味で彼女もまた才能を開花させるには早すぎた時代を駆け抜けた女の一人であったとも云える。
 後に宗教に救いを求め、親鸞の『歎異抄』に生きる方向性を暗示され、仏教を研究し宗教者としての最期を終わったいう。

 二子橋の下流の河川敷に多摩川をこよなく愛したという岡本かの子の歌碑が新緑の草むらに眠っている。

      多摩川の 清く冷く やはらかき 水のこころを誰に語らむ
 

柱状節理

2007-05-16 | フォトエッセイ&短歌
 <春霞に鯉泳ぐ・承> 千匹の鯉を湖面に映した七ケ宿ダムは阿武隈川の支流、白石川の上流を堰き止めた中央コア型ロックフィル形式の多目的ダム。ダムの下は深い渓谷になっていて「材木岩公園」として整備されている。高さ65mもある巨大な材木を100mほど垂直に並べたような自然景観から古くから「材木岩」として親しまれている。(1930年 国指定天然記念物)


 案内版によれば『巨斑紫蘇輝石(きょはんしょうそきせき)石英安山岩が水成岩の基盤を貫いて地表面に噴出し、急激に冷え固まる時に出来た三角から六角柱状の節理』だという。ナンダカワカラナイナ~<柱状節理:ちゅうじょうせつり→柱状のひび割れ>
 簡単に言えば、高温のマグマが噴出し従来の台地と大気に接して急激に冷える過程で作られる。つまり、冷えるにしたがって熱作用でふくらんでいたマグマの体積が縮まり、積み重なる面に対して垂直にひび割れ(節理)を起こしながら焼き固まった岩石となってできるのだという。沼が干からびて、ひび割れが出来るが、それを「垂直に剥ぎ取って眺めると六角形の材木を立て並べた形に見える」というイメージか。
 マア、地学の学習はそれくらいで。仰ぎ見る切り立った崖に巨大な石柱が束ねられてそそり立つ自然の造形は圧巻である。そして、山里の渓谷に突如立ちはだかる柱状節理は地球の内部を覗き見るような神秘を語っている。

 湖上では水質浄化のための噴水が山肌を吹き流れてくる風に煽られて右に左に水煙を曇らせている。やがてその水滴達は灌漑用水として早苗を育てるのか、水道管を通ってみそ汁となってヒトサマの胃袋に収まるのか、太平洋まで流れ至って魚たちを活性化させるのか、想いが尽きる事はない。
 一陣の風が舞うと水煙は咆哮するかのようにひときわ永く飛翔した。

春霞に鯉泳ぐ

2007-05-10 | フォトエッセイ&短歌
 今や、通年Goro-Goro Week (GW)で5月のGolden Week(GW)だからと騒ぐ事はないのだが、哀れ長い給料取りの習性が抜けきらず、暦に4文字も赤字が並ぶと落ち着くことも出来ない。交通渋滞なんのその陸羽街道(国道4号線)をとことこと北上する。福島と宮城の県境、国見峠を越えて<うーめんの街>白石市に入る。そこから七ケ宿街道を白石川に沿って山形に向かう。銀色に輝く眩しい新芽が柔らかく春霞に萌えている。碧玉渓の渓谷の流れは雪解けの冷たさをたっぷりと湛えて流れている。桜の跡の穏やかな春。

 名残の雪を頂く蔵王連山が春霞のなかに見え隠れする街道を進むと七ケ宿ダムに至る。ダムの上流には「こどもの日」イベントの千匹の鯉が翩翻(へんぽん)とひるがっている。すでに子供たちの姿もなく静まり返った湖面を鯉たちが無心にバタバタとざわめいている。いささかの空しさも感じるがそれはそれとして壮観である。
 

  東北の山間は今なお晩春であるが、列島は立夏である。「すでに暦の上では…」と枕に使う二十四節気の季節感が今年は暦と現実が見事に合致した。否、暦が先行したと言うべきか。浜松では33.6度、長野でも31.8度、京都は31.7度と真夏日を記録した。地球温暖化か?騒げどもその政策は皆無!改憲手続き法案で温暖化どころではなし。
 
    白堂翁の鮮やかな墨痕で立夏の佇まいを感じてみよう。
             立夏      
               蛙初めて鳴く    
               みみず出ずる    
               筍生ず       
     おそるべき君等の乳房夏来る (西東三鬼)

鯉のぼり

2007-05-05 | フォトエッセイ&短歌
 「もう5月、桜は咲いているが、外は朝寒…」。チェーホフの『桜の園』はそんなセリフから始まる。ちょうど北海道の開花期にあたるが、関東地方では夏日を記憶する「五月晴れ」の日々が断続的に出現する。新緑の木々を背景に爽やかな青空に元気に泳ぐ<鯉のぼり>はGWの風景であったが、そんな景観は街ではお目にかかる事はない。高層ビルに取り囲まれたちっぽけな敷地には、緑もなけば鯉の泳ぐスペースもなく、子どもの姿もない。
 もはや「端午の節句」は痕跡を留めるのみか。マンションのベランダにメダカ鯉のぼりがビル風に煽られて狂ったように回転している。

  ♪[1] 甍の波と雲の波、 重なる波の中空を、
     橘かおる朝風に、 高く泳ぐや、鯉のぼり~♪
  ♪[3] 百瀬の滝を登りなば、竜になりぬべき、
     わが身に似よや男子と、 空に躍るや鯉のぼり~♪
  <作詞者不詳、作曲・弘田龍太郎 『鯉のぼり』>

「登竜門」⇒(鯉が竜門の滝を登ると竜となって天をかける:男児の成長と出世を願う)という中国の故事を詞にしている。五月晴れの中<鯉のぼり>探しの旅に出る。喧噪を離れて1時間余、小田急線五月台の丘陵の麓でやっと見つけた。


 元々は中国の戦国時代<楚(そ)国の屈原(くつげん)の供養祭>というから、今から約2300年前に遡る。日本の「こどもの日」:端午(たんご)の節句の行事は奈良時代にはじまるが、為政者によってその意味する内容は変遷をたどる。男児の立身出世・武運長久が特に強調されるようになるのは明治以後である。
 端午の節句については諸説があるが「急に暑くなるこの時期は、身体の変調から病気にかかりやすく、亡くなる人が多かった。その為、5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し、薬用酒や肉粽を飲食して健康増進を祈願した」この辺りがルーツであるかもしれない。何はともあれ子供の虐待という凄惨な事件が絶えない世情の中で子供たちが元気に成長して行って欲しい想いでいっぱいである。



  <むかし話の絵本に出てくるような祠がありました>