年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

多摩:大暑候

2009-07-26 | フォトエッセイ&短歌
 大暑である。梅雨明けのこの頃、一年中で最も気温が高く酷暑の季節を迎える。土がじっとりして蒸し暑くなる時節で「大雨時に行く(たいうときにいく)」、時として大雨が降る。九州・中国では記録的な豪雨に見舞われ土石流の爪痕は丘陵を掻きむしり、里の家々を泥流が飲みこんでしまった。繰り返される災害の度に繰り返される指摘される自然の猛威とそれを誘発する環境破壊・自然破壊。いつになったら目覚めるというのか!
     
<白堂翁の揮毫。桐初めて花を結ぶ、土潤いて蒸し暑し、大雨時々降る>

 枡形城のある枡形山の東方1㎞位の所に龍安寺と長福寺があり、その先が南武線の宿河原駅である。多摩丘陵の先端部分で麓には府中街道と二ケ領用水が平行して下っている。
 宿河原の龍安寺と長福寺には『徒然草』の言い伝えがある。かっては大阪府の夙川原(しゅくがわら)と言われていたが、金沢文庫の古文書から吉田兼好が鎌倉へ来ている事が分かり川崎の宿河原という事になったが、長福寺か龍安寺かが定かでない。

<長福寺の本堂。虚無僧が念仏を唱えていた寺ではないかと言われている>

 「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかいて……」随筆文学の傑作と言われる吉田兼好の『徒然草』の書き出しである。その第百五十段に<宿河原のある寺でぼろぼろ(虚無僧)が集まって念仏を唱えていた。そこへ「シラ梵字と申す者だが、我が師匠を殺したイロヲシ坊を探している」と一人のぼろぼろが立った。「貴様の師匠をたたき斬ったイロヲシ坊はワシだ。よくぞ訪ねて参った」と二人は川原で死闘を演じ草は朱に染まった>という記事がある。
 『徒然草』には「心ゆくばかりつらぬきあいて、共に死にけり」と書かれている。何とも凄まじい虚無僧の果たし合いである。吉田兼好が宿河原のある寺の出来事を見聞した話である。

<龍安寺山門。シラ梵字がイロヲシ坊を訪ねて来て果たし合いになったとあるが>

多摩:頼朝没

2009-07-21 | フォトエッセイ&短歌
 稲毛三郎重成の妻は頼朝の正室、後に尼将軍と言われた北条政子の妹、綾子である。従って将軍:頼朝と重成は義兄弟の関係であった。勿論、政略結婚である。平氏を滅ぼし幕府創設の不安定な時期とはいえ、妻の妹を嫁し確かな同盟軍にせざるを得ない程の武将であったのだろうか。鎌倉を守る軍事的な拠点であったという指摘もある。写真は城址あと碑である。

<「馬場あとも やかたあとも 秋の風」伊藤葦天の句碑が武将の夢を留める>

 多摩川を挟んで重要な軍事上の地域である事は当時の城の配置からもうかがう事ができる。枡形城を中に小沢城・有馬城・井田城など多摩丘陵上に並べて鎌倉街道の押さえとなっている。
 枡形城は海抜90mの周囲を一望する山城である。太平洋戦争時には高射砲陣地(探照灯)が築かれ陸軍の兵士がたて籠もった所でもある。

<枡形城は多摩川河畔にのぞむ四方断崖絶壁の要地に築かれた山城である>

 盛者必衰の理という。頼朝の没後、尼将軍政子は父、北条時政と計らって頼家・実朝を謀殺し源氏は3代で滅亡した。北条一族による頼朝の有力御家人の粛正による政権奪取である。
 二代目将軍:頼家の後見人である畠山重忠を従兄弟の稲毛三郎重成に「鎌倉の一大事、馳せ参じよ」と呼び出させ、万騎が原で滅ぼした。1205(元久2)年の事である。時政は三郎重成を従兄弟をあざむいた裏切り者として経師ケ原で殺させたという。
 こうして、稲毛三郎重成は頼朝の死後、6年足らずで北条氏の謀略に引っかかり一族はあっさりと滅亡する。

<枡形城址下の日本民家園正門の菖蒲園。三郎重成の無念が揺れている>

多摩:枡形城

2009-07-16 | フォトエッセイ&短歌
 稲毛三郎重成の居館と言われている広福寺の丘陵の頂上が枡形城址である。城址に建つ展望塔から四囲を眺望すると中世の山城のあるべきスタイルがよく解るし、重成の「つわもの」の風貌も思い知る事ができる。
 中世(武家社会)の幕を切って開いた枡形城主稲毛三郎重成は何度この天守から南武蔵の多摩の峰々を眺めた事であろう。

<枡形城址の展望台。石垣などの遺構がなく城の復元が不可能だったのか>

 重成の父親、小山田有重は現在の町田地方の豪族で秩父地方の平家方の武士団の流れである。従って、1180年の石橋山の合戦では小山田(後の稲毛一族)は反源頼朝の軍勢として闘っている。
 敗れた頼朝は6ヶ月後には反攻してくるが、その時には上総広常や下総の千葉常胤などの軍勢が頼朝に帰順したこともあって稲毛軍団も頼朝支配下に入った。頼朝の抵抗勢力はもはやなく鎌倉に入って幕府を置いた。
 頼朝と主従関係を結んだ武士は所領を認めてもらう(安堵という)見返りに「イザ鎌倉!」の戦いに「一所懸命」と一族を率いて戦場に出陣するのである。こうして小山田三郎重成は稲毛庄を幕府から安堵され稲毛三郎重成として城造りに励んだと思われる。

<展望台からは丘陵越しに四囲が眺望出来る。新宿方面には都庁がかすむ>

 頼朝軍は平家と戦いながら鎌倉に幕府を開き武家政権の仕組みを整えていった。三郎重成は一ノ谷の合戦、壇ノ浦の戦いにも奮戦し、頼朝の厚い信任を受けていたようだ。
 1195年、頼朝の上洛に随行した重成は帰路妻の危篤を知らされる。そこで頼朝の許しを得て急ぎ帰国したが、最期をみれなかった。妻の死に目に会えず「武士」に嫌気がさした出家してしまったという。以降の記録には重成入道と記される。

<梅雨晴れの木漏れ陽に揺れる暗闇坂の言い伝えが残る城への急峻な坂道>

多摩:重成像

2009-07-11 | フォトエッセイ&短歌
 稲毛三郎重成は広福寺を居館としたとされるだけにそれにまつわる多くの遺物が残されている。重成夫妻の墓、一族の位牌、桃山期の重成の木造などであるが、「伝」という事で確証はない。
 近くの菅の薬師堂は重成の寄進によって建立されたという記録ものこり、「稲毛の7本松」の伝説には武将としての重成の片鱗が伺える。
 しかし、確証がなく「伝」で留まっているのは、重成の非業の最期に関係しているのかもしれない。

<山腹の広福寺山門。観音堂の重成像は衣冠束帯の姿で太刀を佩ている>
 
 稲毛三郎重成は貴族社会から武家社会へと変わる激動の一時期を駆け抜けた南関東の豪族である。源氏の棟梁:頼朝のもとで武勇を発揮し頼朝の死と共に滅亡するという劇的な生涯を送った「つわもの」である。
 源平の争乱を戦い、平氏政権を滅亡させ、頼朝による鎌倉幕府創設の有力な御家人の一人であったことは間違いない。『平家物語』には「ゐなけの三郎しけなり」と記述されている。1205年没。

<横浜市の万騎ケ原で討死。重成の屋敷跡を囲む昼なお暗い深い竹林>

 広福寺の急坂を下りると専修大学と小田急線向ケ丘遊園駅をつなぐ谷戸道にでる。絶え間なく学生たちが歩く。その正面に切り立った石段が聳える。「天神社」である。江戸名所図絵には「韋駄天社」として描かれ、稲毛三郎重成の頃の創建といわれている。
 最近では「韋駄天ばしり」の神様として思わぬ信仰を集め、マラソン選手の参詣の姿も絶えないとか。

<たしかに凄い石段、マラソン選手には格好の参詣の神社かもしれない。フ~>

多摩:広福寺

2009-07-06 | フォトエッセイ&短歌
 川崎市多摩区の生田緑地(いくたりょくち)は、多摩丘陵の一角に位置する市内最大の緑と史跡の宝庫である。周辺の宅地開発が進む中で都市計画に基づいて、都市公園としての整備も進みに岡本太郎美術館、日本民家園、伝統工芸館、公営ゴルフ場など市民の憩いの場と学習の場を提供している。
 その拠点が枡形城(ますがたじょう)址で北側のふもとに広福寺がる。門には「稲毛領主菩提寺 稲毛館跡」と書かれた扁額が懸けられている。
広福寺は枡形城主:稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)の館だったと伝えられている。

<稲毛領主菩提寺、松本山広福寺の脇門。泰山木や山桜の巨木が生い茂る>

 広福寺は平安時代に建てられた荒れ寺を稲毛三郎重成が長弁阿闍梨(ちょうべんあじゃり)を招いて中興した真言宗の寺で稲毛三十三所観音札所第1番となっている。稲毛領観音巡礼は民衆信仰の中でも御利益抜群で今でも人気のイベントである。
 本堂には本尊の木造五智如来坐像(桃山時代作)と共に稲毛重成坐像(木造:桃山時代作)が安置されている。

<梅雨晴れのひととき。激しく流れる雲の一団が観音堂の甍に影を落とす>

 境内の観音堂の裏には稲毛三郎重成の墓といわれている五輪塔が伝えられている。五輪塔を守護するようにボダイジュの大木がある。ちなみにスーパーマーケットのイナゲヤは稲毛三郎重成の後裔が創業時に命名したと言われている。

<中央の五輪塔が重成の墓と伝えられている。砂岩で摩滅が酷く確証はない>

隅田川<12>史跡勝鬨橋

2009-07-01 | フォトエッセイ&短歌
 東京湾から隅田川を上る。最初の橋が勝鬨橋(かちどきばし)である。「鬨」は常用漢字外のため、駅名・地名は「勝どき」と記す。意味は<戦いに勝った時に一斉にあげるトキの声>
 1905(明治38)年1月、日露戦争で旅順のロシア軍の陥落祝勝記念として「勝鬨の渡」が設置された。その後、渡船場は廃止されたが橋の名称として勝鬨は継承され、大陸侵略の歴史をうかがわせる。
 架橋の計画が進むが、第一次世界大戦、関東大震災などが相次ぎ、実際に工事が始まったのは1933(昭和8)年。竣功は1940年6月である。

<「東洋一の可動橋」と云われ1955年頃は年800回ほど壮快に開閉した>

 1933年と云えば満州国がでっち上げられ、国際連盟を脱退し、大陸侵略を本格化させる年である。石川島造船所を始め軍需産業の中心地でもある石川島・江東地区への交通が渡し船では様にならない。トラック交通の確保である橋は喫緊の要請であった。
 しかし当時、隅田川の船運は東京の経済動脈の一つで航行する船舶が多かった。このため陸運・水運(3千t級の船舶)を両立させるために、橋の中央部を「はねあげ」て大型船舶の通航を可能とした。跳開橋(ちょうかいきょう:はね橋)である。

<橋中央の「はね上げ部分の機械室」の下。1967年を最後に開閉は中止>

 勝鬨橋を渡った先で晴海通りと清澄通りがぶつかる。右折して清澄通りを300mほど進むと真円山東陽院(日蓮宗)がある。昭和5年に浅草から移転した古刹の雰囲気はゼロであるが、一角に十返舎一九(1765~1831)の墓があるので有名だ。
 弥次さん喜多さんを、洒落と風刺を利かせた軽妙な筆で描いた「東海道中膝栗毛」の作者である。
「この世をば、どりゃお暇に、線香の、煙とともに、灰左様なら」辞世の句も何とも洒落がきいている。天保2年没。

<線香の煙ととにハイ、サヨナラとは!最期はかくありたいものだ。享年67才>