年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

09'師走暦<7>トンネルの風景

2009-12-28 | フォトエッセイ&短歌
 渡り鳥の越冬場所になっている白石川に面して小野さつき訓導殉難碑と白鳥飛来の地モニュメント「白鳥とふれあう街づくり」の碑がある。近くの宮尋常高等小学校:小野さつき訓導の殉職の話。(当時は教師を訓導と呼んだ)
 『その日、五時間目の授業時間に、受け持っていた4年生56人を引率してここの河原へ写生に来たのだ。もう夕方、写生を終えた子ども達が河原の流れに入って遊び始めたので、注意しようとした時、三人の生徒が深みにはまって溺れ始めた。数日前の雨で白石川は水かさが増し、流れも早くなっていた。訓導(くんどう)は、とっさに袴も脱げず着物のまま飛び込んだ。二人の生徒を助け上げたが、まだ一人が溺れながら流されていた。訓導は必死で後を追った。ようやくその子の身体をつかんだとき、激流に力尽き二人とも沈んだという』
 大正11年7月7日、時に小野教師は22歳の若さであったという。この事件は、当時教育者の模範として報道され歌も作られ映画にまでなっている。

<小野さつき訓導殉難碑は事故のあった白石川を眺めるように建っている>

 その対岸辺りが東北本線の東白石駅で仙台はまだ50kmもある。一日に何人の乗降客があるのだろう。あっても一桁であろうか。じいさんとばあさんの地方は疲弊している。トンネルが黒々と口を開けて北風を飲みこんでいる。2009年というトンネルを抜けるとどんな風景が待っているのだろう。

<葦の枯穂が鉄路に影を落としている。住民のアシは車に奪われている>

 政権交代という大きな変わり目の年であった。それは従来の政治手法では先行きが見えないという閉塞感や不安がなした一票の怒りの結果でもあった。変わって欲しいことや変わらなければならないことは山積している。それから3ケ月、新政権は政治を語る前にまたまた金権の汚濁で足踏み状態だ。
 2010年、どんな変革のうねりが起きようとしているのか。トンネルを抜けるとそこに展開する世界は一体なんなのか… 。
 それでは、1年間お付き合いありがとうございました。良いお年を!

<微笑ましい野仏に名も知らぬ花が一本咲いている。来年の幸多きことを祈る>

09'師走暦<6>冬の鳥

2009-12-24 | フォトエッセイ&短歌
 東北自動車道の白石蔵王インターを下りると4号線で白石川に平行する。なぜかここが渡り鳥(わたりどり)のちょっとした拠点である。
 渡り鳥は食糧、環境、繁殖などの事情に応じて定期的に長い距離を移動する鳥のこと。川は延々と流れ来て流れ去るのだが、どうしてこの地なのか。地元の人たちが大麦やトウモロコシ、パンくずなどで餌付けしたのだろう。
 圧倒される数である。おもしろいことに、多種類の鳥が、みな太陽に顔を向けて同じ方向を向いている。仲間同士、おなじ行動をとるのが渡り鳥の習性なのだろうか。
 カモを睥睨するように悠然としているのがオオハクチョウ。体重は10kgを越え、空を飛ぶ生物としては限界の重さである。そのため、離陸時は助走を必要とする。 飛翔時の姿は、大型鳥類独特の美しく優雅な様をみせる。

<オオハクチョウはくちばしが黄色なので見分けがつく。鳴き声は「コォー」と鳴く>

 越冬のために日本より北の国から渡ってきて、冬を日本で過ごし、冬が終わると再び北の地に帰って行く渡り鳥を冬鳥という。ツグミ、ジョウビタキ、ユリカモメ、マガモ、オオハクチョウ、マナヅル、オオワシなどが冬鳥の仲間。
 何千キロという長い行程を飛ぶためには、仲間がおなじ行動をとるのだろう。みんなで水から上がって一休みするオナガガモ、綺麗な羽の持ち主は勿論オスである。
 人をあまり恐れず、餌付けされると陸に上がって餌をねだるようになる。だから、慌てて飛び去ったりせず、よたよたと歩いて道をあけてくれる。           
<華麗さに欠けるオナガガモだが、人間と共存できるタイプのカモのようだ>

 川の畔には晩秋の最後の光芒を放って散り積もった紅葉が照っている。風が吹くとふわふわとサラサラと一枚二枚と飛び去って後輩に場所を譲っている。

<木枯らしの頃にはワクラバに変わって粉雪が吹き抜けていることだろう>



09'師走暦<5>晩秋の里

2009-12-20 | フォトエッセイ&短歌
 蔵王連山は西側の山形蔵王と東側の宮城蔵王に別れる。その宮城蔵王の麓一帯には温泉があちこちに湧き出て遠苅田温泉は蔵王町の中心になっている。片倉小重郎の居城、白石城のある白石市に下って来ると火山灰地の土質を利用したフルーツ街道になる。季節ともなれば桃・梨・柿・リンゴなどが車窓から手の届く所に実っている。
 今年は寒さが遅いという。スキー場は雪の一片もなく師走の陽に新種の牧草が緑濃く芽を伸ばしている。収穫の遅れたリンゴもたわわに色鮮やかに萌えている。

<リンゴ畑を背に柿の木が揺れている。渋柿でやがて鳥のご馳走になるという>

 これから収穫するのか、立ち枯れのまま破棄されるのか。盛りを過ぎたリンゴの赤が透き通るような柔らかい色合いを晒している。
 昔、リンゴ農家の庭先でリンゴを戴いて食べた事がある。その上手さに驚いて「何ですか、この味は!」と思わず聞いたところ、出荷用のリンゴと自分等の食べるリンゴは栽培が違うのだと笑って応えた。

<このりんご、あるいは自家用のひと味違う美味しいリンゴかも知れない>

 リンゴ畑の谷戸に入って行くと乾ききった田んぼが白く広がっている。稲掛の「ハザ」も用済みであるが、もう一仕事と役に立っている。
 小豆の天日干しである。サヤを乾燥させるとパクッと口を開く。頃合いを見てそれを振ると、小豆の実がサラサラとこぼれ落ちるのだ。和菓子、甘納豆、羊かん、しるこ、赤飯などの小豆は昔から生活になじんできたが、食生活の変化で需要は激少。赤いダイヤと言われた「小豆」も90%が中国からの輸入である。

<生産地は、北海道の85%を筆頭に岩手県・福島県・秋田県・青森県である>

09'師走暦<4>広沢寺

2009-12-16 | フォトエッセイ&短歌
 岩場から少し下ると広沢寺は(こうたくじ)温泉のある広沢寺参道の入り口である。昔どこの村にもあった地蔵のたつ「里の辻」が見える。広沢寺の「里の辻」地蔵は「豆腐地蔵」の民話として親しまれている下向き地蔵である。
 『むかし、むかし、大山のふもとの七沢村に、一軒の豆腐(とうふ)屋がありました。雪の降る朝、主人が店をあけたところ、雪の上に山にむかって足跡がついていました。「朝早くから来た人もあるもんだ。すまぬことをしてしまった。豆腐を持っていってやるか」主人がその足跡をたどって行くと、広沢寺という寺の前の地蔵様の前で足跡は消えていました。
 「へんだなあ。地蔵様が豆腐を食べるわけはないのに…」と思いながら、豆腐を地蔵の前において帰ってきました。その夜、主人はふしぎな夢をみました。
 「ワシは及川村の寺におった地蔵だが、豆腐が大好きなのだが、及川村には、豆腐屋がないので豆腐を食べられなかった。長年つかえた寺じゃが、豆腐を食べたくて、この七沢村にやってきたのじゃ今朝の豆腐はとてもうまかった。これからも頼む。そのかわりにな、この村に入ってくる悪い病気を追い払はらってやるでの」と告げると消えてしまいました。
 その話は、たちまち村中に伝わり、村人は、この地蔵を「豆腐地蔵」と呼び、毎日豆腐をあげてお参りしました。村には、悪い病気もはやらずみんな長生きをしたということです』

<清流に洗われる大山豆腐は豆腐のブランド。見下ろす地蔵の表情は穏やか>

 地蔵の前方に広沢寺がある。寺の歴史は不明であるが、室町時代末の七沢城落城のおりに、関東管領(かんれい)上杉定正(さだまさ)の妻鶴姫が自害した所といわれているから古い歴史があるのだろう。
 上杉定正といえば太田道灌(おおたどうかん)を伊勢原市(相模糟屋:さがみかすや)の館で謀殺したため多くの家臣を失うというエピソードの持ち主である。

<温泉名の由来となった広沢寺。千両万両の赤い実がたわわに冬を告げる>

 その寺前に玉翠楼(ぎょくすいろう)という広沢寺温泉の一軒宿の和風旅館がある。名物は丹沢名物のイノシシ鍋である。
 この温泉の特徴はPH10.3の強アルカリ性であることだ。これほどアルカリ性が強い温泉はめったにない。露天風呂のお湯は透明で、入ると肌がつるつるする。周りの竹林を見ながらお湯を楽しめる。洗い場の蛇口から出るお湯は特にぬるぬるしていて、湯船のお湯よりもアルカリ性が強いようだ。

<紅葉の浮かぶ露天風呂にゆっくり浸って、名物のイノシシ鍋で一杯!極楽>

09'師走暦<3>ふれあいの道

2009-12-11 | フォトエッセイ&短歌
 日向薬師は「関東ふれあいの道」に組み込まれている。環境省の長距離自然歩道構想に基づき関東地方1都6県が整備した首都圏自然歩道である。八王子市の高尾山麓を起終点に関東地方を1周する総延長1655kmの自然歩道、美しい自然や 田園風景、歴史や文化遺産にふれあうことができるようになっている。
日向薬師境内の「関東ふれあいの道」から広沢寺(こうたくじ)温泉に向かうハイキングコースを散策する。

<「関東ふれあいの道」のマップ。大山回りと日向薬師廻りに分かれている>

 約3km、小さな峠を越え弁天の森キャンプ場を越えると広沢寺(こうたくじ)に通じる林道に出る。林道は丹沢山塊の麓から流れる渓流に沿ってあり、森林浴の出来る道である。渓流の水音と梢の囁きと風の流れが、晩秋の陽の中でゆっくりと時を刻んでいく。

<自然は微妙である。陽や風の流れで紅葉や黄葉に時間差で染めあがる>

 広沢寺は「岩場」と「寺」と「温泉」がセットとなって賑わっている。丹沢広沢寺の岩場は弁天岩と呼ばれ、古くからクライマーに親しまれている。現在もフリークライマーからアルパインクライマーまで、あるいは岩登りの初心者から上級者まで様々な岳人の訓練場として親しまれている。
 都心からも近く交通の便も良く、奥武蔵の日和田山と並び、東京近郊の貴重な岩登りのゲレンデである。クライマーは春夏秋冬、刻々の風情にザイルを染めて自然に埋もれる。

<1本のザイルを頼りに崖に取り付くクライマー。ハーケンを打ち込む響きが…>

09'師走暦<2>日向薬師

2009-12-07 | フォトエッセイ&短歌
 「日向薬師(ひなたやくし)」は柴折薬師・米山薬師とともに「日本三大薬師」に数えられ、薬師如来の霊場として親しまれている。が何となく雑然として落ち着きがなく古刹の風情に欠けているのには理由がある。
 明治の始め「神道と仏教」をわけろ(神仏分離)!との命令が出て「神と仏は一体」(神仏習合)として両者を奉っていた寺社が攻撃された。これを、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と云い、仏像や仏具が破壊された。
 この時、13坊を擁する大寺院であった日向薬師<それまでの名は日向山霊山寺(ひなたさんりょうせんじ)>もほとんどが破壊され宝城坊、鐘堂、仁王門のみが破壊から免れた。この、宝城坊(ほうじょうぼう)が現在の本堂(薬師堂)となっている建物である。

<仏も神も同じようなもんだワ。お迎え頼むで。今日はおばばのお薬師様参り>

 本堂右側に鐘堂と幡かけ杉がある。梵鐘には1340(暦応3)年の銘がある。寺の歴史には952(天暦6)年 村上天皇から梵鐘を賜ったが、その鐘が傷んだので1153(仁平3)年に改鋳、さらに暦応3年に改鋳したのが今ある鐘だ。国の重要文化財に指定されている。
 その隣の「幡かけ杉」は推定樹齢 800年と云われる。関東管領足利基氏が幡をかけて平和と五穀豊穣を祈ったと伝えられる。県指定天然記念物、かながわの名木100選に選定されている。

<重厚な茅葺きの屋根に柱の赤が冴える。大晦日の除夜の鐘ももうすぐだ>

 『吾妻鏡:あずまかがみ』(鎌倉時代の史書)に日向薬師の記事がある。1192(建久3)年、源頼朝の妻・北条政子の安産祈願のために読経をさせた寺院の1つが日向山霊山寺である。その結果、三代将軍源実朝が生まれたとある。
 その2年後には源頼朝が娘の大姫の病平癒祈願のため自ら「日向山」へ参詣したとの記載もある。

<境内の雑木に頼朝も見たのであろう烏瓜の朱が鮮やかな趣で揺れている>

09'師走暦<1>日向の里

2009-12-02 | フォトエッセイ&短歌
 小田急線伊勢原駅よりバスで約20分、東丹沢の懐・日向川の谷戸に位置する日向地区の里山に入る。秋は「彼岸花の里」で谷戸田は紅く炎のように燃え上がるが、晩秋のこの時期は紅葉が静かな彩りで揺れている。終点下車、バス停前が日向薬師(ひなたやくし)の参道入口である。
 日向薬師(高野山真言宗)は薬師三尊を本尊とする病気平癒、特に眼病に霊験ありとの信仰を集める。

<参道入口のコケに覆われた石像が静謐な陽射しの中で足音に耳を澄ます>

 表参道の苔むした七澤石のむき出しの自然階段を登って行くと寺林に護られた山門が迎えてくれる。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体の仁王像が眼光鋭く訪れる参詣者に睨みをきかせるている。正式名は金剛力士(こんごうりきし)像で、仏教の護法善神(守護神)である。
 当初の像は天保元年に火災で焼失し、現存する像は天保4年に後藤慶明により復元されたとある。その後、明治20年代に子の後藤慶広とその長男・運久により補修彩色された。

<仁王様の阿吽(あうん)に迎えられヨッコラショ!メタボにもご利益あれ>

 山門を潜って常緑樹や色づき始めた広葉樹の生い茂る急坂を歩く。この参道や本堂を取り巻く境内にはスダジイ、モミ、ウラジロガシ、イロハモミジ、タブノキ、ケヤキなどの自然植生が多数生育している。
 スギの植栽樹も見事な森林となるなど、専門家によると群落分布からの特殊性も指摘されてるという。そのため神奈川県指定天然記念物にも指定されている。
 階段を登りきると広い境内に木々に囲まれた本堂(薬師堂)が待っている。本堂の茅葺き屋根には雑草が生え、傷みが進んでいる。

<日向薬師の本堂。正式には霊山寺の別当坊であった宝城坊(ほうじょうぼう)>