年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

冬に至る

2007-12-27 | フォトエッセイ&短歌
 シベリア大陸から日本に向けて吹き出してくる季節風は日本海を渡って来るうちに水蒸気をたっぷり含むようになる。その水蒸気が雲になって列島の山岳地帯にぶつかって雪となる。
 雪の形で水蒸気を払い落とした季節風は、ヨロイをまとった主人を振り落とした荒馬の如く峠を駈け上り反転し駈け下る。尾根は風雪の舞い狂う厳しい形相となり、陽光もさえぎり視界を閉ざしてしまう。錐もみ状の乱気流が最後の雪片を振るい落とし、カラッ風となって平野に転げ落ちてくる。カラッ風が吹き抜けていく太平洋側の平野には冬の日が斜めに差し込んでいる。師走「冬至」がその境目となる。

<山の端は千切れ飛ぶ粉雪で黒く渦巻くが上空は霞むような青だ。>

 昼間の時間が最も短い「冬至」も過ぎ去り師走もせしく駆け抜けていく。「冬至」と言えばカボチャである。暮らしのことわざに「冬至にカボチャを食べると夏病みせぬ」というのがある。
 カボチャにはビタビンAの母体であるカロチンが含まれていて、鳥目を防ぎ、身体の抵抗力を強め、皮膚を美しくする働きがあるから、生野菜の不足する「冬至」の頃にカボチャを食べると栄養上良いという事である。
 しかし、それも今は昔の話である。食品ストアーに行けばイチゴ、トマト、キュウリ、ピーマンと夏物の野菜が鮮やかに積み上がっている。カボチャなんぞに頼ることはない。それも面倒なら瓶詰めの「ビタビン剤」もあるし、それも面倒ならドリンク「ビタビン剤」をグッと一本やれば良い。胃腸に負担かからんもん。胃腸は職場を失いやがて失業する。
 文明はそうやって人間のあらゆる身体機能を低下させてやがて退化させていく。すでに、その身体機能をつかさどる神経機能の回路が変調している事はニュースが伝えているところである。例えばこれだけ深刻な社会に問題になっているイジメ問題が解明できないのは神経機能の回路に問題があることに気づかない。
 ついでにもう一つ暮らしのことわざを。「冬至十日たてばアホでも知る」冬至から十日もたてば、めっきり日が長くなるので馬鹿でもそれに気づくだろうという事。冬至過ぎると米一粒ずつ日が長くなるから米十粒という事になる。(3ミリ×10=3センチ)ナルホド!

<防雪塀も立ち上がって降雪の準備も完了。道路に長く陰を落としている>

 今年は殊の外に秋が遅かったし、冬の訪れも遅れているという。やがて雪の里となる年末の小春日和。山間の沼にもまだ氷もなく穏やかに冬空の青を写している。

<葦の切り株でもあろうか、サザナミもない静寂の沼面に我が身を漂わせる>





古代から悠久の彼方に(4)

2007-12-22 | フォトエッセイ&短歌
 神代植物公園の前身は街路樹の苗場であったが、もう一つ歴史をさかのぼってみよう。昭和15年、内務省は東京の爆発的な人口増加に対応すべく都市環境・防災構造の観点から総合緑地(防災緑地)設置を進める。しかし、翌年には太平洋戦争が開始される。政府は戦時における都市空襲による戦災被害に備えたのだ。ナルホドナ~
 結果的にこの政策は別の意味で有効性を持った。戦局が悪化するなか東京は旧地主や小作農に防災緑地を貸与し穀物や野菜を生産させた。終戦後GHQによってこの貸与が不在地主(東京府)とみなされ農地解放の対象になって思わぬ自作農が創設された。
 神代植物公園に隣接する「深大寺」は関東で浅草の浅草寺に次ぐ古刹として知られる。江戸時代には元三大師堂(がんさんだいしどう)が厄除け(やくよけ)の尊像として大変な賑わいを見せている。

<深大寺の名称は,水神の深沙大王(じんじゃだいおう)に由来:深大寺山門>

 深大寺は水神様に由来しているといわれるように、ハケ:段丘崖(だんきゅうがい)からコンコンと湧き水が溢れかえって小川をつくっている。起伏の関係で野川とは逆に東から西に流れているので逆川(さかさがわ)と呼ばれる。深大寺水車館には水車が復元されている。小麦の製粉、玄米の精白用といして利用されてされている。

<コットンコットンいかにも長閑である。水の力をキネに伝える仕組みが分かる>

 文全協の「深大寺の遺跡」研修会も「深大寺城跡」を最後に終わる。水車小屋の真後ろに標高50mの丘陵が突き出している。これが深大寺城跡(国史跡)で、連郭式の中世城郭である。
 1537年、上杉朝定(うえすぎともさだ)は小田原の北条氏綱(ほうじょううじつな)に江戸城を奪われその奪回のため戦略的拠点に古城を利用して築城した山城である。しかし、上杉は本拠地の川越城を攻め抜かれ深大寺城は無用となり廃城。城としては情けない生涯であったが、上杉朝定も北条氏康に敗れている。種子島に火縄銃が伝わった頃の話である。

<上杉・北条の国盗り物語の夢の跡。土塁が確認され城址公園として復元>

<つるべ落としの夕刻。深大寺の名物「蕎麦処」にも灯が入り一献傾けて終了>

古代から悠久の彼方へ(3)

2007-12-17 | フォトエッセイ&短歌
 神代(じんだい)植物公園は、東京都調布市にある都立唯一の植物公園である。園内には約4500種類、10万株の植物が植えられ、4季の草木が千変万化に移ろい、年間を通じて花木の観賞が可能な植物園として親しまれている。最近では梅や桜やバラ、ツツジやハギの名所としても知られている。
 もともと、東京都の街路樹を育てるための苗圃(びょうほ)だったが、1961年に神代植物園として開園された。師走の空に見上げるような街路樹のケヤキやアオギリの葉が舞っている。彼等も若かった頃、この神代で育ったのかもしれない。

<存在感を示す芝生広場のバンバスグラス:西洋やなぎ。シルバーの穂が輝く>

 紅葉が真っ盛りである。秋が深まるこの頃、昔から「紅葉狩り」と称して詩歌にも詠われてきた。日本人は木々の葉の移ろいに殊のほか深く心を動かして来たのである。豪華絢爛、深山全山天空に至る圧倒的な錦繍(きんしゅう)の彩りがあるかと思えば、ベランダの片隅で楚々と色付く野草の彩り…。それにしてもこの見事な紅葉・黄葉は何だろうか。

<ハゼノキ(櫨紅葉):果皮からロウソクの原料をとるのでロウノキという別名>
 
 気温が低くなると、落葉樹は根からの水分吸収が弱まる。すると葉の根元にコルク質の物質ができ、根から葉に吸い上げられていた水や光合成で出来ていた養分(糖やデンプン)の通り道をさえぎってしまう。すると養分が葉の中に堆積し赤色(クリサンテミン)の色素がつくられると同時に葉緑素が分解して緑色が消えていくのだ。カエデ・ドウダンツツジなど紅葉の代表である。一方イチョウ・カツラなどは黄色(カロチノイド)によって黄葉となるのである。
 サラサラ血液がドロドロ血液になって身体に悪さするような感じだな~科学は美しきものの内面をしばしば暴き立ててしまう。

<調布市深大寺元町 5-31-10 JR中央線吉祥寺駅また三鷹駅南口よりバス>

古代から悠久の彼方へ(2)

2007-12-12 | フォトエッセイ&短歌

 国立天文台三鷹キャンパス、星空ウオッチャーには必見の研修場所。天文台歴史館(大赤道儀室:1926年築の国登録有形文化財)のドームの部分は木製で造船所の技師の手法で建造され、焦点距離10mにおよぶ屈折望遠鏡をすっぽり納めている。口径65cmの屈折望遠鏡としては国内最大で土星の衛星や星の位置観測に使われていた。
 初期、天文台の仕事と言えば経緯度の決定・暦の計算・時間の決定という市民生活に結びつくような結びつかないような民営化する訳にはいかないお仕事。現在は第1線を退いているが、その重厚幾何学的感触は圧倒的で老将軍の風格を思わせる。


<望遠鏡にはカメラ望遠鏡が取り付けられ太陽の黒点の写真撮影が行われた>

 天文台歴史館の前に至る100mの歩道が人気の「太陽系ウォーキング」コーナーである。太陽から土星までの距離は14億km、これを100mに縮めて惑星間の距離と様子を体験しながウォーキングするものである。つまり、太陽系の大きさを140億分の1に縮めたもの。1歩が約50cmなら、土星までは200歩。でも、その1歩はなんと700万kmに相当する。普通の頭ではイメージすら浮かばないのだが。
 例えば太陽に最も近い水星の径4880km/太陽から5800万km(0.39AU)・質量(地球を1とする)0.0553・赤道重力(地球を1とする)0.38・衛星数なし<温度:昼は430度 夜はー170度 大気殆ど無し。クレーターのような窪地に氷があるかも…>
 とてもついていけませんネ~。14億kmの遙か悠久の世界を共感するのは無理、人間は余りに小さい存在なのだ。


 
<月にはウサギ、火星にはスルメの親玉様の火星人の存在そんな夢もあった>

 木枯らし1号が吹き抜けた後、国立天文台三鷹キャンパスは秋の気配に押し包まれた。遅かった紅葉が一気に始まっている。地球と太陽の距離は1AU(1天文単位)約1億5000万キロメートルだそうだ。
 しかし、その太陽も50億年は輝き続けるがやがて燃え尽きて輝きを失ってしまうとか。地球最期の日ドウスンダロウ!深刻な心配をしながら宇宙を後にする。


<1万年前の世界から14億km先の世界に思いを馳せて。入場料はタダでした>









古代から悠久の彼方へ(1)

2007-12-09 | フォトエッセイ&短歌
 多摩川の二子橋から上流眼下を見ると兵庫島を挟むように右側から流れ込んでくる一本の川が見える。これが野川で上流12キロ位に国分寺がありその周辺が野川の水源地である。この野川沿いの台地は「遺跡の丘」といわれるくらい敷きつめたように遺跡があった。
 武蔵野台地(関東ローム層)は水はけがよく大地に降った雨は地中にしみこみ、その下にある礫層を伝わって川に面する崖に流れ出てくる。いわゆる「湧き水」である。
 そうなのです。<水こそ我が生命>原始・古代の人々は、日当たりが良く・水はけが良く・豊富な湧き水が絶えることのない絶好の条件を備えた野川沿いの台地に集落を構えたのだ。縄文時代・弥生時代~平安時代から中世へと連綿と続いた文化財の宝庫となった。しかし、丘を削り谷を埋め、コンクリートで固める開発が進み圧倒的多数の文化財が姿を消した。
 三鷹市にある広大な敷地を持つ国立天文台の南西側に野川は流れている。この一角は住居跡だけではなく神聖な墓域でもあったのだろうか。現在、三鷹市内に現存する唯一の高塚古墳の調査が行われている。

<玄室・前室・羨道を持つ典型的な横穴式古墳。トレンチから墳丘の構築を調査>

 東京都三鷹市大沢にある国立天文台の歴史は古い。発祥は江戸幕府天文方の浅草天文台でその後、東京帝国大学の天文台、麻布の東京天文台を経て1924(大正13)年に現在地へ国立天文台として移転する。我が国の天文学研究の共同利用センターで、戦前より数々の天体観測と重要な発見もあった。
 2004年、行政改革の一環として「独立行政法人:大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台」と何とも非常識な長たらしい名称になっている。
太陽分光写真儀室(アインシュタイン塔)は1930年に完成。高さ20mの天辺のドームから入った光はシーロスタット(平面鏡)に反射して垂直に取り込まれ、北側に続く半地下の大暗室で7色のスペクタルに分けられいろんな研究に使われるンだって!

<塔望遠鏡だが横溝正史のミステリーのシチュエーション。国登録有形文化財>

 「独立行政法人:大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台」の敷地。東京にもありますね~まだまだ自然が…

<赤松に雑木林が茂る武蔵野段丘の自然林。朽ちた倒木に若木が揺れている>

<雲間から落ちゆく夕陽の光芒が、カラタチの鋭い棘を凛として映し出している>

松代-終章:風林火山

2007-12-04 | フォトエッセイ&短歌
 NHK大河ドラマも川中島の合戦を最後に終わりとなる。ドラマのENDマークが出た後は総集編があって紅白歌合戦があって、行く年来る年で今年も終わりだ。駆け足の1年間、月めくりのカレンダーも後がなく寂しい限りだ。すでに食傷気味の風林火山だが松代に来たついでに風林火山の里:信州版の一席を。
 犀川と千曲川が交わって信濃川になるがその中州を川の中の島「川中島」と呼んでいる。謙信との決戦の拠点として築城された海津城はその千曲川に面している。上杉軍は海津城の背後1.5kmの妻女山に陣構をこしらえにらみ合いが続いていた。「兵は勝つことを貴ぶ。久しき(長期戦)を貴ばず」。
 『孫子』の兵法を軍師:山本勘助が「キツツキ戦法」として進言した。「キツツキは木の虫を食べるときに、くちばしを穴に突っ込んで直接食べるわけではない。まず、穴の反対側をつつくんです。虫は驚いて穴から出てきます。それを食べるんですよ」。武田信玄のGOサインが出た。
 軍勢を二手に分け、本隊を川中島の八幡原に置き、別働隊が妻女山の裏から夜襲を仕掛ける。混乱した上杉軍は信玄が本陣を敷く八幡原に退いてくる。挟み撃ちによる一網打尽、止めを刺すという作戦である。

<川中島古戦場跡、峰を背景に秋の訪れを待ちかねたススキが白く煙っている>

 時に1561(永禄4)年9月9日、飯富ら1万2千が妻女山に夜襲を仕掛け、本隊8千は勝ち鬨の声を待った。しかし、待てど暮らせど寂として騎馬も鉄砲も甲冑の響きも起こらない。明けの明星がぼんやりと鈍く瞬くばかりである。
 その時すでに勘助の「キツツキ戦法」を看破した謙信はいち早く妻女山の陣を破棄して全軍が八幡原に展開していたのである。
 深い川霧が立ちこめる中、朝の陽光が辺りを照らし出し、霧が晴れ始めた。驚愕の世界が展開している。毘!毘!毘!『車懸の戦法』をとる上杉軍が武田軍を蹴散らしながら信玄の本陣に急迫している。
「信繁様、ご最期!」「虎定様も討死!」「山本勘助様、憤死!」悲報を告げる物見の兵もその場でがっくりと倒れる。
 信玄が軍配を握って立ち上がったその時、萌黄(もえぎ)色の陣羽織を身にまとい、月毛色の馬にまたがった騎馬武者が愛刀・小豆長光(あずきおさみつ)を振りかざして猛進してきた。上杉謙信である。
 信玄の眼前で鋭く長光の刃が弧を描いた。ガッ!流線を軍配で受け止めたが、腕から真っ赤な血しぶきが上がった。騎馬武者は馬を翻すと、間髪入れず振り向きざまに二太刀目を繰り出す。バシッ!今度は信玄、その切っ先を軍配でたたき払った。信玄は腕と肩の二か所に傷を負い、軍配には七か所の傷があったという。三太刀七太刀の謙信と信玄の一騎討の様子である。

<危うし、信玄!仏教に深く帰依した謙信の長光の刃を軍配で受け止める>

 形勢の立て直しができたのは巳の刻(午前十時頃)である。高坂ら別働隊一万二千がようやく八幡原に戻って参戦してからである。上杉軍の死者は三千五百人、武田軍の死者は四千五百人と伝えられている。八幡原の川中島合戦場跡には首塚にがあり激戦で踏みつぶされた雑兵たちの悲しみの呻きが絶える事はない。彼等の像が建つ事は金輪際ない。歴史を動かす民衆が歴史の表に立つことはない。

<甲州の風林火山の里は滅亡の儚さを持っているが、ここは戦いの里である。>