年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

歴史の彼方へ

2007-03-27 | フォトエッセイ&短歌
  <代々木練兵場-2>小田急線代々木八幡駅前の高台に立つ「代々木八幡宮」の境内は樹林に被われヒンヤリと冬の名残を留めている。それでも雑木の新芽はふっくらと緑の準備をしている。創建は鎌倉時代という。明治に入ってからも村の鎮守として村民のコミュニティーの場として暮らしの中で活用されていたのであろう。
 物事は思わぬ時に思わぬ形でやってくるものだ。代々木の丘陵一帯に陸軍練兵場が設けられる事になり、立ち退きを余儀なくされてしまった。帝国の御命令である。ウンもスンもない接収である。慌ただしい退去の中で、別れの杯を酌みかわすも、ふる里への心情絶ちがたく、せめてもの足跡を残すべき「訣別の碑」が建てられた。

 「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際、各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ思ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス  明治四十二年一月建設」<離散した17名の氏名が刻まれている>

 

 この「訣別の碑」は参道に立つ大きな石燈籠に刻んである。1945年、陸軍の解体後も土地は戻ってこなかった。戦後はアメリカ軍の軍用地となり、オリンピック選手村となり、代々木公園になって現在に至った。まさに帝国主義の歴史と戦後民主主義の激動の歴史を経てきた。今その石灯籠に一枚の張り紙がされている。
 ~「訣別の碑」の建立より百年となり修復を計画中です。刻まれているお名前にお心当たりがございましたら社務所までご連絡ください ~ たかが1世紀、17家族のその後の歴史は漠としてわからない。

究極の仏

2007-03-20 | フォトエッセイ&短歌
 阿弥陀寺は箱根湯元駅から塔の峰の登山道を登る。「悲劇のヒロイン」皇女和宮の香華院・「あじさい寺」とも呼ばれて、梅雨時の紫陽花の咲く頃が風情一段と深まるのである。昼なお暗き樹林に被われた石仏が並ぶ参道、苔むす石段…いかにも浄土への路という感じであった。


 阿弥陀寺30年振りの再訪である。すっかり様変わりしていて茅葺きの本堂は銅板で被われ、コンクリート打ちの坂道を坊主を乗せた四輪駆動車がガスをまき散らして走り去っていく。ナルホド自力歩行はダメだ!他力本願なのだ!
 本尊の阿弥陀様はなかなかのエラブツである。無明の現世をあまねく照らし、西方にある極楽浄土を体現しているという。煩悩具足の凡夫はもとより、諸仏も最後には阿弥陀仏に依らなければ、仏としての悟りを開く事は出来ないといわれる<究極の仏・仏の中の仏>なのだそうだ。だから極楽浄土を願うなら阿弥陀様の本願にお縋りするのである。自力は否定され他力本願なのである。

    
 桜田門外で大老:井伊直弼が暗殺され幕府の権威は失墜し、尊王攘夷運動は一気に高まる。倒幕の機運を牽制するために「公武合体論」=連合政権構想が浮上。14代将軍家茂と孝明天皇の妹和宮の婚姻で権威の回復と打倒幕府派を押さえようとしたが、流れを止める事は出来なかった。哀れ!和宮であるが、なぜここなのかは不明?
マア、行列の出来る蕎麦でも食って一休み。味はどうかって?ソリャアー30分も並んだのだ。付加価値もつくわナ…マズイ訳はない。

六郷の渡し

2007-03-14 | フォトエッセイ&短歌
 歌川広重は浮世絵「東海道五十三次」で川崎宿を描いている。江戸から川崎に向かう『六郷渡舟』の図で六郷川(多摩川)を渡る舟上から、藍色の濃淡の川面に舟を操る船頭や旅人、対岸の川崎宿を越えて聳える富士山を絶妙の構図で描いている。
 六郷大橋は慶長5年に架橋されたが洪水による流出が重なり架橋は断念。以後186年間、渡し舟による川越えが行われていた。再架橋は1874(明治7)年である。

 渡舟発着所となったこの地は、品川宿と神奈川宿が5里もあって不便という理由で宿駅制度発足より20年ほど遅れて川崎宿として制定された。慢性的な財政危機に見舞われていた川崎宿は江戸町人が所有していた「渡船権」を川崎宿に委譲させ渡し賃(10文)をとって財政再建を果たした。田中兵庫が川崎中興の祖といわれる所以である。
 ちなみに武士からは舟賃は取れなかった。(武士はエラカッタノダ!名字帯刀、切り捨て御免!それに顔パスだもんナ~)東海道を上り下りする旅人の休憩の地としてだけではなく、霊場川崎大師を江戸庶民に売り込み、遊女屋を開設するなど積極的な観光政策を手がけている。


 多摩川の汽水域(きすいいき:淡水と海水がまじりあう水域)は羽田の河口から田園調布の丸子橋まで。東京湾に近い六郷橋の辺りは満潮時ともなると水位が上流に向かって流れ込んで行く。ダイナミックな宇宙の神秘を見る思いだ。
 淡水と海水が行き来するので多種類の鳥・魚類、あるいは植物類が豊富だという。
     
       都鳥のランデブー。見てらんねーよ、チィッ!

国境をめぐる

2007-03-08 | フォトエッセイ&短歌
 <代々木練兵場-1> 国木田独歩は代表作『武蔵野』を著述するのに1896(明治29)年、「渋谷村の茅屋に住んでいた」時の日記の紹介から書き起こしている。例えば11月4日「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」。あるいは「稲が刈り取らる」「田に水あふれ林が林影倒(さかしま)に映れり」とも記している。
 喧噪シブヤの象徴「センター街」が雑木林と田園の続く狐狸の里村であったとは想像も出来ない。東京府豊多摩郡渋谷町字渋谷と呼んでいた頃の話である。現在でも代々木公園にはこんな雑木林が残っている。


 この里村が一変するのは1910(明治43)年である。青山練兵場が博覧会開催のため閉鎖されその代替として代々木練兵場(代々木陸軍刑務所もこの一遇に設置)が開設されてからである。若者たちの戦闘訓練の場として軍靴に踏み固められ赤土がむき出しの広場に一変したのだ。
 そして兵士達はアジア各地に出撃していった。『きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記遺稿集』をあらためて手に取る。侵略正当化のスローガン「大東亜共栄圏」の野望はポツダム宣言受諾によって根底から崩れた。
 1945年連合軍に占領されると、代々木練兵場は米軍キャンプ地として接収された。ワシントンハイツである。日本に返還されたのは1964年の東京オリンピックの時である。代々木公園として市民に完全に開放されたのが、その3年後である。暖冬の陽が恋人達の背に柔らかく降り注いでいる。

 

代々木の丘で1910年12月。徳川好敏と日野熊蔵が日本で初めて飛行した。ライト兄弟の初飛行の7年後のことだったという。徳川はフランスからアンリ・ファルマン機を日野はドイツからグラーデ機を持帰り、この渋谷の空を飛んだ。そんな記念碑も代々木の一隅にはある。

未完の完成

2007-03-02 | フォトエッセイ&短歌
 凱旋門かな?この時代がかった華麗にして荘重な水門は!高さ20mの左右の塔とそれをつなぐ梁、そしてゲートによって構成されており、渦巻き模様と飾り窓のついた塔頂には、梨・桃・葡萄をモチーフとした巨大な彫刻が配されている。当時の河川敷の砂地を利用して栽培されていた川崎の名産品でる。非常にユニークかつ優れた意匠だ。
 1926(大正15)年に着工、1928年(昭和3)年に完成、文化庁登録有形文化財に登録されている「川崎河港水門」である。


 第一次世界大戦で「戦争成金」を生みだした日本のバブル経済は重化学工業に軸足を移し京浜工業地帯の発展が期待された。政府は工場敷地の開発のために川崎港に抜ける大運河・河港計画を目論んだのだ。
 しかし、世界恐慌という資本主義経済の壊滅的破綻の中で水門ゲートから先の工事は進む事はなかった。やがて日中戦争、太平洋戦争への戦時体制下で膨大な軍事予算や戦局の悪化の影響などもあり、1943(昭和18)年に計画は廃止された。こうして多摩川と川崎港を直結するはずだった大運河は80mほど開削した地点で幻となって終わっている。


 京浜急行大師線「港町駅」で下車して多摩川堤に出ると右手に工場群を背に見えてくる。現在、その80m位⊐形に掘られた船溜まりは千葉からの山砂の運搬船の発着場になっている。
対岸の河口は羽田でビルの中から飛行機が飛び行く。