<代々木練兵場-2>小田急線代々木八幡駅前の高台に立つ「代々木八幡宮」の境内は樹林に被われヒンヤリと冬の名残を留めている。それでも雑木の新芽はふっくらと緑の準備をしている。創建は鎌倉時代という。明治に入ってからも村の鎮守として村民のコミュニティーの場として暮らしの中で活用されていたのであろう。
物事は思わぬ時に思わぬ形でやってくるものだ。代々木の丘陵一帯に陸軍練兵場が設けられる事になり、立ち退きを余儀なくされてしまった。帝国の御命令である。ウンもスンもない接収である。慌ただしい退去の中で、別れの杯を酌みかわすも、ふる里への心情絶ちがたく、せめてもの足跡を残すべき「訣別の碑」が建てられた。
「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際、各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ思ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治四十二年一月建設」<離散した17名の氏名が刻まれている>
この「訣別の碑」は参道に立つ大きな石燈籠に刻んである。1945年、陸軍の解体後も土地は戻ってこなかった。戦後はアメリカ軍の軍用地となり、オリンピック選手村となり、代々木公園になって現在に至った。まさに帝国主義の歴史と戦後民主主義の激動の歴史を経てきた。今その石灯籠に一枚の張り紙がされている。
~「訣別の碑」の建立より百年となり修復を計画中です。刻まれているお名前にお心当たりがございましたら社務所までご連絡ください ~ たかが1世紀、17家族のその後の歴史は漠としてわからない。
物事は思わぬ時に思わぬ形でやってくるものだ。代々木の丘陵一帯に陸軍練兵場が設けられる事になり、立ち退きを余儀なくされてしまった。帝国の御命令である。ウンもスンもない接収である。慌ただしい退去の中で、別れの杯を酌みかわすも、ふる里への心情絶ちがたく、せめてもの足跡を残すべき「訣別の碑」が建てられた。
「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際、各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ思ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治四十二年一月建設」<離散した17名の氏名が刻まれている>
この「訣別の碑」は参道に立つ大きな石燈籠に刻んである。1945年、陸軍の解体後も土地は戻ってこなかった。戦後はアメリカ軍の軍用地となり、オリンピック選手村となり、代々木公園になって現在に至った。まさに帝国主義の歴史と戦後民主主義の激動の歴史を経てきた。今その石灯籠に一枚の張り紙がされている。
~「訣別の碑」の建立より百年となり修復を計画中です。刻まれているお名前にお心当たりがございましたら社務所までご連絡ください ~ たかが1世紀、17家族のその後の歴史は漠としてわからない。