年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<11>居留地明石

2009-06-25 | フォトエッセイ&短歌
 隅田川左岸の港区明石町。聖路加国際病院はアメリカ聖公会宣教師トイスラーが築地外国人診療所を開設した事に始まる。現在、米国公使館は赤坂にあるが1890年に移転するまではこの聖路加病院に隣接していた。
 1858年、開国した江戸幕府は諸外国と修好通商条約を結んで国交通商を開始した。ところが攘夷運動が荒れ狂い到底外国人を一般市街地に生活させる事は不可能と考え、「築地外国人居留地」を指定した。マア一種の隔離政策である。そのために領事館や商社など西欧文明を漂わす独特の街並みが造られていった。

<緑の木陰がアメリカ公使館の跡地で、明石小学前に当時のガス街灯がある>

 江戸時代、播磨(はりま)国、明石の漁夫が移住して造られた明石町は明治維新と共に文明開化の発信地ともなった。教会やミッションスクールなど多数建設され、青山学院や立教学院、明治学院、女子聖学院の発祥地となっている。
 福沢諭吉は、この地にあった豊後中津藩(なかつはん)(大分県中津)の屋敷に寄宿し蘭学塾を開いたことがあった事から慶應義塾大学発祥の地ともなっているので面白い。同じく中津藩の医師・前野良沢らがオランダ語に翻訳されたドイツの解剖学書「ターヘル・アナトミア」を初めて読んだ由緒ある場所でもある。

<天は人の上に人を造らず…、後の赤御影石は『解体新書』の蘭学事始の碑>

 長崎出島のオランダ商館医として来日したシーボルトは鳴滝に医学校(鳴滝塾)を設け、西洋医学を教授した。1828(文政11)年、任期終了で帰国するシーボルトの荷物から日本地図等の持ち出し禁止の品が発見されスパイ容疑で逮捕され国外追放処分となった。(シーボルト事件)
 1858年、日蘭通商条約が結ばれシーボルトの追放令は解除。再来日し対外交渉のための幕府顧問になるも職を辞して帰国。この間、「築地外国人居留地」で生活したのであろう。
 シーボルトは丸山遊女であった楠本滝との間にイネという娘をもうけていた。混血児イネの生涯は波瀾万丈でる。明治3年、イネは東京の築地に産科医院を開院している。女医としての評判も高く福沢諭吉はの推薦で天皇権典侍葉室光子の出産に関わった。
 当時の日本には「女医二人」とあるが、その一人が日本初の西方女医であるイネだろう言われている。

<聖路加病院の東側に建つシーボルトの胸像は娘イネの産院に注がれる?>






隅田川<10> 築地川幻影

2009-06-20 | フォトエッセイ&短歌
 江戸時代、江戸湾の埋立は非常な勢いで進められた。あるところは掘(運河)として、ある場所は排水の川として計画的に埋め立てられた。本願寺の裏を流れていた築地川(つきじがわ)もその一つである。
 明治初期の頃と思われる古老の話(『銀座・築地物語絵巻』)。築地川は水が澄んでいて、ハゼや手長エビ、ボラが釣れ、上げ汐ともなれば小カレイ、サヨリに黒鯛の子などが海から迷い込んできたし、シジミはつねに採れたといいます……。
 東京湾に注いだこの二級河川(築地川)も現在では埋め立てられ、河口である浜離宮庭園と築地市場の間に500メートくらい面影を残すのみである。

<埋め立てられ公園となった築地川公園。かっての橋をスケッチする子供二人>

 築地川公園の西側に聖路加看護大学(せいるかかんごだいがく)がある。1920(大正9)年、キリスト教宣教医ルドルフ・B・トイスラーによって創立。単なる職業訓練にとどまらず、社会性を備え、人間と社会を理解することができる看護師の育成をめざした(建学の理念)。
 隣には最先端最大と目される、聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)がある。時の人:日野原重明氏は聖路加国際病院の名誉院長である。この「全館野戦病院化が可能」という日本においては他を圧する各種機能は、1995年の地下鉄サリン事件においてその機能をいかんなく発揮した。

<大学本館と保存された聖路加国際病院旧館。看護師受難の昨今である>

 旧築地川から看護大学・国際病院の一帯は赤穂藩(兵庫県赤穂市)、浅野家の江戸上屋敷があった所で、忠臣蔵で名高い。浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)は1701(元禄十四)年、江戸城中松の廊下で勅使饗応指南役の吉良上野介義央(きらこうずけのすけ よしひさ)に「この間の遺恨覚えたるか」と叫んで斬りかかったのである。
 その真相は不明であるが、即日、切腹を命ぜられるとともに江戸屋敷および領地などは取り上げられた。忠臣蔵の発祥の地である。

<大学脇にある赤穂藩浅野内匠頭邸跡の碑。未だ衰えない忠臣蔵の人気>

隅田川<9>築地本願寺

2009-06-15 | フォトエッセイ&短歌
 国内最大級の魚市場、中央卸売築地市場から新大橋通りを北上すると、地下鉄日比谷線の築地駅がある。本願寺の敷地内にあるので「本願寺前」の副名称を持ち、大谷石を使用しているなどユニークな駅だ。
 大谷石は耐火性にすぐれ、石の重量も軽く、石質が柔らかいので加工が容易である。特段の説明もないが何か根拠があったのだろうか。
 築地は外国人居留地に指定され領事館が並び外交官や宣教師などが住んだというから、その影響で大谷石なども早くから使われていたのかも知れない。アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計された旧帝国ホテルは有名である。 
   
<地下に降りる駅舎入口を大谷石仕様にして落ち着きを持たせている築地駅>

 寺といえば古木に囲まれた重層な本堂、苔むした山門などをイメージするが、この築地本願寺(浄土真宗)は何とも晴れ晴れとした非日本風である事か。
 関東大震災で崩壊した本堂の再建に古代インド様式(天竺様式)の伽藍を用いたのである。

<異国風な本願寺。背後から雲に乗った孫悟空が出てきそうな華やかな景観>

 元は浅草にあり「江戸浅草御坊」と呼ばれていが、有名な振袖火事(明暦3年)で焼失した。幕府は都市計画をすすめるため旧地への再建を許さなかった。何と下付された替え地は八丁堀の沖合(海上)であった。佃島の門徒が中心になり、海を埋め立てて「築地御坊」と呼ばれる本堂再建がかなったのは延宝七年である。
 境内には間新六の供養塔、酒井抱一の墓、九条武子の歌碑などなど盛りだくさんの足跡を語る遺物がある。
 土生玄碩(はぶげんせき)は眼科医で徳川将軍家奥医師。オランダ商館医シーボルトに切望して散瞳薬の伝授を受け、謝礼として将軍家紋服を贈ったが、これがシーボルト事件で発覚して処罰された。

<土生玄碩は事件に連座。財産没収、終身禁固刑。嘉永元年87歳で没>

檜原.山里の幸

2009-06-10 | フォトエッセイ&短歌

 五日市駅から檜原街道を進むと本宿に至る。本宿は檜原村の中心地で村役場があり、山奥からの路も川もここで合流している。街道の要であったのだ。江戸時代に間道の往来を監視する口留番所(くちどめばんしょ)が置かれた。旅人や荷物の出入りを検査するために設けられた見張り所で関所ではない。
 諸大名は他藩との軍事・政治的緊張に備えて藩境に口留番所を設けたが、実際には領民の他領逃亡の防止や一揆鎮撫(いっきちんぶ)など領民支配に重要な役割を果たした。

<バス停「本宿役場前」に当時の遺構を再現した番所の木戸が復元されている>

 数馬の祖、中村氏が氏神として武運長久のために祀った九頭竜神社がある。身を清めてから神社に祈願したのであろうか、近くに九頭竜の滝がある。南秋川本流に掛かる落差10Mほどの階段状の滝である。木漏れ日の光を映して飛沫をあげて流れ下る滝を守る注連縄が揺れている。


<しばし眼を閉じて瀬音と緑の風のハーモニーに耳を傾ける。久遠の響きである>

 檜原は渓谷の山里である。渓流を利用したワサビなど多くの山菜が収穫される。鳥たちもさえずり大きな水車が休む間もなく回り続けている。
 築400年という座敷でウド・タラの芽・ツクシを肴に地酒の杯を傾ける。

<自然の味を生かす十数種の山菜が並ぶ。ウナギの薄造りも…初めての珍味>


檜原・カブト造り

2009-06-05 | フォトエッセイ&短歌

 檜原は関東山地にあり、多摩川の上流である北秋川と南秋川の渓谷を囲むようにして在る。北秋川沿いに三都郷(みつご)・神戸(かのと)・樋里(ひざと)、南秋川沿いには人里(へんぼり)・笛吹(うずしき)・数馬(かずま)などの悩ましい集落が点在するのも落人の伝説を持つ里らしい。

<秋川渓谷の清流が飛沫をあげている。サンショウウオがじっとうかがっている>

 奥深い山里の文化は10年1日の如く緩やかに流れ、人々は風物の変貌のあることを知ることもなく生涯を閉じるのかもしれない。時代が流れ、ふと気がつくと取り残された山里の風物が際だった文化として継承されていることを認識する事もあろう。
 檜原村の兜(カブト)造りと呼ばれる家屋などもその一つである。合掌造りの妻側を短く切り破風をおおきくとったもので、外観が兜に似ているのでその名が付けられた。


<檜原村のは入母屋の二重兜造りで山梨の影響が強い事から甲州系兜造り>

 巨大な兜造りは若干の差異を見せながら各地方ごとに見られる特異な民家である。数馬の兜造りは妻側に二段以上の庇を持っている。建物が大きくて高いのは屋根裏を蚕養に使うためである。カイコ棚を3層~7層も設置したという。
 カイコは凄い食欲で桑の葉を抱え込むようにたいらげていく。ザワワザワワ風にそよぐサトウキビ畑のような音を奏でながら……。音が止むと薄暗い屋根裏で糸を吐きながら繭づくりに励むカイコの姿は神秘的である。


<採光・通風などを考えた養蚕棚を持った多層構造の合掌造り。大型化する>


檜原・数馬の里

2009-06-01 | フォトエッセイ&短歌

 東京都西多摩郡檜原村(ひのはらむら)。島を除けば東京都の唯一の村(島には人口198名の青ヶ島村など7ケ村ある)。その檜原村の最奥が数馬の集落。1968(昭和48)年の奥多摩周遊道路が開通するまでは日本の4大辺地(肥後の祖谷・越後の三面・秩父の裏山・檜原村の数馬)に数えられていたという。
 今でも武蔵五日市駅から数馬までのバスは1時間1本という心が洗われるようなゆっくりとした時間が流れる。

<秋川渓谷の斜面にへばりつくように点在する傾斜地のわずかな畑と屋敷>

 辺境の地と言えば落人。「源氏に敗れた平家の落人が住み着いた」伝説が定番。この数馬の里も「平家落人」の伝説があるが、「甲斐武田氏の落人伝説」もある。高貴な一族が戦いに敗れて深山未踏の山奥でひっそりと暮らす。それだけで物語となる。
 しかし、史誌によれば「1336年、この村を拓いた中村数馬守小野氏経が南北朝の戦いで南朝方として従軍した」とあるから、落人伝説より南北朝時代の軍事上の拠点であったと考えられる。(「数馬」という地名は中村数馬に由来)
 その中村家が代々神主を受け継いでいる九頭竜神社が里の神社として祀られている。


<訪れる人もない九頭竜神社境内。いよいよ石原都知事も神頼みとなった>

 辺境の里の江戸時代の産業は養蚕、林業、材木の川流しなどだったが、花形産業は「炭焼き」である。巨大消費都市、江戸の需要をまかなったのが檜原村。
 焼かれた炭は急峻な檜原街道を下って五日市まで運ばれる。帰りには穀類・雑貨を背負った牛馬が山道を息を切らせながら登ってくる。危険はつきものである。石仏に道中安全の願いを託した。


<道端に佇む馬頭観音、山の神、地蔵。馬方や旅人の安全を静かに願っている>