年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

緑陰<1> 土浦宿

2010-08-08 | フォトエッセイ&短歌
 土浦藩(つちうらはん)は茨城県土浦市大手町付近にあたり、土浦城が今にその歴史を語っている。徳川御三家の水戸藩と江戸との中間に位置する重要な軍事的な拠点であったために、実力者が藩主に任命された。1687(貞享4)年、老中:土屋 政直(つちやまさなお)が9万5000石の大名として赴任する。
 沢山の掘に囲まれ土浦城の城郭は残っていない。往時、遠くから見るとその姿が水に浮かぶ亀のように見えたため「亀城」の愛称で呼ばれた。
 土浦城の歴史は古く室町時代に築かれたと言われる。現在土浦城跡は亀城公園として市民の憩いの場になっている。

<最初の築城は室町時代で櫓門は城郭建築の遺構としては関東唯一のもの>

 土浦市は土浦城の城下町として発展するが、同時に水戸街道の土浦宿としても重要な街として賑わった。水戸街道は水戸徳川家と江戸城の将軍家を結ぶ街道。千住、新宿、松戸、小金、我孫子、取手、藤代、若柴、牛久、荒川沖、中村、土浦、中貫、稲吉、府中、竹原、堅倉、小幡、長岡の19宿場で結ばれている。
 水戸徳川家は定府(じょうふ)で藩主は江戸に生活の本拠をおいていたので、参勤交代はなかったが、藩主が国許に下る時に水戸街道を使用。お供揃えも美々しい「大名行列」をしつらえ、重役から町役人一同、土下座して送り迎えをしたという。

<近くに霞が浦があり、水利は便利だ。幾重もの掘が掘られ緑陰を映している>

 土浦は水戸街道の宿場町として、あるいは霞ヶ浦水運の拠点地:物資集積地としても栄えた。江戸末期の豪商たちの太い材木を使った蔵や民家等の古建築が「土浦まちかど蔵」として数棟が残っている。酷暑の中の歴史散策も一興、格好の地である。

<江戸時代から続く商家「野村家」の母屋と袖蔵・文庫蔵・レンガ蔵がならぶ>

梅雨明け<4>荒川に

2010-08-04 | フォトエッセイ&短歌
 自動車が発達する以前の最大の輸送手段は海運・川運の船による輸送であった。そのために江戸時代、幕府は船による物資の運送を統制し管理した。例えば、海運の場合、江戸と上方を結ぶ菱垣廻船や樽廻船等の物資輸送を取り締まる番所として江戸湾の入り口三浦半島に三崎・走水番所を置いている。
 小名木川の出入り口にあたる中川舟番所は川の関所の代表的なものである。江東区は、この地に「中川舟番所資料館」を建て、『江戸名所図絵』をもとに当時の舟の関所の様子を再現している。

<見張り小屋で積荷を点検されている。不審な点があれば番所で吟味される>

 江戸川柳に「通ります通れ葛西のあうむ石」というのがある。舟の往き来が多くて、積荷を調べたり手形を吟味したりする通関手続きが間に合わなくて形式化してしまったのだろう。あるいは、袖の下でももらっている番所の役人を「あうむ石」とからかったのか知れない。
 前方の橋は平成橋でこの先の小名木川水門を経て荒川にいたる。

<「中川舟番所資料館」から、小名木川の出入り口あたりの様子が見られる>

 荒川は「荒」という名の通りの暴れ川で大雨ごとに川筋を変えて流れる。この暴れ川を制御出来るようになったのは「荒川放水路」の開通である。それに伴って1965(昭和40)年、岩淵水門の下流を「隅田川」と確定した。
 大島小松川公園の木陰に立つとささやかな川風が暑気の中に流れている。船運の川に変わって首都高が東京の空を埋めている。

<荒川の上を走る中央環状線。左手は都営新宿線で、前方が船堀駅である。>

梅雨明け<3>舟の関所

2010-08-01 | フォトエッセイ&短歌
 記録的酷暑の炎天下、川端の涼を求めて江東区の小名木川を歩く。小名木川は隅田川と荒川を結ぶ舟運のために江戸時代の初めに掘られた運河である。海産物や野菜・米などが舟で運ばれた。江戸八百八町の発展と共に、小名木川も生活必需品を運送する大動脈として発展した。
 農産物を満載した猪牙舟(ちょきふね)が列をなして江戸に向かう。下る時には手工製品や旅人を乗せて江戸を離れる。船頭たちが声をかけ合いながら艪を漕いで行く。そんな舟運の様子をイメージするのは難しい佇まいである。

<小名木川の中程のクローバー橋あたりか。涼風とはいかず熱気が漂ってくる>

 江戸に出入りする舟運の発達は厳重な警備が必要となる。そこで隅田川の深川の一画に「人改之御番所(ひとあらためのごばんしょ)を設けて、怪しい人物・武器弾薬の検査をした。いわゆる、舟の関所である。
 しかし、深川の「御番所」は江戸の中心部に近すぎるので、寛文元(1661)年に反対側の中川に移転している。中川は荒川に出る所に置かれ「中川舟番所」と呼ばれ、所長は旗本が任命されている。
 当時の地誌に「中川番所:中川の西岸小名木川の入り口にあり。中川関所とも云う。江戸より下総国葛飾郡行徳領の方へ往来通船改めの番所なり」と書かれている。

<小名木川の出入り口にあたる場所で「中川舟番所」のあった地点である>

 添士(そえし)と呼ばれる見張りの役人が舟の来たことを確認する。すると番頭と呼ばれる舟番所の役人が呼び止め「これ船頭、何用で何処へまいる。手形を改め」られ、舟荷の取り調べが始まる。
 手形の主は行徳村の善左衛門、江戸日本橋の河岸まで酒を運ぶところだ。小頭が手形と酒を調べる。「よし、通れ!」そんなヤリトリがあったのか…。

<天保5(1834)年に刊行された江戸名所図絵に描かれた「中川舟番所」の図>