遠野の河童に送られて『大槌街道』を進むとリアス式海岸で有名な三陸海岸にでる。大槌街道は「塩の道」で三陸の海水を煮つめて作られた塩を花巻、遠野に運ぶ街道として歴史は古い。
大槌に出て海岸線を少し北上した辺りが世界的小国として注目されている「吉里吉里国」である。独立宣言前文には『わがスウアイ(親愛)なるヌッポンコグ(日本国)の皆様、此の度、イロンナ(諸々理由)ワゲでチリチリ(吉里吉里)は、ユンメ(夢)のサド(里)とすてヌッポンコグ(日本国)がらドグルツ(独立)いたしゃんすた。云々…』と独立年月日は定かにされていないが、日本政府に愛想を尽かし独立したのだから、永田町としては面白い訳がない。
東京オリンピック開催による「日本チャチャチャッ」の愛国的機運の中で不評を蒙り、経済封鎖の憂き目にあい昔日の面影はない。大国主義、覇権主義には断固反対しよう!
返し波のない「片寄せ波」で知られる不思議な白い砂浜で険しい三陸海岸では珍しい。
<キリキリ(吉里吉里)とはアイヌ語で「白い砂浜」を意味するという>
愛しの「吉里吉里国」を後にして浜街道をさらに北上すると陸中海岸国立公園の中心地をなす宮古の浄土ヶ浜に至る。隧道を抜けると秋の柔らかな陽射しが海面にたゆたっている。
しかし、この長閑な浄土ヶ浜一帯も激戦を経験している。幕府軍と明治政府軍との日本初の海戦が行われた海域であり「宮古湾海戦お台場公園」がその歴史を見下ろしている。
1869(明治2)年、宮古港に停泊していた官軍の艦隊を函館五稜郭から榎本艦隊が急襲した宮古湾海戦(みやこわんかいせん)。元新撰組副長土方歳三、日本海海戦の東郷平八郎元帥など多くの歴史上の人物がかかわった戦いでもあった。
<旧幕府軍はこの海戦に失敗し、箱館戦争に敗れ名実共に徳川幕府は消滅>
鋭くとがった火山岩からなる白い岩塊(石英粗面岩)が紺碧の海に林立し、その岩肌に南部赤松(ナンブアカマツ)が絡まるように生息している。松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストはこの世のものとは思えない。「さながら極楽浄土の如し」と近くの霊鏡和尚が言ったとかで浄土ヶ浜の名がありとか。
<三陸海岸の特徴を見せながら、外海と隔てられた波穏やかで清明な入り江>
大槌に出て海岸線を少し北上した辺りが世界的小国として注目されている「吉里吉里国」である。独立宣言前文には『わがスウアイ(親愛)なるヌッポンコグ(日本国)の皆様、此の度、イロンナ(諸々理由)ワゲでチリチリ(吉里吉里)は、ユンメ(夢)のサド(里)とすてヌッポンコグ(日本国)がらドグルツ(独立)いたしゃんすた。云々…』と独立年月日は定かにされていないが、日本政府に愛想を尽かし独立したのだから、永田町としては面白い訳がない。
東京オリンピック開催による「日本チャチャチャッ」の愛国的機運の中で不評を蒙り、経済封鎖の憂き目にあい昔日の面影はない。大国主義、覇権主義には断固反対しよう!
返し波のない「片寄せ波」で知られる不思議な白い砂浜で険しい三陸海岸では珍しい。
<キリキリ(吉里吉里)とはアイヌ語で「白い砂浜」を意味するという>
愛しの「吉里吉里国」を後にして浜街道をさらに北上すると陸中海岸国立公園の中心地をなす宮古の浄土ヶ浜に至る。隧道を抜けると秋の柔らかな陽射しが海面にたゆたっている。
しかし、この長閑な浄土ヶ浜一帯も激戦を経験している。幕府軍と明治政府軍との日本初の海戦が行われた海域であり「宮古湾海戦お台場公園」がその歴史を見下ろしている。
1869(明治2)年、宮古港に停泊していた官軍の艦隊を函館五稜郭から榎本艦隊が急襲した宮古湾海戦(みやこわんかいせん)。元新撰組副長土方歳三、日本海海戦の東郷平八郎元帥など多くの歴史上の人物がかかわった戦いでもあった。
<旧幕府軍はこの海戦に失敗し、箱館戦争に敗れ名実共に徳川幕府は消滅>
鋭くとがった火山岩からなる白い岩塊(石英粗面岩)が紺碧の海に林立し、その岩肌に南部赤松(ナンブアカマツ)が絡まるように生息している。松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストはこの世のものとは思えない。「さながら極楽浄土の如し」と近くの霊鏡和尚が言ったとかで浄土ヶ浜の名がありとか。
<三陸海岸の特徴を見せながら、外海と隔てられた波穏やかで清明な入り江>