年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

イーハトーブ・三陸

2008-11-29 | フォトエッセイ&短歌
 遠野の河童に送られて『大槌街道』を進むとリアス式海岸で有名な三陸海岸にでる。大槌街道は「塩の道」で三陸の海水を煮つめて作られた塩を花巻、遠野に運ぶ街道として歴史は古い。
 大槌に出て海岸線を少し北上した辺りが世界的小国として注目されている「吉里吉里国」である。独立宣言前文には『わがスウアイ(親愛)なるヌッポンコグ(日本国)の皆様、此の度、イロンナ(諸々理由)ワゲでチリチリ(吉里吉里)は、ユンメ(夢)のサド(里)とすてヌッポンコグ(日本国)がらドグルツ(独立)いたしゃんすた。云々…』と独立年月日は定かにされていないが、日本政府に愛想を尽かし独立したのだから、永田町としては面白い訳がない。
 東京オリンピック開催による「日本チャチャチャッ」の愛国的機運の中で不評を蒙り、経済封鎖の憂き目にあい昔日の面影はない。大国主義、覇権主義には断固反対しよう!
 返し波のない「片寄せ波」で知られる不思議な白い砂浜で険しい三陸海岸では珍しい。
  
  
   <キリキリ(吉里吉里)とはアイヌ語で「白い砂浜」を意味するという>

 愛しの「吉里吉里国」を後にして浜街道をさらに北上すると陸中海岸国立公園の中心地をなす宮古の浄土ヶ浜に至る。隧道を抜けると秋の柔らかな陽射しが海面にたゆたっている。
 しかし、この長閑な浄土ヶ浜一帯も激戦を経験している。幕府軍と明治政府軍との日本初の海戦が行われた海域であり「宮古湾海戦お台場公園」がその歴史を見下ろしている。
 1869(明治2)年、宮古港に停泊していた官軍の艦隊を函館五稜郭から榎本艦隊が急襲した宮古湾海戦(みやこわんかいせん)。元新撰組副長土方歳三、日本海海戦の東郷平八郎元帥など多くの歴史上の人物がかかわった戦いでもあった。

<旧幕府軍はこの海戦に失敗し、箱館戦争に敗れ名実共に徳川幕府は消滅>

 鋭くとがった火山岩からなる白い岩塊(石英粗面岩)が紺碧の海に林立し、その岩肌に南部赤松(ナンブアカマツ)が絡まるように生息している。松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストはこの世のものとは思えない。「さながら極楽浄土の如し」と近くの霊鏡和尚が言ったとかで浄土ヶ浜の名がありとか。

<三陸海岸の特徴を見せながら、外海と隔てられた波穏やかで清明な入り江>

イーハトーブ・遠野

2008-11-25 | フォトエッセイ&短歌
 「遠野物語」の岩手県遠野市を訪れた。河童、山姥、座敷童、神隠し等の怪異の物語など遠い山里の生活と風物に魅せられる。物語の内容は各地方とも酷似しているらしい。遠野のが土俗性があって魅力的だというが、その辺りの事は素人には分からない。
 天候に恵まれて文句をいう筋合いはないのだが、雰囲気が全くない。河童淵も山姥も水車小屋も晴天の秋空、陽が燦々と輝き河童の出る気配もなし。雨に煙らないとロケーションにもならない。

<河童が馬を川に引きずり込もうとして失敗。清水が流れ河童の姿は見えない>

 遠野市「伝承園」の曲がり屋は茅葺き屋根の葺き替え作業中だった。今では民家園にでも行かないと見る事はない懐かしい風景である。ガキの頃の葺き替え仕事を手伝わされた頃を思い出す。3,4人の葺替職人が仕事を進めるのだが、その勢子(手足となる人夫)がその3倍は必要である。そこで「村の隣組」を利用した総出の共同作業となる。材料の萱の確保もあったのか、古くなった順に屋根の吹き替えをしていくのだ。
 囲炉裏の煙で煤だらけ、大人も子供もジジイもババアも全身真っ黒けになっての大騒動だが、炊き出しの銀シャリと歯の白さが印象に残っている。ユイという名のコンミューンだったのかナ~。

<竹槍の先に縄を挟み、内部の勢子と行ったり来たりさせて萱を縛る上げる>

 東北一帯に「オシラサマ」という民間信仰がある。オシラサマは農業の神、馬の神、蚕の神、目の神と欲張っているが、その成立の物語が何とも奇怪である。
 『その昔、ある百姓の美しき娘が飼馬と仲が良くなり、夜になれば厩に行きて供に寝る、つひには馬と夫婦になれり。怒った娘の父親が桑の木に馬を吊り下げて殺したり。娘はすがりついて泣いたト。父親は激怒して馬の首をはねたり。すかさず娘は馬の首に飛び乗り、そのまま天空へ昇り、おしら様になったんだト』
 神体は、桑の木で作った1尺程度の棒の先に男女の顔を書いたものに、布で作った衣を着せたものだ。「命日(めいにち)」には新しい衣を重ね着させるのだという。「伝承園」のオシラサマは、御蚕神堂(おしらどう)と呼ばれる一室に千体ものおしら様が祀られている。壮観である。

<ご神体のオシラサマは桑木で男女の顔を彫り、衣で貫頭型・包頭型に飾る>

秩父・伝蔵の街

2008-11-21 | フォトエッセイ&短歌
 明治政府の専制と失政を批判し、貧民の救済を訴えておこした日本近代史上最大の農民蜂起、秩父事件は上州・信州の村々でも武装蜂起が準備されていた。政府はこれを西南の役に準ずる「戦争」として扱い、戦況などを大政大臣から天皇にも報告した。官側の戦死者(警官)には立派な忠魂碑が建立された。『秩父暴動史』には彼等を、「愛機諸共、敵艦目がけて突入自爆して、之を轟沈撃破する荒鷲勇士」にたとえ、大々的に賛美し、教師が生徒を引率してこの碑を参拝させたという。戦前の記録であるが、暴動側の扱いは押して知るべし!

<映画「草の乱」のオープンセット。障子が開いて伝蔵がひょっこり登場しそう>

 困民党の真実が明らかにされ、名誉の一端が回復するのには1世紀がかかった。そして蜂起で発揮された民衆の楽天性や高揚したエネルギー、より良い社会と未来をめざした志をテーマに映画「草の乱」が制作される。
 音楽寺からかけ下り荒川を渡河し大宮郷(秩父市)に攻め入る群衆の蜂起場面は圧巻である。監督は神山征二郎。生糸商家“丸井”を営む井上伝蔵は村民の窮状に心を痛め困民党を指導する中心人物の一人になる。その井上伝蔵(緒形直人)を中心に描いたドキュメンタリータッチのヒューマン・ドラマ。

<丸井は井上伝蔵が営む生糸商の屋号。セットを保存した資料館になっている>

 井上伝蔵は事件壊滅後、逃亡。その手配書は「一、年齢三十二三・顔長く白き方・男振は美なる方・丈高き方・歯並揃ひたる方・鼻高き方」と記しているが、北海度に潜伏し33年間のあいだ身分を偽り生きていた。1918年、腎臓を悪くした伝蔵はいよいよ自分の最期を悟り、妻と長男に自分の本当の素性を語り、その後十日ほどで息を引き取った。
 『濁りなき御代にはあれど今年より 八年之後はいとゞ寿むべし』、国会開設を期待した詩といわれている。

<椋神社の事件百年の碑。自由と民主主義が重きをなす今日、その源流を…>

秩父・決起の街

2008-11-18 | フォトエッセイ&短歌
 小鹿野の椋神社に決起した「困民党軍」は1884(明治17)年11月2日、札所23番<音楽寺>に集結した。そして早鐘の乱打を相図に武器を振りかざしドット鬨の声を上げて大宮郷(秩父市内)内に雪崩れ込んだ。
 升屋の主人が記録している<凶徒ら迅風のごとく市中を通過し、抜刀、槍、あるいは鉄砲、竹槍などを閃かし…裁判所、警察署、郡役所に狙撃乱入し、書類を引き裂き、戸外へ投棄し…><潮の湧くがごとく繰り込みたり>と、その軍勢8千~1万だったと言われている。

<蜂起の最初の拠点となった音楽堂。秩父一望の秩父困民党無名戦士の墓>

 郡役所を占領した「困民党」はここを革命本部として自治体制を執り住民の支持を取り付けた。総理・田代栄助、副総理・加藤織平、会計長・井上伝蔵などで軍律も決められた。そして、やがて押し寄せるであろう政府軍を迎え撃つべく、甲隊・乙隊・丙隊の3隊にわけ、孫子の兵法にいう「常山蛇陣の型」を敷いて鉄壁の布陣で固めた。
 しかし、新式の村田銃で完全武装した鎮台兵・憲兵・警察隊の政府連合軍では彼我の優劣は歴然で4日目には本陣の解体を余儀なくされた。「困民党軍」は散り散りになりゲリラ戦を闘ったが、東馬流の激戦を最後に秩父困民党は終息した。

<音楽堂の深く暗い竹藪の一筋の坂道。駈け下る義民の足音が響くようだ>

 戦いが終わったあと「困民党」の長い苦難が始まる。「貧乏人のために立ち上がったありがてえ人」(義挙・義民)は「国さタテツタわりい人」(賊徒・暴民)に逆転した。
 維新専制政府(山県有朋)は裁判の方針を命じた。暴動の原因や事件の背景を語らせるな!賊徒・暴徒として放火、強盗、殺人で監獄にぶち込め!というものである。村人は秩父事件に沈黙して語る事はなかったが、「暴徒の子」「死刑囚の子」「賊徒の家」「強盗の家」としていわれなき深い負い目を強いられた。
 「予審」という当時の裁判手続きも行わずに拷問で得た資料を根拠に密室のなかで判決は確定していった。死刑12人を始め懲役罰金など約3700人が処罰された。

<飯塚森蔵率いる乙隊大隊の旗。飯塚は事件後逃走し最後まで行方が不明>

秩父・草莽の街

2008-11-14 | フォトエッセイ&短歌
 秩父は水田に乏しく年貢米が不足するので商品作物(現金収入になる木綿・絹・煙草など)の栽培が盛んであった。江戸時代中頃から絹織物の需要が増すと傾斜地に桑の木を植え養蚕業が活発になった。
 特に幕末開港以後は生糸価格が上昇して生糸景気がおとずれたが、明治15年ごろから深刻な不況に直面する。多くの農家が高利の借金の返済不能におちいり、破産していった。
 自由民権運動が明治薩長専制政府と鋭く対立していた時期である。彼等、負債に悩む農民たちは自由民権思想を学びながら「困民党」を結成し武装蜂起をしたのが秩父事件である。

<「困民党」蜂起の震源地となった椋神社境内。3000の蜂起軍が集結した>

 借金しておいて返済不能だから、暴れまくるとはなんだ。暴徒・暴動、火付け・強盗、極悪凶徒として歴史の闇に葬られた事件である。関係者の家族も多くを語ることはなかった。
 果たしてそうだったのか… 代表は秩父郡役所に何度も請願するも却下、警察署にも請願するが逆に恫喝、裁判所に訴えるも門前払いと万策尽きる。結局、不法な高利貸と結託する政府の役人、明治専制政府を転覆するしかない。決起は燎原の火の如く広がり、役所を占拠し高利貸を打ち壊し、世直しを叫んだが…。

<蜂起から115年が経つ。燃え立った秩父は祭りと巡礼の街として賑わう>

 秩父市街が一望できる羊山公園の丘に「秩父事件追念碑」がある。これは蜂起軍乙隊副隊長・落合寅市の子息が建立している。
 「追念碑」の眼下には蜂起軍の活動の拠点となった秩父神社や「革命本部」となった秩父郡役所(秩父地方庁舎)などが見える。波乱の生涯を送った寅市は何を見ているのであろうか。
 『天下の政事を直し、人民を自由ならしめんと欲し、諸民のために兵をおこす』とも『現政府を転覆し、ただちに国会を開く革命の乱なり』とも記された秩父事件である。

<秩父事件の真相は闇の中に葬られたが、関係者による事件顕彰碑の建立>

秩父・巡礼の街

2008-11-09 | フォトエッセイ&短歌
 秩父と言えば「巡礼の里」、観世音菩薩(観音)を祀った寺を順番にお参りする信仰で江戸時代に隆盛を極めた。「札所」の名のとおり、願い事を込めた「木札」をお堂に打ちつけ、巡礼の証とした。
 実際に法雲寺には、室町時代に打ち付けられた穴のある最古の札が保存されている。また百ヶ所巡礼の記録も残っている(西国札所33ヶ所・坂東札所33ヶ所・秩父札所33ヶ所、百観音霊場とするため秩父を34ヶ所とした)。こんな時代にも全国ネットワークが確立していたのだ~。
 因みに観世音菩薩(如来が変身)の「観世音」とは世音(人々の声)を観ずる(見る・聞く)意味あいで人々の願いや思い、苦しみなどを引き受け人々を救う如来様のこと。

<秩父市内を一望できる絶景の場所にある23番(音楽寺)の鐘は松風の音>

 札所23番・音楽寺の名の由来は、札所を開いた十三人の聖者がこの山の松風の音を菩薩の音楽と聞いたからと言われている。ために、音楽関係者のお参りが絶えないそうだ。
 音楽寺裏手の尾根に登ると風の音に合わせて竹林の語らい、ススキのささやき、松柏の演説なとが渾然と謡うように流れている。
 原始時代史の定説を引っ繰りかえした驚愕の「秩父原人」の発見はこの尾根の先である。「原人まんじゅう」「原人笠」と街は沸き立ったが「神の手は嘘の手」と偽装が判明、夢は幻の如くに消え去った。人間共のやることは……地蔵は笑っている。

<諦観した十三聖人が微笑みを宿して俗世人間共の煩悩を聞いている>

 尾根から吹き下ろす涼しげな風が里の稲穂を吹き抜ける。長かった農作業の成果を刈り取る収穫の秋である。年老いた農婦が一人カケボシ(掛け干す)をやっている。「腰が曲がると、カケボシは大変じゃ」
 今年は豊作で米が余るという。それでもアメリカからどっさり米を輸入する。カビの生えた米を輸入する。その工業用糊の原料にするはずの毒米を給食の「おまんま」にして子ども達に食わせたという。未だに原因も責任も不明だ!

<カケボシは稲の「天日干し」。コンバインなんぞの銀シャリとは比較にならん>

秩父・寺社の街

2008-11-05 | フォトエッセイ&短歌
 秩父は神社の街道でもあり、かっては経済的にも豊かな村落であった事を物語っている。秩父神社と椋神社、三峯神社に宝登山神社などは観光スポット。その「祭祀」(祭り)も伝承と絢爛を今に伝えているので、古い古~い歴史があのだが。
 秩父神社が神社として神道の格式が整うのは最近のことで、それまでは「妙見菩薩」という菩薩が祀られ「秩父大宮妙見様」として人気があったというからおもしろい。
 明治新政府が天皇の神格化権威確立のためにとった神仏分離令の政策によって仏様の要素が排斥されて生まれたのである。神仏習合、まさにヤヲヨロヅの神仏の合体は日本の永い宗教的伝統であったのだ。現在の「社殿」は家康の命による」妙見宮の再建。奥行きある荘厳なたたずまは権現造りである。

<権現造り:拝殿と後部の本殿の間を「石の間(いしのま)」で繋ぐ建築様式>

 夜祭りの謂われも、武甲山の男神(蔵王権現)と母巣の森の女神(妙見菩薩)が1年に1度の逢瀬を楽しむ祭りともいわれて、微笑ましいかぎりだ。この時期「六日市」が開かれ、生糸・絹の取引で景気がはじける山深い山村の感謝と喜びの祝いであったのだろうか。
 屋台・笠鉾が曳かれるようになったのは寛文(4代将軍・家綱)年間ごろと伝えられている。
   
<秩父夜祭の幻想的な音と映像を演出する子持ち尺玉花火と屋台。夜祭会館>

 秩父神社とともに「延喜式神明帳」に載る椋神社。日本武尊東征の折り、椋の大樹の下から猿田彦命(さるたひこ)が現れて進軍のガイドをした。そこで鉾を御神体として猿田彦命を祀ったとされる、最もポピュラーな謂われでもある。
 椋神社の「龍勢祭り」の伝承神話は独特。長さ70cmほどの松材をくり抜いた火薬筒を、20mの竹竿に装着した「ロケット花火の化け物」のような物を30発も打ち上げる。まさに天空に昇る龍である。10月第2日曜日が例大祭で境内は準備で慌ただしかった。
   
<秩父市下吉田の街道は「龍勢祭り」の幟で華やいでいる。龍、天空を駈ける>

秩父・石灰の街

2008-11-01 | フォトエッセイ&短歌
 タイショクブラブラ組で「秘湯の里」秩父路を散策する。加齢の割には秩父巡礼の札所めぐりは軽く通過してキョロキョロと事前学習の「秩父美人」を楽しみならが歩く。山深い秩父は山地に囲まれ日照時間が少なく色白美人が多い事で有名だ。
その他、蕎麦にセメント、秩父錦に夜祭り、秩父原人捏造事件に秩父事件とみどころには事欠かない。
 秩父を睥睨し秩父を象徴する武甲山。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、その堂々たる風格に感動し、歴戦の甲を納めたことから「武甲山」の名が付いたと言われている。画は芦田画伯。
 
<哀れ削り取られた武甲山の羊山公園からのスケッチ。清楚な花を手向ける>

 壮大雄渾な品格を備えていた武甲山は全山が石灰岩からなる。石灰岩は炭酸カルシュウムから出来ている岩石でセメントの原料であるところから、秩父は一大セメント産業の拠点となった。
 切り出された石灰岩は秩父鉄道で運び出され、セメントと生まれ変わり、列島改造論の頃の日本経済の急成長に寄与した。その為に武甲山は削り取られ、1336mの標高が1295mになるほど山容が崩れ、現在は無残な姿をさらしているが、なお武甲山の破壊は進んでいる。
 右肩上がりの経済成長を象徴した秩父セメントはまた日本経済の環境破壊をも映し出してる。

<秩父鉄道の石灰岩積み出し駅舎ホームから登頂部を失った涙痕の武甲山>

 人生の2/3以上が過ぎ去ったタイショクブラブラ組としては信仰心の準備もしないといけない。極楽浄土はともかく、地獄には堕ちたくないナ~。秩父34ケ所観音霊場の28番:橋立寺に向かう。武甲山の西麓にある橋立寺は65メートルの岸壁の岩陰にたたずむ馬頭観音堂。観音様が馬頭とは変わっているが、秩父地方は古代、良質の馬産地であった事や重要な交通手段であったことを考えれば納得である。

<圧倒される岸壁を見上げながら参拝する。この下の橋立鍾乳洞は200円也>