年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

羽州街道-八幡神社

2007-09-28 | フォトエッセイ&短歌
 司馬遼太郎の『街道を行く』になぞらえたいがとてもそんな歴史的知識はない。絵になるような場面に出くわすと、ワァ~ヤッタ~てなもんで案内板を読むのだが結構難しいものもある。
 サルビア(緋衣草:ヒゴロモソウ)の朱に稲穂の黄色が広がり緑陰に囲まれて三重塔が忽然と現れるのは『街道を行く』の楽しさでもある。絵葉書を貼り付けたような村里の風景に郷愁を感じる。山形・福島・宮城の県境辺りに位置する高畠町(たかはた)の安久津八幡神社(あくつはちまん)で「まほろば古の里歴史公園」なので多くの遺跡・遺物・史跡が集中している。
 いま、高畠(たかはた)はブドウとマツタケで売る出し中で渋味の淡泊な高畠ワインは右肩上がりの人気である。香り漂う、赤松とブドウ畑の続く「まつたけぶどうライン」が延々と続く。

           
 安久津八幡神社は、860(貞観2)年に慈覚大師(じかくだいし)が豪族:安久津磐三郎(あくつばんざぶろう)の協力で阿弥陀堂を創建したのが始まり。平安後期に奥州平定のため、源頼義・義家は鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を祭り、戦勝を祈願したいう。祈願の甲斐あってか、源義家は安倍一族を滅ぼし(前九年の役)、1083年陸奥守鎮守府将軍になっている。都では貴族が権勢を失い、武士達が力を持ち始めた頃の話である。
 神社ではあるが、寺でもある。神様と仏様、鳥居と舎利塔の共存と何ともアバウトで原理主義者には理解が及ばないだろう。八幡神は阿弥陀仏が化身したものという「本地垂迹説」、一種の宗教改革のあらわれでもあろうか。静寂間が漂う境内であるが、神仏混合さまざまなものが雑然と祀られているにぎやかな八幡神社ではある。
   

 鳥居をくぐり生い茂る樹木に囲まれ苔むす石畳参道を本殿に向かって登っていく。その途中に参道を閉ざすように小さなワラブキの神楽殿(かぐらでん)が立っている。何とも奇妙な配置である。振り返れば神楽殿の板の間を越して残暑の光の中に一の鳥居が垣間見える。
 室町末期のものといわれ、方一間宝形造、倭舞(やまとまい)・延年の舞が古式豊かに舞われるという。

羽州街道-蕎麦は花でもてなす

2007-09-24 | フォトエッセイ&短歌

 羽州街道は福島あたりで奥州街道と分かれ山形領・秋田領を経て津軽領に至る東北各藩大名にとっては重要な街道であった。彼等13藩大名の参勤交代や城米(幕府米)輸送の要路であったのだ。じつに六十三里四町の道中でさまざまな歴史を感じさせる車窓である。
 宮城県側の仙台領内に七つの宿場があった事から七ケ宿街道と呼ばれ山形の米沢藩に抜けて行く<現在の国道113号>。【みちのく】とは云えはまだ緑は猛々しく秋の気配を感じさせるのは田んぼの色付き始めた稲穂くらい…。
 でも山間の中にありました。元気なススキの穂に見え隠れしながら続く蕎麦畑。盆明けの8月末頃に種をまき、11月上旬に収穫する。今はきれいな「秋蕎麦」の花の時期である。こんなのがあった。『蕎麦はまだ花でもてなす山路かな 芭蕉』
 除草もいらず、やせた荒れ地や斜面でも収穫できることから、山間地の食糧事情の厳しい地域で栽培される貴重な作物である。奈良時代の記録に「非常食として蓄えよ」という詔(みことのり)も出ているという。


 新蕎麦はともかく喉越しの蕎麦をと<複数のガイドブック絶賛のそば屋>を大汗かいて探し回る。それらしい年期の入った暖簾がありましたゾ!もちろん「ざる蕎麦」の特大を注文。ウーもう待ちきれなくて…、しばし待て…!今、打ってんだ…。
 待つこと30分!真っ黒けの田舎蕎麦のお出ましです。カンピョウを薄墨で煮染めたような腰の据わったスゲ~スゲ~物が出ました。喉越しなんてもんじゃない。ウンショウンショとかみ砕かないと喉を超さない腰の強い奴で、飲み込もうにもタレが少なくそれも出来ない。参りましたネ。セヴンイレブンの「ざる蕎麦」を懐かしく思い出しながら遂に途中で退散です。
 さすが俳人芭蕉はスゴカッタ。蕎麦は花でもてなす…ダモンネ。

    

 街道を進む。食欲の秋の食材は豊富である。その中の一つ<旬が今>のトウモロコシ畑が両側に続ている。ポップコーン・焼きトウモロコシ・茹でトウモロコシ・トウモロコシ饅頭とヘソの辺りがムズムズしてくる。アンチモロコシ派としては茹で上げた時のムッとする匂い、グチャッとくる歯応え、生臭い甘みや、歯に刺さる粒々の皮を思い出しゲップをもようする始末だ。
 戦後の食糧事情が極端に悪いガキの頃、毎日毎日トウモロコシばかり。昨日もトウモロコシ、今日もトウモロコシ、明日もトウモロコシ、ネンガラネンジュウトウモロコシ!しかも味は3の次、ただただ収穫量が多い最悪粗悪品種だった。
 ようやくトウモロコシから解放された時はやれやれ助かったワ、もう金輪際トウモロコシは食わぬぞ!堅く心に決意をしたのだ。以後トウモロコシを食べるどころか見たくもない。ガキの頃の食い物の恨みは消去しようがないのだ。トウモロコシ連続食による心的外傷かナ。
 しかし、思えば戦中・戦後トウモロコシによって生き延びたのかも知れない。嗚呼、戦争反対・9条堅持の腹からのメッセージを思いながらコーンスープなどを食するようになった今日この頃である。


羽州街道-畦の秋桜

2007-09-21 | フォトエッセイ&短歌
 残暑がぶり返し秋の訪れを足止めしている田園の一隅。稲穂が重々しく頭を垂れる最後の仕込みに掛かっている田んぼである。稲刈りを待つ昼下がりの畦にコスモスが揺れている。
 コスモスの季節であるといっても早咲きは6月に・遅咲きは12月頃までの長寿である。しかし、和名:秋桜(あきざくら)と呼ばれるように、秋を代表し、花弁の形が桜に似ているところから秋を感じさせる花として人気が高い。収穫を待つばかりの黄金のジュータンを背に稲穂の揺れに調子を合わせてゆっくりそよぐコスモスの姿勢に心洗われる。
      
 原産地メキシコから1876年頃にイタリアの芸術家が日本に持ち込んだとの巷説がある。コスモス(kosmos)の語源はギリシア語で世界・宇宙・秩序を意味するとか。
 北極圏の氷河が融け始め砂漠化が進み、熱帯林の破壊で洪水が頻発している。地球はタダレて病み始めている。イラクでは1日に何人の民衆の生命がゴミよりも軽く吹き飛ばされているのだろうか。テロリスト掃討と称して! ブッシュは「世界中にコスモスを、秩序と平和を」のスローガンに書き換えてカブールの街にコスモスを植えるといい。花言葉は<少女の純真>、日本の支援も本格化するだろう。
   
 
 秋はコスモス、でもやはり食欲です。『天高く馬肥ゆる秋』(空は澄み渡り気温は良好、食材も豊富で食欲は進む)こんなイメージを持っていたが、ナンカ違うみたいですネ。そういえば、この時期、日本では秋雨前線の影響で曇雨天が多く青空の確立は少ないのだ。
 事の謂われはやはり大陸のことわざ…大陸には台風も長雨もない。馬が肥えて意気高揚のモンゴル地方の騎馬民族が万里の長城を越えて収穫を迎えた大平原に侵略してくるのを警戒したことばだという。略奪する事 火の如く、村は茫然自失の態…。「七人の侍」の大規模な盗賊集団のイメージか。

松蔭-代官屋敷

2007-09-14 | フォトエッセイ&短歌
 代官屋敷の目と鼻の先に松陰神社がある。寺や神社はいくらでもあるので特段の事ではないが、余りの偶然で魔性猫が引き寄せたと思えてしょうがない。
 松陰神社は長州萩の松下村塾主宰の吉田松陰を祀った社である。秀才:松陰は9才で藩校明倫館に出勤、11才で藩主毛利敬親(たかちか)に『武教全書』を講じたというからウルトラ頭脳。世界の大勢を知り、とても長州の片田舎でおさまるウツワはない。
1852年脱藩、浦賀に停泊するペリー提督の黒船に忍び込み密航を企てるが失敗し獄につながれるが仮釈放。高杉晋作・久坂玄端・伊藤博文・品川弥二郎など明治を担うそうそうたるメンバーが訪れてくる。松陰は彼等若者たちに熱く国家を語った。いわゆる松下村塾である。
 政局は緊迫していた。佐幕・攘夷のテロの応酬が繰り返される。頑迷攘夷の孝明天皇の勅許を得られないまま大老井伊直弼は日米修好通商条約に調印した。違勅調印問題を統一テーマに攘夷倒幕派が一斉に立ち上がろうとしたその気勢を制して反対派に対する大弾圧を断行した。
 <安政の大獄である。切腹・死罪などその処刑者は75名におよぶ。「このたびの吟味は人間の皮をかぶり候者には出来申さず」と逮捕と同時に極刑が待っていたのだ。
 松陰はロシア・アメリカに密航を敢行するほどだからかなりの行動派。安政の大獄の首謀者と見られた老中:間部詮勝(あきかつ)の暗殺を計画したが、それが露見し江戸伝馬町牢内の刑場にて死罪となり(安政6年10月:享年29才)、小塚原に埋葬される。

 
      <萩の松下村塾を忍ぶミニ版 昭和11年創建>

 4年後の1863年、高杉・伊藤らは小塚原刑場の松陰の遺骨を<この地>に手厚く葬った。<この地>とは萩藩毛利家の抱屋敷である。 ☆『大名は「参勤交代」の為に江戸に「江戸藩邸」(拝領屋敷)を与えられるが、大藩はそれでは狭いので独自に土地を探して屋敷を構える。これが抱屋敷で江戸周辺の農村に多かった。熊本藩細川家の戸越藩邸(現在:戸越公園)や萩藩毛利家の若林藩邸(現:松蔭神社一帯)が有名』
 江戸中頃の絵図を見ると井伊家世田谷領に囲まれて小さな若林村がある。萩藩はこの村の地主から土地を譲り受け抱屋敷(若林藩邸)にしたのである。
つまり高杉・伊藤らは自邸の屋敷に松陰を埋葬したのだ。何と処刑を命じた井伊直弼の墓とお隣さんになったのだ。<何を語るか、幕末傑出の仇敵大物>
 翌年、禁門の変が起こると、幕府は毛利の江戸屋敷を没収すると同時に若林藩邸も取上げ屋敷地の松陰の墓も破壊させた。

<明治の重鎮、門下生の寄進灯籠:木戸・伊藤・山県・桂・乃木などの名前が>

 新撰組が走り坂本竜馬が倒れる。激動の幕末も大政奉還で幕が降ろされ天子様の御代となった。犯罪者が英雄に名誉の回復を果たす。「神社」に祀り上げられるまでには2転3転するが、明治15年門弟らが旧萩藩毛利家の若林藩邸跡の松蔭の墓の側にささやかな堂を建てた。天皇制主権国家は日清・日露戦争に勝利し欧米の帝国主義列強の仲間入りを果たした。明治41年の松蔭50年祭、その明治国家の中枢を担う松蔭門下生が石灯籠と鳥居を寄進して「松蔭神社」の産声を上げさせた。政治臭い社である。松蔭は納得し穏やかに過ごしているのだろうか。チョット~オレの考えていた社会と違うんだけどナ~。直弼君どう思うね。


台風:時計御殿を襲う

2007-09-09 | フォトエッセイ&短歌
 相模湾から小田原に上陸した台風9号はそのまま東北を北上し津軽半島に抜け、さらに北海道を横断しオホーツク海に消え去った。上陸すると雲散霧消する情けない豆台風と違い最後まで強力な暴風雨の勢力を保ち、日本列島1/2を暴れまくった。何かアッパレという陣取りである。
 航空機を払い除け、列車をなぎ倒し、自動車道を閉鎖させ、道路を寸断するなど、毎度お馴染みの「猛威のつめ跡」である。その刻々と進む台風の進路をTVで眺めながら、ジッと道を削り取るつめの動きを見ている事になる。進路に予定される地域住民はたまったものではない。飛ばされて死者がでました・流されて行方不明の模様・重軽傷何名に達しましたとリアルタイムの放送だから。
 叡智を集めた人間の文化は何ともはかなく心細い。それに比して計り知れない恐るべき自然のエネルギーである。

 避難勧告の解除を聞いていたかのように、堤防を越えようかと盛り上がって渦を巻いていた濁流は徐々に水位を下げて行く。台風一過、穏やかになる川面に合わせるようにコバルトブルーを刷毛で掃いたような淡い透き通るような空が広ってくる。それも束の間で陽は西に沈んでいく。
 濁流の何が不気味かといえば茶色というか泥色に濁った渦巻く奔流である。それも今は夕闇に消えトウトウと夕日を映しながら満足げにのたうっている。


 台風襲撃の数日前、多摩川河川敷きを歩く。六郷あたりから二子玉あたりは青テントの密集地である。何が個性的と云ってもこのテント小屋の芸術的家屋に勝るものは無い。ヒト一人横になるだけの寝袋型から夫婦に子2人は入れる別荘型まで、柱のある物・ロープ掛けの物まで、ソリャア~飽きることはない。
 <時計御殿>に出会った時には流石にうなってしまった。これはもう青テント文化財級軽便建造物である。3方の壁に時計がびっしり、しかもほぼ同じ角度で針が動いているのだ。
「写真撮ってもいい?」「ああ、構わん」「拾って来るんですか?」「…*!」<拾うってのがまずかったかな。リサイクル!>「時計、趣味ですか」「TIME。問題は時間だ!」…チョット哲学勉強して出直さないと…


 戻った残暑を背に、時計御殿に足を運ぶ。嗚呼無惨!慚愧に堪えん!文化財に認定出来たかも知れんのに。御殿は跡形もなく流出していたが、ドロドロの土砂の中で主人は既に復興の槌音を強くたてていた。

豪徳寺-代官屋敷

2007-09-06 | フォトエッセイ&短歌
 3代将軍家光の時、彦根藩2代目藩主:井伊直孝は世田谷領2300石を加増され大場市之丞を代官に召抱たのである。井伊直孝も父直政に劣ることなくエピソードの種は尽きない。「家康の隠し子」という巷説。大坂の陣で籾蔵に隠っていた「淀殿・豊臣秀頼母子を自害」させる大功などもその一つである。ここでは今に関係する豪徳寺の挿話を記しておこう。
 当時の世田谷は鬱蒼と自然林が続く。直孝が鷹狩りの帰りに名もなき貧乏寺の門前を通りかかると、手招きをする猫がいる。不審に思い寺に寄り、渋茶など飲んでいると、にわかに雷雨が轟き篠の突く雨。直孝はこの「手招き猫」の幸運を喜び、福を招く猫のいる寺としてこの寺を大事にし、井伊家の菩提寺とした。直孝が没した後、久昌院殿豪徳天英居士の法号から豪徳寺に寺名を変えたという。豪徳寺と招福猫児(まねぎねこ)の由来である。

              
 <この直孝の父、タヌキ親爺家康から破格の取り立てを受けた井伊直政についても一言触れておこう>
 直政は家康家臣団の中でも<三傑・徳川四天王・十六神将の一人>と神格化される並みの武将ではない。自軍を朱色の軍装で統一、自ら先陣に立って突撃する激烈な性格で<井伊の赤鬼>として恐れられた。軍功の手柄数知れず、天下統一に果たした役割は大きなものがある。家康は直政を何処で見出したのか。
 1575年、ある鷹狩りの日、山道で名も無き一人の少年:虎松(後の井伊直政)に出会った。そのあまりの美しさに一目惚、本気で惚れ込ん家康は小姓に召し出し<肌身離さなかった>といわれる。生涯で家康が唯一愛した男性である。しかし虎松は<衆道>を好まなかった。その反動で戦場を駆け巡ったのではないか……とも。いずれにしろ少年:虎松が彦根藩35万石の大大名の礎を築いたのである。豪徳寺の「招き猫」霊験あらたかなり。


 猫が耳の後ろを掻くと雨になる。豪徳寺の猫が特別ではなかったが名もない寺を有名にしたという意味では「招福猫児」の名に値する。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児(まねぎねこ)が奉納されている。友人にこの話をしたら早速豪徳寺に出掛けて猫を購入し玄関に安置したところ、ナントその3日後にピッキングにやられ、貴金属をざっくりやられたのだ。猫は魔性も併せ持ち福とは限らない凶も招く事がある。実際、代官所に凶報が持ち込まれたのはそれから約230年後の万延元年の3月である。これについてはいずれ。

大名領-代官屋敷

2007-09-03 | フォトエッセイ&短歌
 代官に取り立てられた大場市之丞は石橋山の合戦で源頼朝を蹴散らした平氏の大将:大庭景親(おおばかげちか)の子孫と伝えられているが、話が長くなるのでそこは省略。1590年、豊臣秀吉は「小田原攻め」で北条氏政を滅ぼして天下統一を完成させた。これを機に東海地方に絶大な勢力を振るっていた徳川家康を関東に転封(国替・250万石の大大名)して都から遠ざけた。
 当然の事ながら徳川家臣団も民族移動さながらに広大な穀倉地帯である関東平野のど真ん中に移住する事になる。移動に先立ってアオキ氏は△△郡に2万石、イシイ氏は◇◇村8千石、ウエダ氏は□□郡と○○村に3万8千石などと禄(ろく:給与=年貢)を与えられる。ヤッターウッソーソンナ… 悲喜交々・喜怒哀楽が一気に爆発する。ナンセ武士達はこの日の為に命をかけて戦場を駆け巡って戦ったのであるから。


      <影深く寂とした昼下がりの質素な代官屋敷表門>
 この戦後処理の論功行賞で注目されたのが、上野国箕輪(群馬県高崎市)に12万石を与えられた井伊直政である。この石高は徳川氏の家臣の中で最高の石高である。家筋から言えば外様、ちなみに10万石以上の領土を与えられた者は直政・本多忠勝・榊原康政の3人だけ。一体これはナンダ!
 井伊直政の精鋭部隊<井伊の赤備え(いいのあかぞなえ)>の活躍は有名で、この小田原征伐でも数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ。井伊直政の勇猛は天下に轟いてはいたのだが…
 それから10年、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍の軍監に任名され、東軍指揮の中心的存在として獅子奮迅の活躍、これらの功によって、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市:井伊彦根藩の誕生)18万石を与えられたが、例を見ない破格の取り立てである<1602年:直政享年42才で没:若すぎる死は三成の祟りと云われる>

<年貢取り立てが代官の仕事。そのためには領内の治安維持が重要、年貢不納・楯突く者は厳しい吟味。砂ではなくデカイ礫だ、これで石抱拷問で責められたら「お恐れながら…」と嘘でも自白>

 その後、寛永10年(1633)彦根藩2代目藩主:井伊直孝の時に関東に2万石(合計35万石の譜代最高の大名)が加増され、そのうち2306石が江戸屋敷の賄料として近郊の世田谷村など20ヵ村が当てられた。この彦根藩世田谷領を支配するための代官役に起用されたのが、主没落後この地で郷士(武士級の地主)として力を持っていた大場市之丞である。大名領代官の誕生である。井伊直孝とは何者なのか…次回。