年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<22>富岡八幡宮

2009-10-27 | フォトエッセイ&短歌
 菅原道真の子孫といわれる長盛法印(ちょうせいほういん)が富岡八幡宮を創建したが、永代寺も建立している。実に6万5百坪に及ぶ広大な土地で「永代寺門前町」「永代寺門前仲町」と呼ばれていた。
 しかし、明治維新の神仏分離令によって仏像・仏具などが破壊され永代寺も廃寺となるが、神様と仏様は本来同一と云う考えだから、いろいろ雑多な楽しい境内ともなっている。加えて下町の庶民の物見遊山の場でもあったから記念物も豊富である。

<大祭、各町内の御輿(みこし)の連合渡御が山門を潜る時、祭りは最高潮に>

 相撲関係の記念碑や深川力持の碑(力石)なども面白い。隅田川沿いに並ぶ蔵屋敷の荷物担ぎがの連中が力自慢をしたが、それが興行となり、石を持ち上げて強力を競ったという。現在この「深川の力持」は都の無形民俗文化財に指定されているというが、どんな形で保存継承されているのだろうか。力持ちという無形だからネ~
 また、深川祭は神田祭・山王祭と合わせて江戸三大祭りと呼ばれ、神輿を担ぐ人々に水をかけることから、水かけ祭りとも呼ばれる。祭りと力持ちの神社である。

<力持碑の回りには、力持ちを競った玉石が並ぶ。何貫目位の重量がなのか>

 新しい物では伊能忠敬像がある。伊能忠敬(いのう ただたか)は当時深川界隈に住居を構え、測量の旅に出かける際は、安全祈願のために、富岡八幡宮に必ず参拝していたということで銅像が建立された。
 伊能忠敬は下総(しもうさ)国佐原の伊能家へ婿養子に入り、没落しかけていた酒造業を再興し名主・村方を務める郷土の名士となる。50才で隠居すると江戸に出て19歳年下の高橋至時(よしとき)について天文学を学んた。56才の時に始めて蝦夷地に足を踏み入れ、以後10回に渡る測量に取り組んだ。延べ測量日数3736日、陸上測量距離4万3708キロメートル、方位測定回数15万回という大事業を成し遂げる。

<日本全国を歩き、わが国最初の実測日本地図をつくりあげた徒歩と測量の人>

隅田川<21>永代橋深川

2009-10-23 | フォトエッセイ&短歌
 東京の中心、大手町から日本橋・兜町などを通る永代通りを東に進むと隅田川に架かる永代橋である。この橋は5代将軍徳川綱吉の50歳を祝して架橋(元禄11年)された隅田川で四番目のものである。(千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋)記録によれば、架橋を行ったのは関東郡代の伊奈忠順。上野寛永寺造営の際の余材を使ったとされる。
 その後、火災、流失、震災など幾度もの架けかえを繰り返し昭和3年に現在の橋に生まれ替わった。ドイツ、ライン川に架かるルーデンドルフ鉄道橋をモデルにした最古のタイドアーチ橋で日本で最初に100mを超えた橋でもある。「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われた優美な男性的な橋としてライトアップ橋の一つとして人気も高い。

<頑強かつ優美。勝鬨橋・清洲橋と共に国の建造物重要文化財に指定される>

 永代橋を渡ると江東区深川で、3代将軍徳川家光の時代に富岡八幡宮の門前町として発達し、大変に賑わった街で「深川の辰巳芸者」なども生み出している。しかし、徳川家康が江戸へ入府した頃は湿地帯で葦のそよぐうらぶれた地域であった。
 家康は下総国の領分であった永代島を武蔵国に編入して、深川八郎右衛門なる者に埋立を請け負わせた。街作りは短時日に終わり、門前町として発展した後は木場が置かれて商業開港地域となり、深川岡場所も設置され一大花街ともなる。
 文化4年の深川富岡八幡宮の祭礼日。詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず1500人を超える史上最悪の落橋事故を起こす。<永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼> 大田南畝が狂歌に書き残している。

<石川島公園から永代橋を望む。木橋落橋事故の遠い歴史を浮かべる川面>

 その富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、都内最大の八幡神社(深川八幡)で、建久年間に源頼朝が勧請した富岡八幡宮 (横浜市金沢区富岡)の由緒ある直系分社、もう故事来歴だけでも長くなる。何れにしろ、源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護下に置かれたと言うから超ブランド系八幡宮となった。
 町民達にも「深川の八幡様」と親しまれ、歌川広重の広く美麗な庭園の『名所江戸百景』でその人気の様子がうかがわれる。

<永代通りに面する富岡八幡宮の山門から。門前町街として賑わった名残も>

隅田川<20>八丁堀界隈

2009-10-16 | フォトエッセイ&短歌
 「八丁堀」といえば江戸を背景とした時代劇では欠かすことが出来ない。銭形平次や「鬼平犯科帳」の鬼平の舞台には無くてならないが、すでに「八丁堀」は埋め立てられて堀の場所さえ定かでない。だいたい「京橋川から楓川を経て隅田川に通じる約八丁くらいの舟運」で、現在の京橋ジャンクション付近に至る約0.6kmの河川で首都高速道路がその上を通っているという事だ。
 江戸の始めに造成された八丁堀は寺町としれ寺院が建立されたが、後に江戸城下の拡張計画によって寺院を郊外に移転させ町奉行の配下の与力・同心の組屋敷(居住地=官舎)になったのだ。

<組屋敷は現在の鈴らん通り・平成通り。京華スクエアの前にガイド版がある>

 与力(よりき)・同心(どうしん)は江戸町奉行(江戸の市政を管轄した役所)の役人で行政・司法・警察の役割を担った万能の役人である。そのために「八丁堀の旦那衆」「八丁堀の御役人衆」などと呼ばれて二本差で市中を闊歩したのかもしれない。
 与力は御家人クラスで騎乗を許される身分で一騎・二騎と数えられ、知行200石で300余坪の屋敷地が与えれ冠木(かぶき)門などを構えていた。今の警察署長に相当するといわれる。
 これに対して警察官に相当するのが同心で彼等が捜査の補助や情報源として岡っ引や目明しなどを手先として使っていたという。屋敷地も100坪と狭くなる。
八丁堀の組屋敷には、元禄年間以降だいたい300人の与力・ 同心が生活していた。彼等の勤務先は南・北町奉行である。「必殺仕置人」の藤田まこと演じる中村主水(なかむらもんど)は南町奉行所の同心でよく彼等の状況を表現している。

<八丁堀の組屋敷から南町奉行のあった有楽町駅のマリオンまで徒歩で通勤>

 大捕物が佳境に入って一件落着の頃、騎乗の与力が悠然と登場する。「イヨッ 八丁堀の旦那!」テナ具合に格好いいのだが、実際は犯罪者を取り締まる汚れ仕事として嫌われたうえに給金少なく生活は苦しかった。敷地内に長屋を建てこれを賃貸して収入の道を計っていた。
 そこには、その日暮らしの八っあん・熊さんレベルの職人も多く、雨の2,3日も降れば米を買う金もない連中。そこで八丁堀には質屋が多く、古着屋も軒を並べなかなか賑やかであったとか。
 そんな八丁堀に通じる楓川・桜川・京橋川・三十間堀川・築地川・外堀など全てが埋め尽くされたが日本橋川と亀島川だけが当時の流域を保っている。

<汐の香が漂う亀島川で右側が八丁堀の組屋敷一帯。先は東京駅八重洲口>

隅田川<19>霊厳島公園

2009-10-11 | フォトエッセイ&短歌
 日比谷線の八丁堀駅を出て新大橋通りを少し戻ると桜川公園がある。八丁堀に繋がったと思われ桜川(運河)は大川(隅田川)河口に入港した菱垣回船、樽回船などの荷を小型舟に積み替えて亀島川、日本橋川、京橋川、楓川など江戸八百八町に物資を運んだ舟運ネットワーク一本である。
 周囲には各種の蔵が建ち並び、江戸時代から昭和期まで4世紀もの間、重要な運河として、材木や酒樽などが運ばれて江戸経済を支えてきた。戦後、これらの河川や堀はドンドン埋め立てれビル街に生まれ変わっている。とりわけ東京オリンピックをきっかけに東京大改造が進み水路は壊滅し「桜川」も姿を消した。

<幻となった桜川の「掘」は桜川公園としてその痕跡を留めるばかりである>

 桜川公園から亀島川の高橋を渡るとの新川にでる。江戸時代「霊厳島」といわれた島(洲)で江戸の始めに埋め立てられたが、ここにも「新川」と呼ばれる運河が掘られている。1660(万治3)年に河村瑞賢(かわむらずいけん)が開削したものと伝えられる。
 河村は江戸前期の商人で海運・治水の功労者。土建業を営み、幕府や諸大名の工事を請け負った。1672年に出羽国の幕領米の江戸回漕に従事し、房総半島を迂回する東廻航路(東廻海運)、日本海から下関・大坂経由の西廻航路(西廻海運)を確立するなどして晩年に旗本に取り立てられた。広大な屋敷地もこの一画に与えられ、永代通りに屋敷地跡のガイド版があるが、見る人もなし。

<新川も幻となったが、隅田川と合流させた地点に「新川之碑」が建立さた>

 亀島川と日本橋川と隅田川に囲まれた新川(霊厳島)に1624(寛永元)年、雄誉霊岸上人が霊岸寺を創建して土地開発の第一歩を踏み出した。その後、寺の南方に越前福井の藩主松平忠昌が浜屋敷として拝領している。屋敷の北、西、南三面に舟入堀を掘って越前の地産品を運び込んでいる。越前堀の地名が残った理由である。
 その史跡として新川の一画に越前堀公園(霊厳島公園)を造成して、発掘された石垣石の一部と「霊厳島」の碑を建てて記念している。

<越前堀の発掘された石垣石の一部。後の自然石が「霊厳島之碑」である>

隅田川<18>華中央大橋

2009-10-05 | フォトエッセイ&短歌
 石川島公園から対岸の新川に通じる隅田川にかかる橋が中央大橋(ちゅうおうおおはし)である。隅田川の橋の中で最も意匠を凝らした美しい橋として、下流に見える無粋な佃大橋と比較されながら愛でられている。とりわけ白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップさるれ橋夜景は近未来を映す見事なものである。
 バブル経済期の設計施行で機能性や経済性を前提としない、贅沢な都市景観を大胆にデザインにした架橋になっている。隅田川はセーヌ川と1989年に友好河川を提携していた関係からフランスのデザイン会社に設計を依頼したのだという。雄渾にして華麗なるウォーターフロントを映し出しているのが中央大橋である。

<主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が見られる>

 中央大橋を渡って1キロ半、八重洲通りを進むと東京駅八重洲口であるが、左折すると亀島川に架かる南高橋に出る。南高橋に立つと「江戸が水の都」といわれるのも納得出来る。運河(入り掘・掘留)が縦横に走り、河岸(かし=荷揚げ場)や物揚場(ものあげば=武家専用の荷揚げ)が江戸市中に張り巡らされている。
 水運都市・江戸。そのために河口の橋は中央部を高くして舟運を優先させるのである。橋桁を高くした太鼓橋は美を競ったわけでも画家の誇張でもない。そのためには渡る側には大きな障害となった。
中央部までの登りはには「押し役」が、中央部からの下りには「ブレーキ役」が必要となる難関となったのである。従って高橋(たかばし)はあちこちにあったのであるが、再建、高橋は太鼓部分が削られているが…。

<亀島川に架かる南高橋。鋼鉄トラス橋としては全国で6番目に古い橋梁>

 文化財指定の南高橋(みなみたかばし)を渡り鐵砲洲通りを進むと鐵砲洲稲荷神社に出る。
 「鐵砲洲」とは穏やかではないが、隅田川に流れ出る河口に細長い洲(島)ができてそれが鉄砲の形をしていたという事か。
 いずれにしても「湊神社」ともいわれていたように江戸湊にあった神社だが、江戸湊は埋立・拡張で海岸線が常に沖に向かって移動する。その度に何度も「引越を余儀なくされる」という面白い神様である。
 大坂や西国の船はここ鐵砲洲に入港して、小舟を使って物資を江戸市中に運び込む重要な港であった。江戸の発展と共に米塩酒薪炭などの消費物資が増大し鐵砲洲は活況を呈した。

<鐵砲洲生成太神の名は船乗人の海上守護神として江戸の海の安全を見守る>

隅田川<17>石川島幻影

2009-10-01 | フォトエッセイ&短歌
 日本帝国海軍の軍事力を支え日本経済の動脈となった京浜臨海工業地帯の一翼を担った石川島。第二次世界大戦の勃発の年(1939年)には造船部門が豊洲に移転、石川島での造船事業は終わり、重機械類の専門工場として稼働してた。
 戦後、臨海部の埋め立てが進み都心に組み込まれ公害が問題になるころには機械工場も移転され東京再開発の一大プロジェクト「東京のウォーターフロント開発」が進んだ。

<石川島からリバーサイド越しに佃大橋を望む。佃の渡しの面影はどこに…>

 石川島に出現した大川端リバーシティ21。東京における超高層住宅(三井不動産の分譲マンションは54階建)の先駆けとなった開発である。近未来的な超高層住宅の林立する再開発を眺めることができる.
 しかし、石川島という歴史的地名は「佃」に合併され消失してしまった。今は隅田川の川面を映す小さな公園名にその痕跡を留めるばかりである。歴史的地名の保存は出来ないものなのか。

<初秋の隅田川の川面の銀鱗を背に石川島公園の標、彼岸花が一本ゆらりと>

 隅田川を下って来るとこの石川島にぶつかり二手に別れ、左側が晴海運河、右側が隅田川本流となる。そこからの大川端リバーシティ21の眺めこそ『東京一美しい超高層住宅街』という人も多い。実は浮世絵の富嶽三十六景の葛飾北斎も、ここの眺めが江戸で一番素晴らしいと言っていたとか。
              

<摩天楼として聳えるは54階建。最上階からの眺望を想像する事は出来ない>