年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

足柄路・万葉集

2008-10-28 | フォトエッセイ&短歌
 金太郎伝説は大変に古いもので多くのルーツが研究されている。
その多くは「今昔物語」の記録を根拠に源頼光の家来説で金太郎は実在の人物であるという。頼光といえば、藤原道長が「この世をば、わが世とぞ思う望月の欠けたる事もなしと思へば」とうたった藤原氏の全盛時代に弓取りとして都で勇名をはせた武将である。
 金太郎は後に坂田公時(さかたのきんとき)と名乗り、頼光の四天王の一人として、大江山の酒呑童子を退治するなど都でも大活躍をしたということだが。

<若武者、坂田公時はこの足柄古道を歩いて都に上ったのだろう>

 そんな訳で足柄は古代より、都の人々の気持ちを掻き立てたようだ。有り体に云えば「辺境の地なんぞに行きたくはなし、覗いて見たいし」てな事で、格好の和歌のテーマになったのだろう。
 『万葉集』には足柄峠の周辺や箱根を詠み込んだ歌が19首も収録されている。それを、テーマにした万葉公園が足柄坂を登り切ったところにある。万葉植物(歌に出てくるネズ、エゴノキ、アセビ等約90種)と歌碑を配したユニークな散策路になっている。
   
<鋭い棘に守護されたカラタチの実は初秋の風物。万葉植物だそうです>

 ひと汗かいた後はやはり食欲の秋でしょう。讃岐で修行を積んだご主人が、夕日の滝から流れる清らかな水を使って丁寧に打ったコシのあるうどん。名付けて、万葉うどん。一番人気は『ざるうどん』でうどん本来の味を楽しんでもらう。
 万葉うどんを食って万葉歌謡を鑑賞しましょうか。
   「足柄の御坂に立して袖ふらば家なる妹は清に見もかも」
   「足柄の箱根の嶺呂の和草の花の妻なれや紐解かず寝む」              
<ウドンは文句なし。歌の解釈はネ~。余りに可愛くて帯も解かずに寝たんだと>

足柄路・金太郎

2008-10-25 | フォトエッセイ&短歌
 足柄山と云えば金太郎さん。金太郎さんと云うば<腹掛け>、坊主頭に菱形の<丸金>の腹掛けは子ども達の定番スタイルでなんとも郷愁を誘われるものである。今やお目に掛かることはないし、<腹掛け>も<マサカリ>も死語である。
♪♪ あしがらやまの やまおくで けだものあつめて すもうのけいこ ハッケヨイヨイ ノコッタ ハッケヨイヨイ ノコッタ♪♭
童謡「金太郎」、1900(明治33)年に発表された「幼年唱歌」で、作詞・石原和三郎。<腹掛け>同様に消え去った歌謡文化である。
                    
<クマに跨ったマサカリかついだ金太郎。産湯に使ったという夕日の滝の響き>

 『むかしむかし、足柄山にやまんばがおって、ある激しく雷が鳴る晩、可愛い男の子を産んだんだと。やまんばは赤ん坊に「金太郎」と名付けて夕日の滝で産湯につけたんだって。金太郎はまんま食うたびにぐんぐん大きくなって、毎日山ん中をかけめぐり動物たちと遊んでおった。…』
 こんな、むかし話を語って聞かせる幼稚園があるのかナ~

<山姥の住みかという伝承が残る地蔵堂。金太郎の成長期のふるさと>

 金太郎伝説は「金太郎や山姥」がセットになって広い範囲に分布しているという。研究者によると20余りの地域に及んでいて、それぞれにもっとらしい物語と地名が伝承されている。現在の足柄市の峠あたりには足柄古道があって、有力な候補地である。
 峠を下った辺りの村道には遅い曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が咲き競い、収穫を待つ稲穂が色づきはじめている。「別れの一本杉」演歌の風景ですね。

<熊に跨った金太郎がハイシイドウドウ出てきそう。ヒガンバナの里でもある>

足柄路・関所址

2008-10-18 | フォトエッセイ&短歌
 足柄峠は駿河国(静岡県)と相模国(神奈川県)の国境の峠である。奈良・平安の時代には東国と西国とを結ぶ官道(東海道)として整備され、足柄路(矢倉沢往還)とも呼ばれた。今日的に云えば国土交通省が管轄する1級国道のゲートにあたる。何しろ、足柄峠は「都文化圏」から坂東と称する「異民族文化圏」の境界の地と考えられていた。首都圏防衛の前線基地でもあるため、動静を把握する必要から899年に関所が置かれた。

<峠には何か旅情が漂う。関所跡という確証はないが風景として納まっている>

 899年、平安時代の中頃で藤原氏の貴族文化が花開く頃である。地方長官(国司)の肩書きが金で売買されるなど、地方政治が乱れはじめる。坂東では群盗が横行し、都に運ぶ貢納物(税)がたびたび強奪されたため、太政官府が「足柄の関」を設けたとある。
 効果は覿面(てきめん)群盗は一年足らずで鎮圧され、翌年には関が廃止されたが、その後も緊急時に足柄の関が度々再開された。
 鎮圧とあるから、いわゆる盗賊ではなく、都の権力に対抗する地域の土豪による武力反乱かと思われる。中央に反逆する「オラガ村のボス」として民衆には人気があったのであろうか。
    
<関所にある首塚供養塔。成敗された彼等は手厚く葬られたのであろうか>

 鎌倉時代にはすでに関跡も定かではなく、1221(承久3)年に没した飛鳥井雅光の「足柄の関を読める歌」には「足柄の山の関守古は有もやしけん跡だにもなし」(足柄の関は跡形もない)と詠われており、現在の史跡とされる場所かどうかは一切不明である。
 しかし、足柄峠は要害の地で、戦国時代には足柄城が築かれた。
小田原の北条氏康が厚木市の百姓に足柄城の普請の人足を出すよう命じた文書があるのでこの頃の築城と思われる。北条氏康・武田信玄・今川義元が「甲相駿三国同盟」を成立させた頃の緊迫した争乱の世である。

<足柄峠の頂上に展開する足柄城跡。晴天なら眼前に雄大な富士山なのだが>


みちのく・細道

2008-10-15 | フォトエッセイ&短歌
 『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也』。奥の細道(おくのほそみち)の冒頭である。松尾芭蕉が弟子の曾良(そら)を伴って江戸深川を旅立ったのは1689(元禄2)年の春、約半年かけて東北・北陸を巡っている。旅立って1ヶ月後には憧れの白河の古関に着いている。
 「道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず」白河郷に入ったが、「西か東か先早苗にも風の音」にあるように、関所が東にあるのか西にあるのか皆目見当がつかず戸惑ったようだ。
 元禄といえば忠臣蔵の時代、松平定信が白河の関は「ここだア~」と宣告する前の100年も前のことである。関はこのあたりでいいのかナ~と旗宿の村落辺りの風景を眺めた思われる。

<「奥の細道」を旅する白河の松尾芭蕉と門弟の曽良。秋桜が揺れている>

 『心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。この関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なほあはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲き添ひて、雪にも越ゆる心地ぞする』白河の古関に感無量の体である。
 白河の古関がどこか明確では無かったが、えらく感動した事は間違いない。白河神社の佇まいも郷愁を誘う。

<白河の関は、勿来関・念珠関とともに奥羽三関。北の備えの砦であった>

 俳人芭蕉はおもむろに矢立(やたて=筆)を取りだして、俳句に取りかかるがなかなか筆が進まない。白河や… 白河や…!感極まってか、景色に見とれたか、後が続かず断念して矢立を収めてしまった。
 芭蕉は云ったという「絶景にむかふ時は、うばはれて叶はず」と、つまり余りの絶景に魂を奪われて俳句を作れなかったと云う。松島でも二の舞を演じている。「長途のくるしみ、身心つかれ」と書いているから単に疲労困憊して集中力を欠いたのだという説もあるが、何かズルイナ~。
 『卯の花をかざしに関の晴着かな』は弟子の曽良の句で、解釈は面倒なので、「ひるがおをかざしに関のバスストップ」お粗末コピーでやんす。

            
<関所はこの旗宿の村落だろうと推定される。ヒルガオが淡く俳句の世界だ>

みちのく・関跡

2008-10-11 | フォトエッセイ&短歌
 国道4号線は、東京都中央区から青森県青森市へ至る一番長い国道である。那須高原が尽きる辺りが、栃木県と福島県の国境で「これより陸奥(みちのく)」の標識が立っている。江戸時代の白河藩のあった所で関東から東北の境界にもなっていて、自動車道が開通するまでは「オーウッ いよいよ北国だ~」という感じだった。
 この、「オーウッ」という感じは時代が遡ればさかのぼるほど強かった。古代社会に於いては夷狄の跋扈するあな恐ろしげな辺境。というのも朝廷の支配に従わない未開の地というわけだ。だからこの国境は極めて重要で地であったといえる。朝廷がここに「白河の関」を置いた意味が分かる。

<白河の関は念珠ヶ関(ねず)・勿来関(なこそ)とともに、奥州三関の一つ>

 「関」というと「箱根の関所」を連想するが『入り鉄砲に出女』を取り締まった江戸時代の「関所」ではない。大化の改新の頃から設置され、朝廷の支配に屈しない蝦夷討伐の前線基地、あるいは蝦夷の南下を防ぐ要塞といった軍事的拠点が「白河の関」であった。従って陸奥国を制圧し、みちのくを支配した段階で白河の関はその役割が終わった。
 しかし、軍勢を整えた征夷大将軍が生死の杯を交わして粛々と陸奥(みちのく)に出陣…、テナ事で都の貴族には殊の外「白河の関」に人気が集まったようである。能因法師の「みちのく」惚れは大変なもので「白河の関」の旅人となり、『都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関』の一首を書き送った。これが空前のヒット作となり、西行法師をはじめ一遍、宗祇など和歌や仏教で有名な文化人がこの地を陸続と訪れた。

 <空堀の曲輪の遺構が発掘された。堅牢の城塞のような建物が想定される>

 源義家、源義経もこの辺りの街道を使って陸奥(みちのく)に入ったとされている。しかしその後、陸羽街道の白坂越えルートがメインストリートになってこちらは忘れ去られ、白河の関は民間の伝承の中に消え去った。7~800年も経てばどこに何があったかなど分からなくなるが、歌に詠われる超ブランド名、天下太平の江戸時代に「白河の関」はどこか!の論争が起きる。
 そこで名君・松平定信が「ここでいいのだ!」と一喝して決まったのが、現在の地である。また、その一喝で決まったという記念碑があるのが面白い。それからすでに200有余年、しっかりと「白河の関」はここに根付いている。
    
<定信の一喝の石碑。その脇には大蛇のような藤が雰囲気をつくっている>






みちのく・南湖

2008-10-06 | フォトエッセイ&短歌
 陸奥(みちのく)の玄関口として歴史的にも地理的にも重要な位置を占めてきた福島県白河市は江戸時代の白河藩のあったところ。藩主・松平定信(まつだいらさだのぶ)は老中に就任し「寛政の改革」を行い、江戸時代中の最高の名君といわれていた。
 その名君ぶりを伝える一つに南湖公園がある。説明によれば『定信はこの公園において身分の差を越え庶民が憩える「四民(士農工商)共楽」という思想を掲げて公園を造りました。「共楽亭」と称する茶室も設けて、四民と楽しみを共にしました』とある。

<「やま水の 高きひききも隔てなく 共にたのしき 円居すらしも」  定信>

 最近、松平定信の最高名君説は批判が多く金権政治で悪徳イメージの強い田沼意次にその座を奪われている。「白河の清きに魚も住みかねて もとのにごりの田沼恋しき」定信の清廉潔白の政治姿勢に対する狂歌である。「幕府の権威を再建する」という謂わば歴史の流れに棹さす発想では政治改革にはならなかった。
 こんな指摘もされている。定信は政治家というより学者、文化人で著述などに理解あってしかるべきなのに彼ほど徹底的に言論・出版の大弾圧をした人物は他に類を見ない迷君・暴君であると。
 寛政異学の禁に始まり、林子平・山東京伝・恋川春町など禁固刑に処し言論・出版界の息の音を止めたのが定信とも云う!

<「南湖」の名は李白の詩句「南湖秋水夜無煙」から付けた。湖面の腐柱>

 田沼意次を追放したのは松平定信、松平定信の改革の足を引っ張ったのは田沼意次と囁かれている。清濁2人の官僚の比較は面白いが、またの機会にゆずる。ここは白河の地、定信名君説で一服いかがでしょうか。
 松平定信は茶の道に深く、「茶導訓」など茶道観を著し複数の茶室を設けている。遠州流に近く、「秋水庵」の茶室の建設も、四畳台目高台寺遠州好茶室を模している。この茶室は、「南湖」の命名にも通じる李太白の詩句「南湖秋水夜無煙」から「秋水庵」と名付けられたとか。
  
<老杭に芽吹く。作庭は1801年、我が国最古の庶民に開放された「南湖公園」>

台場・静寂の島

2008-10-01 | フォトエッセイ&短歌
 林子平は幕府の海防策を『太平に鼓腹(こふく)する人』<太平の世に腹ツツミを打って楽しんでいる>と批判して処罰された。彼の提言を実践的に研究したのが江川英竜(えがわひでたつ)で砲台の不備と砲の不足を進言し、自ら反射炉(溶解炉)を造って鉄製の大砲製造にのり出した。
 江川英竜の仲間の渡辺崋山・高野長英らは「蛮社の獄」で処罰されたが、彼もまた逮捕の危機に見舞われた洋学者だった。日米和親条約が締結され「品川御台場」の工事が中止された翌年、1855年に彼は没した。江川謹製の精魂込めた砲がすでに使い物にならない旧式だった事や幕末も動乱期に入り砲台もろとも幕府がどうなったか知るよしもない。

<江戸湾に標準を合わせた青銅鋳造製の大砲台跡が行き交う船を眺めている>

 工事中の風雪やシケで海水が流れ込んで難渋した現場監督の日記が残っている。この時の民謡に『死んでしまおうか、お台場にゆこうか、死ぬにゅ増しだよ、お台場の土担ぎ』というのがある。難工事の厳しい仕事に労賃を弾んだ事が分かる。土ひと担ぎに銭一枚支払ったというが、それでも石工や土工不足に悩まされたという。
 台場の一廓に水溜まり程度の沼ある。少年が棒切れに凧糸を垂らしてザリガニを釣っている。赤くて爪がでかいぞ!

<潮騒のなかに歓声が上がる。やがて青年になり、沼の歴史を知るだろうか>

 巨額の費用を投じてつくった台場は、実際何か役に立ったのでしょうか。という疑問に応えている研究者の座談会の記事があった。
 政権の安定を考えると品川台場は非常に大きな意味があった。黒船来航で国民が動揺するが、こんな巨大な大砲が据えられている。心配することはない。対外的な軍事的な面ではなく、国内の治安という意味で大金を投下した「お台場」は意味を持っていた。露天砲台、丸見えの大砲だったが、幕府の権威を示すためにはそれで良かったのだと。
 ナルホドナ~。そう言えば、当時の品川美人浮世絵の背景に黒々と砲台が描かれているのがある。
  
<船着き場から陣屋に通じる塹壕跡。純白の仙人草がひっそりと咲ていた>