年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

09'秋浪漫<5>請戸川の鮭

2009-11-26 | フォトエッセイ&短歌
 福島県浪江町の請戸川のヤナ場は、市街地の南部と北部を流れる高瀬川と請戸川の合流点に近い所にある。川幅約120mの東北一の規模を誇っている。
 川上で産まれ海に下ったサケは海で数年かけて大きくなり、またふるさとの川にもどってくる。これを母川回帰(ぼせんかいき)というが「どの様に川を記憶するのか?」「帰ってきたことをどの様に判断すのか?」は解明されていないという。
何れにしろ、母川回帰して更に上流をめざす鮭の群れをバリケードを造って遡上を阻止して一網打尽にするのが梁(やな)である。

<100mの梁には木道が施設され、秋のこの時期、見学者が絶えない>

 秋になり一斉に川をのぼってきた鮭は無事自分のふるさとの川にたどり着く。そして、さらに川を遡り、比較的浅瀬の砂利になっている河床あたりの、地下水の湧出するところで産卵する。産卵・放精後まもなく、鮭はその一生を終えることになる。
 その最後の死に場所になる産卵場所を求めて最後のエネルギーを振り絞って上流をめざすのだが…。

<長い旅と産卵するまでの絶食状態で身体は無惨に傷ついている>

 10月中旬から11月中旬頃の最盛期を中心に鮭狩りが行われる。川幅いっぱいに網を流し、徐々にたぐり寄せながらの地曳網漁は豪快そのもの。最盛期には1日1,000~3,000尾もの水揚げがあり、年間では70,000尾~100,000尾の漁獲高だと云う。
 網の中の鮭は棍棒で頭を殴打され気を失った瞬間に生け捕られる。漁場の近くに「鮭の供養塔」があるはモットモである。

<これは見学者用のミニ地曳網漁だが最後の最期の一暴れは壮絶!>

09'秋浪漫<4>陸前浜街道

2009-11-22 | フォトエッセイ&短歌
 トラ・トラ・トラ(我レ奇襲ニ成功せり)。「帝国陸海軍は本8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」太平洋戦争に突入した半年後の1972(昭和17)年の5月、早くも軍需用品資材の不足から「金属回収運動」が始まった。寺院の梵鐘や仏像などの強制供出である。
 安積疎水建設の功績を顕彰して地元の人たちが昭和6年に十六橋のたもと建立したファン・ドールンの銅像も戦時色が強まるなか供出の例外ではななった。心ある村人なのか、定かではないが、人知れず密かに山中の地中深くに銅像は隠された。そして、平和が訪れた時代に再び姿を現し十六橋水門を眺めることになったという。
 ファン・ドールンはオランダの土木技術者で、明治時代のお雇い外国人。約8年間にわたって日本で河川・港湾の整備計画を立てて活躍する。

<利根川・江戸川の改修工事で全流を踏査し日本最初の量水標の設置もした>

 猪苗代湖の安積疎水十六橋水門から太平洋岸の陸前浜街道に抜けるが、一度北上して土湯峠を越える事にする。奥土湯温泉郷の一帯で湯煙が荒々しい山肌から立ち上がっている。単純硫黄水素泉(45度~89度)とかで周囲の木々は硫黄にやられて育たない。

<まだ根雪の時期ではないというが、やがて深い雪の中に埋もれる事だろう>

 地図には「浜通りは原発銀座でもある」と記載されている。その福島第一原子力発電所を7km北上すると本州での鮭遡上河川の南限と云われる請戸川(うけどがわ)である。
 最近では多摩川から横須賀辺りでも遡上鮭が見られるが、漁業として地曳網漁を行っているのは浜街道のこの辺りからで「鮭漁の南限」の地と云われる。海で数年を過ごし成長した鮭は産卵するために産まれた川に戻って送る。ここで止められ遡上は出来ず、産卵はむなしく夢と終わる終焉の地でもある。

<川幅全体に展開する梁。ここを下って大海に向かったのは何年前だったのか>

09'秋浪漫<3>安積疎水

2009-11-17 | フォトエッセイ&短歌
 磐梯朝日国立公園に属する猪苗代湖は湖面が標高514mで全国でも有数の標高の高い湖である。冬には、強い季節風に吹き上げられた水しぶきが木などに付着して、そのまま凍り付いてできる「しぶき氷」が有名である。天鏡閣(てんきょう)からみる「しぶき氷」はどんな光景になるのだろうか。

<穏やかな陽を受ける天鏡閣の赤レンガの正門。落ち葉が舞い始めいる>

 天鏡閣から西へ山裾を抜けると戊辰戦争で会津城下の防衛戦とされた十六橋攻防戦跡である戸ノ口原がある。この水門の歴史は古く弘法大師が16の塚を作り橋を造ったのが始まりだという。
 現在の水門は明治12年着工、「安積疏水」事業の一環として石造の十六橋水門が建設されたのがその始まりだ。オランダ人お雇い技師のファン・ドールンの設計・指導による。
 安積疎水(あさかそすい)の開通は猪苗代湖の水を安積の原野に引き入れ、豊かな穀倉地帯に変えた。その後、猪苗代水力電気株式会社が発電所の建設に際して水利調節のため大正3年に電動式ストーニーゲートに改築している。

<安積疎水十六橋水門。那須疏水・琵琶湖疏水と並ぶ日本三大疏水の1つ>


 安積疏水の水は、猪苗代湖より取水し、福島県郡山市とその周辺地域の安積原野に農業用水・工業用水・飲用水として供給されている。この発想は明治維新で職を失った各地の士族が反乱を起したので、その対策として安積原野開拓が計画された。その結果、郡山市に灌漑区域面積、約9,000haの広大な穀倉地帯が誕生し一時期、米穀生産量日本一の市となった。
 農林水産省が日本の農業を支えてきた代表的な用水を疏水百選(そすいひゃくせん)として選定し次世代に伝えようとしている。水と土と里を維持する活動の一環だとしている。

<「疏水百選」に選定された安積疎水の水門拡大図。不毛の地を変えた>

09'秋浪漫<2>会津街道

2009-11-12 | フォトエッセイ&短歌
 七ヶ宿街道の滑津宿(なめつしゅく)の外れに滑津大滝(なめつおおたき)がある。太平洋に流れる阿武隈川の支流の一つ、白石川の上流にかかる高さ10メートル、幅30メートルの滝である。
 火山から噴出された火山灰が堆積して出来た凝灰岩(ぎょうかいがん)で出来た川床を流れ落ちる。凝灰岩は河川などの浸食に弱いため、さまざまな形に浸食され風光明媚な地形を作る。滑津大滝も階段状になっていることから「二階滝」とも言われる。

<街道から滑津大滝を眺め降ろす。渓流の瀬に映る色づき始めた鮮やか紅葉>

 羽州街道を桑折宿(こおり)まで下ると奥州街道にでる。奥州街道を下って会津街道を西に進むと猪苗代湖である。会津街道は新潟に通じる道で越後街道とも呼ばれる。陸奥(みちのく)とはいえ紅葉が平地を染めるのは後数日を必要とするかもしれない。
 ススキが揺れる。晩秋の凛とした陽射しが季節の変わり目を爽やかに映し出している。ススキは「芒・薄」で、萱(かや)・尾花ともいう。種子(正しくは穎果・えいか)は如何にも儚げな感じである。

<種子には白い毛が生えて、穂全体が白っぽくなる。種子は風によって飛ぶ>

 琵琶湖・霞ヶ浦・サロマ湖に次いで日本で4番目の面積を持つ猪苗代湖が左手に開けて来る。湖辺を6kmも進むと明治41年に完成した国の重要文化財に指定されている天鏡閣(てんきょうかく)に至る。天鏡閣の命名は、李白の漢詩「明湖落天鏡(めいこはてんきょうをおとして)」に由来していると言われる。
 旧有栖川宮家別荘で西洋文明を移植しようとしている明治史の1ページが展開。一部三階建てのルネッサンス様式を巧みに取り入れた、和洋折衷の建築様式で白い板壁やバルコニーの外観に特徴がある。遙か遠くになった明治を猪苗代湖に映している。

<1952年、福島県の所有となり会議や講習会などに利用していたという>

09'秋浪漫<1>七ヶ宿街道

2009-11-08 | フォトエッセイ&短歌
 奥州街道の桑折(こおり)宿から羽州街道の上ノ山(かみのやま)宿までの街道を山中七ヶ宿街道という。現在の国道113号の福島県の桑折から山形県の上ノ山へ通じる24kmのあたり、江戸時代には仙台藩の領内で七つの宿場(上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原)が置かれた。
 旧建設省の「道の日」実行委員会により「日本の道100選」に制定された事もあり、往時を偲ぶ街道の様子が整えられている。
 滑津宿(なめつしゅく:宮城県刈田郡七ヶ宿町)辺りは旧道も残り、街道の様子を楽しめる。親子松もその一つで、樹齢350年とされる大木の木陰は草鞋を履き替える旅人達の休憩場となっていたという。そこに道祖神を祀って道中の安全を祈願したのであろう。

<3mもある大きな草鞋が奉納されている。女性・男性としているのが面白い>

 たかが6里程度のこの七ヶ宿街道(歴史的には「山中通小坂越」)が、注目された理由は秋田藩、庄内藩、弘前藩など実に東北の13大名が江戸への参勤交代に利用した街道だからである。
 蔵王連峰の南に位置し、山がちな地形と白石川の渓谷沿いに街道は続き七ヶ所の宿場は山里の渓流に臨んでいる。
 滑津宿の「安藤家本陣」は街道の中で唯一、当時の面影を残している建造物。切妻破風造で重量感のある茅葺き屋根の安藤家は宿場の肝入検断を務め、幕末には大名も宿泊したといわれている。千鳥破風式の棟飾りをもった玄関は特徴的で、歴史的風格を漂わせている。

<260年を経た安藤家本陣で諸大名・幕府及び藩役人が宿泊・休息した>

 田面を懸ける紫煙の野焼き風景に出会う。最近は殆ど見ることが叶わなくなった日本の秋のロケーションだ。こうして、大地は再生されまた来年の豊作の準備をしていく。
 過疎化の進む山間の街道筋。変わらぬ農村の風景はゆったりと刻をきざんで長閑に流れる。収穫の終わった「里の晩秋」… やがて雪の中に閉ざされる日も近い。暦ではすでに立冬。

<東京地方ではすでに木枯らし1号を観測したと気象庁は発表した>

隅田川<23>深川不動堂

2009-11-02 | フォトエッセイ&短歌
 富岡八幡宮に隣接して深川不動堂がある。八幡様と不動様いったいどんな関係なのか、両者の共通点が見えるのも史跡散策の楽しみでもある。富岡八幡宮は横浜市にある富岡八幡宮の、深川不動尊は成田山不動尊の出先機関であるという。
 江戸時代のはじめ、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったところこれが大当たり。不動明王とはなんだ!という事で江戸っ子たちの成田山新勝寺の不動明王拝観熱が高まった。
 ならばという事で1703(元禄16)年、成田不動の「出開帳」(今風にいえば「特別秘宝展」)が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。これが深川不動堂の始まりである。

<お不動様の参道仲見世。香ばしい多彩な菓子類に下町の雰囲気が漂う>

 しかし不動堂が建設されたのは明治14年。その建物の歴史は比較的新しく家内安全から交通安全まであらゆるご利益が集まっている。一ヵ所でかくも多くのご利益が得られるとは有り難や!有りがたや!
 えエ~イ、それならばと内仏殿を新築し小部屋を作ってそれぞれに仏像を設置した。十二支、四国八十八箇所霊場などなど、その種類は多岐にわたり、まるで仏様とそのご利益のデパートである。エレベータで最上階にあがるれば大日如来が置かれた広間があり、廊下からは付近が一望できビルの谷間に一筋見の深川不動参道が細く見える。

<不動堂本体は狭いが、それに数倍するご利益グッズの多種爛漫。お見事!>

 深川不動、富岡八幡の西側の遊歩道にちょこんと小さな橋が乗っかっている。八幡橋である。なんと国の重要文化財のみならず、日本ではじめて米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が贈られたというからしげしげと眺め観る。故事来歴も必要となる。
 明治11年、京橋区の楓川にアメリカ人技師スクワイヤー・ウイップルの発明した形式を元に工部省が架橋した。初めて国産の鉄材を使った鉄橋で文明開化のシンボル的存在の鉄橋となった。架設経費は4058円。付近に島田弾正屋敷があったため、弾正橋と呼ばれた。
 大正2年に新たに弾正橋が架橋されたため、「元弾正橋」と改称される。さらに関東大震災後に廃橋となったが、その由緒を惜しんで現在地(当時は八幡堀という河川)に移設。ところがこの川が埋め立てられ遊歩道になってしまった。橋名も再度の改称となった。

<そんな訳で八幡橋といっても遊歩道の小径に架かる人道陸橋となっている>