年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

霞ヶ城落城・会津

2008-08-27 | フォトエッセイ&短歌
 江戸から明治へと慌ただしくページはめくられる。1867(慶応3)年、15代将軍・慶喜は公武合体派の土佐藩・山内豊信の策を受け入れ政権を朝廷に返上(大政奉還)して将軍家勢力の温存をはかろうとした。しかし、討幕派はクーデターを敢行して王政復古の大号令を発し天皇親政の政府を立ち上げた。
 そして、慶喜に対して「肩書きと土地の返上」を命じて<ただの人>にしてしまった。幕府側はこの処置に怒って各地で兵を挙げたので討幕派(官軍)との戦闘が始まった。この全国的な内乱を歴史上「戊辰戦争」と呼んでいる。

<福島県二本松市の霞ヶ城公園の二本松城跡の箕輪門。石垣は城郭の花だ>

 旧幕府側は将軍・慶喜を擁して京都で出撃したが、長州・薩摩軍に敗れる。慶喜は江戸城に逃れるも追討令にビビって上野の寛永寺に閉居、さらに水戸へ隠棲して戦争を指揮することはなかった。天皇を擁した<長・薩>討幕派は官軍として、主も大義も失った旧幕府軍を賊軍として撃破していった。
 東北地方では<会津藩・仙台藩>を中心に奥羽越列藩同盟を組織して新政府軍に徹底抗戦で挑んだ。会津藩の壊滅は有名であるが、その前哨戦となったのが「二本松城」である。
 『会津とろうか、仙台とろうか、あすの朝飯二本松』と謡いながら進軍してきたという。二本松城の留守部隊300名(主力部隊は奥州街道の白河)、兵力の不足を補うために少年隊が組織されたが、会津の白虎隊と同様に僅か1日の戦闘で蹴散らされて壊滅したという。

<二本松少年隊の悲話を物語る奮戦像である。兵器の差は決定的であった>

 二本松城は灰燼と化し、石垣のみが往時の姿を留めるが、霞ヶ城という幻想的な別名を持っている。初代城主は織田信長・豊臣秀吉に仕えた丹羽長秀の孫にあたる丹羽光重(にわみつしげ)。
 陸奥白河藩から1643(寛永20)年に、陸奥二本松藩(10万700石の大藩)へ移封されると白旗ヶ峰山頂に築かれた「中世の山城」を利用して二本松城を造る。山麓にはよく霞がたなびく事から霞ヶ城とも呼ばれた。

<落城後、藩主10代目の丹羽長国は米沢に逃亡。カシラは逃げ足が速いナ~>


日吉の里・終章

2008-08-18 | フォトエッセイ&短歌
 戦後63回目の終戦記念日を迎えた。中国大陸内外での15年に及ぶ無益な戦争・太平洋海域での過酷な戦争などで310万の国民と2000万のアジアの民衆が戦火の犠牲になった。8月15日の終戦記念日は不戦の誓いと平和の想いを新たにする日である。
<アッシー君>と<白堂翁>の便り2題を拝借して「我々の終戦記念日」としたい。

★「風に吹かれ」拝見しています。日吉の里の戦争遺跡、思いもよりませんでした。特攻隊の無線を傍受しながらの旧日本軍司令部の手前勝手な状況判断で水上特攻を命じていたなんて。日吉慶応義塾構内のチャペルの赤い屋根、赤い十字架そして赤の夾竹桃が鮮やかに、8月15日の終戦記念日を訴えているように見えます・・。
 しかし、自分の住む町に昭和の戦争遺跡がこんなに多いとは思ってもいませんでした。そう言えば、私の住む宮前区にも国有地が広がり、各庁舎の官舎も多く、旧陸軍の厩舎が立ち並んでいたとか・・。
 日々疎くなっていく昭和の悲惨な戦争。教師現役のとき、平和の尊さを子供たちにどれだけ話し聞かせることが出来たであろうか・・?
 先日、現役の頃に指導していた美術部の合宿に帯同して小豆島に行ってきました。この島は「二十四の瞳」であまりにも有名で、映画の撮影場所が観光スポットになっていました。早速、「岬の分教場」に行って写生して来ました。木造校舎を写生しながら平和な国、日本を思わずに入られませんでした。<アッシー:写真&画>


              
<教室には「二十四の瞳」が漂っている風情です。スケッチは校舎全景>

★「終戦の日」に思い1つ…。軍事訓練にやってきた軍服姿で髭生やしたオッサンが、小学生のチッチャな手に手榴弾を握らせ、敵陣に投げろって。火薬こそ入ってないけど、重さは実物と同じ。“決死の覚悟”で投げても、2~3mが精々。「それじゃ自滅じゃないかッ!」って、しこたま怒鳴られて・・。
 今日は63回目の“終戦の日”。この年生まれた人は、既に定年退職してるんですからね。06年の総人口12、777万人の内、戦後生まれは約9、300万人。総人口の約73%の人たちが戦後生まれなんだって。
 そりゃジッと黙ってりゃ、戦禍も色あせボロボロに風化する…。ヒョットして、戦争賛美の蠢きさえ聞こえかねません。そんな危機感さえ感じる“歳”になりました。<白堂翁:句と写真も>

<『魂の鎮まり居るや法師ゼミ』。コバギボウシ:鎮魂の色に見えます >

日吉の里・番外

2008-08-16 | フォトエッセイ&短歌
 連合艦隊司令部と海軍省人事局の地下壕は慶應義塾の敷地内にあるが艦政本部(艦船や兵器など整備・準備する行政的部門)地下壕は東横線を挟んだ西側(箕輪地区)の大聖院(だいしょういん)の裏山にある。その尾根は「夕日が丘」と呼ばれ、多摩丘陵に沈む夕日が一望出来る。その残照は絶景である。
 工事は1945年1月、坪2円の強制買収、家屋の強制移転、朝鮮人労働者の酷使、掘り出した土の放置など軍部の強権で推し進められた。物資不足は軍の力でも如何ともし難く、田園調布の焼け跡から大谷石やブロックを運び込んで地下壕を固めている。完成は8月14日、全く無用な大土木工事となった。

<地下壕のある斜面は鬱蒼とした竹林で被われている。壕の見学は出来ない)

 地下壕工事の真っ最中に日吉は3回も空襲に見舞われている。機銃掃射は連日だったという。慶應義塾の校舎、箕輪地区の半数、日吉台国民学校などが焼失している。海軍の街、日吉の里は狙い撃ちにされたのである。
 大聖院本堂も丸焼けになった。境内のイチョウなども焼夷弾の直撃を受けたが、枯れることはなく、今は元気に新しい枝を伸ばして戦争を語っている。
 
<中庭のサルスベリも戦災樹木。ケロイドのような痕跡が痛々しい>

 8月13日の夜、幕僚全員を召集した小澤海軍総司令長官は無条件降伏の決定を伝えた。ある参謀は「ホッとしたと言うのが、偽らない本音である」と述懐している。8月15日の正午「村じゅうは、物音一つしなかった。寂として声なし」(宮本百合子『播州平野』)
 だが兵士達は慌ただしかった。軍関係の建造物は形が残らないまでに徹底的に破壊した。また大きな穴を掘って、数日間、帝国海軍の戦争指導を隠すために機密書類を燃やし続けたのである。これは、どこでも共通した行為である。早くも9月7日には軍令部が使用していた第一校舎にアメリカ軍が入ってきた。
 日吉の里は米軍の街になった。日吉キャンパスが総て返還され学生の街になるのは49年10月1日である。
          
 <ハウスを乗り越えて、たわわに実るミニトマトが8.15の午後の陽に輝く>

日吉の里・壊滅

2008-08-11 | フォトエッセイ&短歌
 『将兵一同、必至の体当たりの勇戦によって、敵を殲滅せよ』(豊田司令長官)と最後の大決戦に挑んだ。一発かまして何とか休戦の有利な状況をつくろうとしたフィリピン沖海戦である。しかし、時代は戦艦から航空機の時代に移り戦術をたてる事もままならず、恐ろしいほどの損害をもたらして敗北する。多くの戦史が語っている。この段階で大日本帝国は和平・休戦を決断するべきであったと!
 もはや通常の攻撃は不可能というか、まともに対峙出来ない。ここに究極の非人道的な戦術、特別攻撃(体当たり自爆)が生み出された。 
 日吉の慶應義塾構内のチャペルも海軍軍令部に貸与され、情報収集の作業場にあてられたという。

<チャペルの裏側より。老朽化した赤い屋根に夾竹桃の赤が揺れる>

 最初の神風特別攻撃隊はフィリピン沖海戦の後半で、爆弾を搭載したゼロ戦5機(敷島隊)が飛び立ったのは10月25日である。3機がセント・ロー(護衛空母)に突撃しこれが沈没、雀躍欣喜。ヤッタゼベイビーと言うわけで大和隊、山桜隊が続き、日本陸海軍の戦術は特攻隊が主流なり、3000機が飛び立ったという。
 日吉の連合艦隊司令部地下壕通信室はこの瞬間を逐一傍受していた。鹿児島県鹿屋基地から出撃した特攻機はアメリカ艦隊に接近すると信号音を出して体当たりする。ツーという信号音が突然途絶える。体当たりしたのか、撃墜されたのか…その兵士の無惨な死の瞬間を日吉の地下壕で傍受していたのである。

<耐弾式竪穴坑(竪穴式の空気坑):地下壕の空気取り入れ穴の地上部分>

 アメリカ軍は1500隻の艦艇、1000機を超える航空機、30万の兵員を投入し、沖縄の占領に向かった。日本側は防御の手立てもなく、不沈戦艦大和(ヤマト)を沖縄に突入させるという水上特攻作戦を考えた。伊藤第2艦隊司令長官は余りに無謀と了解しなかったが、「一億玉砕、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」(参謀長)に押し切られた。
 こうして、「光輝ある帝国海軍の栄光を後世に伝えんことにほかならず」と戦艦大和は上空掩護の戦闘機もないまま日吉の地下壕からの命令で出撃した。そして、1945年4月7日14時23分、鹿児島県坊の岬沖で400機による空襲を受け沈没するが、その様子が刻々と「連合艦隊司令部」に入電し、電信員は涙ながらに受信したという。これで日本海軍の水上部隊の総てが終わった。
       
<地下壕作戦室の見学。近くに地上司令部につながる126段の階段坑がある>

日吉の里・艦隊

2008-08-06 | フォトエッセイ&短歌
 連合艦隊司令部がなぜ日吉台の陸に上がったのか。「保存会」のパンフは4点を指摘している。①大本営と横須賀軍港に近い ②無線の受信感度が良好 ③空襲対処の地下壕が掘れる ④校舎・内装が頑丈で設備良好。
 1943年、御前会議で絶対防衛線の後退を決定、出陣学徒壮行会、徴兵年齢19歳に引き下げなど戦局の悪化は銃後の生活などによって実感され始めた。44年3月、海軍軍令部第2部(情報部)は慶應義塾の第一校舎(現:慶応高校)に撤退してきた。今年、慶応高校は全国高等学校選手権大会に出場を果たしたが、そのグラウンドの下の地下壕を見学する。
  
<46年振りの甲子園出場。真っ黒に日焼けした球児が甲子園に向かった>

 7月にはサイパン島守備隊が全滅すると、東京・横浜が爆撃の射程距離に入った。8月、連合艦隊司令部の旗艦の安全確保に危機感を抱いたのか、設営隊は総力を挙げて地下壕を掘り始めている。本土決戦の要項が出され、日吉台国民学校の生徒が近くの真福寺などに集団疎開させられると、海軍省功績調査部が校舎を接収して入ってきた。
 日吉の里は海軍の街に変わっていく。海軍省人事局も別の一郭に地下壕を掘り始め、更に箕輪地区には艦政本部も2400㍍の巨大地下壕を掘り進めていた。

<4月の空襲で日吉台国民学校は焼失、校庭の防空壕は戦後も見られたが>

 1944年9月29日、連合艦隊司令部は日吉:慶應義塾に移り、連合艦隊第一作戦指令所と名称を変え地上から艦隊を指揮する事になった。いわゆる「捷号作戦」である。現有戦力の八割を掻き集めて連合軍に打撃を与え、戦争終結に有利な条件をつくるというものである。
 日吉の草鹿連合艦隊留守司令部は「捷1号・捷2号作戦」を発令したのが、10月12日。結果的には惨敗し制空権・制海権を失い、艦隊の戦闘能力は事実上壊滅した。

<地下作戦室(暗号・通信室)への通路。陸に上がった海軍、次は地下に潜る>

日吉の里・戦時

2008-08-01 | フォトエッセイ&短歌
 東急東横線日吉駅からJR横浜線中山駅間を走る横浜市営地下鉄(グリーンライン)が3月に開業した。南北線の日吉駅始発も始まり日吉は横浜郊外から都心を結ぶ動脈の結節点になり、駅周辺は過密化し始めている。
 1930年代の写真を見ると多摩丘陵の山脈を縫うように東横線が走り、西口を起点に放射状の道路が整然と通じている。その幾何学模様の道路に沿ってポツポツと何棟かの家が建っている。そして、東側の切り開いた台地には白亜の城のような慶應義塾(予科)の校舎が聳え建っている。勿論、名物のキャンパスのイチョウ並木は見当たらない。
 夏の陽射しを押し返すように若者達が休暇中の閑散としたに構内を闊歩している。戦争の残酷さも戦後の飢餓とも無縁な世代である。

<構内から日吉駅を望む。イチョウ並木が酷暑をさえぎり涼を漂わせている>

 1934年に郵便局が、1936年に電話局が開設されそれがトピックになるほど日吉はド田舎であり、野ウサギの飛び交う雑木林の木を切って炭焼きなども行われていた。長閑な風景ではあったが、中国大陸では日本軍の泥沼の死闘が始まろうとしていた。大本営が設置され南京大虐殺が行われたのは37年である。
 戦時体制は日々強化され4年後には真珠湾の米軍基地を奇襲攻撃し太平洋戦争に突入。「独立自尊」の自由主義的伝統を持つ慶應義塾も軍国主義に抵抗する事が出来ず軍事教練が徹底され500人を学徒出陣で戦場に送り出した。第1校舎前で軍事教練の行進を行っているセピア色の写真が戦時体制を滲ませている。

<この第1校舎を軍令部第3部(情報部)が使用。連合軍の情報・分析をする>

 ミッドウェー海戦で日本軍が敗北した後、西太平洋の島々では玉砕戦術で抵抗した。局地戦で勝つことはあったが、基本的には負け続けこれ以上の後退は許されない「絶対国防圏」を設定して不退転の戦術をとったが、これが簡単に破られサイパン島が全滅するとB29戦闘爆撃機による本土空襲が始まる。
 1944年2月、海軍軍令部(天皇に直属する中央統帥機関:大本営)は空襲を避けるために慶應義塾に移転してきた。続いて海軍省や連合艦隊司令部までもが日吉に移転してきたのだ。校舎は兵舎となり、日吉の里は海軍の軍都の感を呈するようになっていった。

<山すそにある連合艦隊司令部(海軍総隊司令部)まむし谷地下壕入口>