年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

勿来の関

2008-07-27 | フォトエッセイ&短歌
 奈良時代「青によし奈良の都は咲く花の 匂うが如く今さかりなり」と律令国家の絶頂期が歌われていたが、東北の原住民は政府の統制に屈することなく独立していた。朝廷は彼等を蝦夷(えみし:服従しない東国の野蛮人)として恐れ支配下におこうと絶え間ない征服戦争をくりかえしていた。
 平安時代には坂上田村麻呂を征夷大将軍という特別な将軍に任命し「蝦夷征伐」を進めた。征討軍は現在の「浜通り」といわれる太平洋の沿岸に沿って北上(「海道」あるいは「東海道」と呼ばれる)したものと思われる。

<勿来の関はこの陸前浜街道の関所。アクセスは常磐自動車道のいわき市>

 勿来の関:<なこそ>(福島県いわき市)・白河の関<しらかわ>(福島県白河)・念珠関<ねんじゅ>(山形県温海温泉)は「奥州三古関」に数えられ奥州への入口とされる軍事上のバリケードであった、というのがガイドブックの解説である。
 その説明として、「勿来」とは「来ル勿(ナカ)レ(来る勿かれ)」、つまり「来るな」の意味で<蝦夷の南下を防ぐ意味>、逆に<蝦夷の地への侵入禁止を宣言する意味>をもつ関所だったとも解説されている。やがて、奥州街道の「白河の関」が重要な拠点となり、「勿来の関」は消滅していった。

<「勿来の関」の役割は終わり人々の記憶から消え去ったのだ!源義家>

 であるが…、「勿来の関」の本格的デビューはこれからである。
 平安時代から現代まで「なこそ」という言葉が持つ悲哀から歌枕として盛んに愛用され123首ほどの短歌形式の和歌に詠みこまれている。最も知られているのが『吹く風をなこその関と思へども、道もせにちる山桜かな』(八幡太郎義家)。その他、小野小町・和泉式部・西行法師などなど…、都の貴族や女官達が蝦夷の山奥を訪れる事はないから、「なこそ」の言葉の持つ想像力で歌い上げている。これに目を付けた、江戸時代の文人たちがその文学的修辞が気に入って「勿来の関」を一躍有名にしたという。
 『なこそとは 誰かはいひね しはねども 心に据うる 関とこそみれ』⇒(来ないでなんて誰が言ったのよ。貴方が心の関所を造って逢いに来ないだけでしょう。バカバカ…和泉式部)
  
<実は…勿来関の所在地は定かではない。どころか架空の関という説もある?>

神宮・森林

2008-07-22 | フォトエッセイ&短歌
 神宮の杜は木漏れ日が地に届く事もままならぬ樹海を思わせる深い緑。渋谷の喧噪も原宿の賑わいも遮断するグリーンベルトで被われている。
 造営工事が始まる90年前は桑畑や茶畑が広がっていたというから、想像も出来ない。1915(大正5)年、内務省の決定がでると、大々的な植林事業が開始された。既存の1万6000本に加え全国から9万5000本を調達、更に足りなくて3000本を追加し植えに植えまくったのだ。

<自然林の植生を見せるようになった境内の林道。クライマックスはこれから>

 明治神宮といえば大相撲横綱土俵入りで知られているが、なんと言っても初詣(はつもうで)客の参拝者数である。正月三が日の間で300万人超という驚異的な数字である。気になるのは祈願成就のお礼として投げる「賽銭箱」の中味である。銀行マンが3日掛かりで数えるというから大変な額であろう。
 平日だったのか、外国人が圧倒的でガイドさんの説明で神妙に「お賽銭」を投げ入れていた。

<決まってます!楼門脇のお二人さん。参拝形式も国際的で様々になりました>

 神宮造営局の技師は神宮林苑計画を作成した。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)に基づき科学的な植栽構想に基づき、木々を植えていった。
 多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て極相林(クライマックス)に到達するという100年の計である。手入れや肥料などはしないで自然に森が形成されることを予測したのであるとか。
 日本における近代造園学の創始とされている。

<この木何の木気になる木。長寿の木だそうです。姿形が何ともいえません>

神宮・清正

2008-07-17 | フォトエッセイ&短歌
 東京メトロの副都心線が6月14日に開業した。渋谷・新宿・池袋の三大副都心を縦断し埼玉県の郊外にまで一直線である。まだ、田畑が残る。ラインカラーの「ブラウン」が何となく納得出来る。渋谷に出た折りに一駅だけでもと「明治神宮前」まで初乗りをする。
 さすが原宿だ~ アングラ・メイクにエコ・ファッション。「無国籍若者文化」に興味津々と見とれるも、目のやり場に窮して究極の「国粋文化」に場所を移す。何てたって『明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする荘厳な神社』だもんで。
 「国粋文化」は奥が深いネ。神宮の正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神宫』なんだって。

<原宿散策待ち合わせのメッカ。竣工は大正9年でこれは2代目の神宮橋>

 神々が宿る鬱蒼と茂る樹林帯、故事由来の物語は古かろうと思ったが、歴史は新しい。
 この一帯は近江彦根藩井伊家<篤姫で話題の井伊直弼>の下屋敷であったが、明治政府はこれを没収し天皇家に献上(南豊島御料地)。そして明治天皇が神としてこの地に祀られたのが1920(大正9)年であるから、古い事ではない。
 井伊家の前は肥後熊本藩主加藤清正の屋敷であったという。加藤清正といえば豊臣秀吉の有力武将の一人。築城の名手だの、トラ退治だの、口の中に拳骨を入れる事が出来たのとエピソードに事欠かないが、ここに屋敷を構えていたのだ。屋敷の遺構として井戸と菖蒲園が残る。

<冷たい湧水を文字通りコンコンと湧き出させている。『加藤清正の井戸』>

 清正を語る時「秀吉子飼いの大名」加藤清正と小西行長と言われる。秀吉亡き後、その小西と対立し「関ヶ原の戦い」では家康側につき肥後73万石の大名に取りたてられる。
 1611(慶長16)年、清正が50歳で死んだ後、家督を継いだのが若干11歳の忠広である。
 1632(寛永9)年、忠広が江戸参府で品川宿に到着すると「江戸城下に入ること罷り成らん」と足留され、そのまま改易(領地を没収、お家断絶)の沙汰が下る。熊本城は細川氏に江戸屋敷は井伊家に譲り渡され加藤家は滅亡。改易の理由は様々に言われるが、豊臣氏恩顧の有力大名、幕府に警戒されたのではないかと言うのが通説…

<改易(かいえき):江戸時代の初期盛んに行われた大名家の取り潰し処罰>

横須賀・要塞

2008-07-11 | フォトエッセイ&短歌
 ペリー提督は来航した時に勝手に「猿島」を「ペリーアイランド」と命名したという。過激な攘夷運動の最中でも、この「ペリーアイランド」の「お台場」が火を噴くことはなかった。もちろん、日清戦争・日露戦争でも砲台は使われる事はなかった。
 外圧を受ける側から外圧をかける側になった帝国陸海軍には無用と映ったのか、1923(大正12)年の関東大震災で石垣が崩れ、兵舎が埋まる被害を機に陸軍は「猿島要塞」を放棄してしまった。それはなかろう!と海軍が譲り受け近代的な要塞に衣替えさせたという。

<ザッツザッツ!軍靴の響きがコダマして来そうな地下猿島要塞の隧道>

 「猿島要塞」が現実に砲台として機能するのはそれから約20年後である。1941(昭和16)年、太平洋戦争が開始され、「鬼畜米英の攻撃」に備え、5座の高射砲陣地にリニューアルし、本土決戦が準備されたのである。勿論「猿島」は軍事機密として一般人の立ち入りは禁止され、地図からも抹殺された事もあり、高射砲陣地の詳細は定かではない。
 終戦後、高射砲など施設は爆破され、アメリカ海軍の減磁ステーションとして接収される。

<水平線から飛び立つように飛翔してくるB29の編隊を迎える高射砲陣地>

 横須賀沖は航路が狭くなる観音崎とともに帝都防衛の最終ラインとしての重要な役割を担わされた。そのための完璧な要塞化が進められた事が遺跡からもうかがわれる。幕末から現在にまでつながる優れた戦争遺跡である。明治初期のレンガ造りの居住施設、弾薬・倉庫、指令部などが残り、美しいロマネスク様式のレンガ積みを触ってみることが出来る。風化させてならない。
  
<悲惨な戦争を物語るのには不似合いな一陣の風が吹き抜けて行く>

横須賀:猿島

2008-07-06 | フォトエッセイ&短歌
 猿島は、横須賀沖に浮かぶ東京湾唯一の自然島(無人島)で、三笠桟橋から渡船で15分。「猿」の楽園と思われるが、サルはいない。1253(建長5)年、日蓮上人が房州から鎌倉に渡る途中で嵐に遭った時に1匹の白猿が船上に現れ、この島へ導いたという…。
 それにしても、首都を臨む江戸・東京湾の入口に位置する猿島、幕末・明治・大正・昭和と歴史に翻弄されながら、やっと2006(平成18)年「エコミュージアム猿島」に落ち着き戦争遺跡の学習と憩いの島になっている。

<岸壁から東京湾を望遠する。日蓮が避難したという洞窟はこの下の方>

 実は、ぺリーの黒船騒動が起こる6年も前にアメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航し通商を求めている。危機感を抱いた幕府は猿島に砲台(お台場)を築造し外国船の入港を拒否する対策をとっている。(が攻撃の命令が出る事はなかった)
 この幕末の「猿島台場」は明治政府に引き継がれ、ヨーロッパの近代技術にもとづいた洋式砲台による海岸防備計画が進められる。そして、1884(明治17)年「猿島要塞」としてに完成した。この洋式要塞はレンガ建造物(フランス積み様式)が特徴で、レンガのアーチ造りトンネルでは日本で2番目に古く全国4件中の最大規模のものとなっている。

<猿島要塞の司令部に通じるトンネル。苔むす石垣には木漏れ陽が揺れる>

 内部施設の弾薬庫や兵舎の指令部などの小部屋は全て塞がれてしまっているが、幕末から現在に続いているところが貴重である。黒船に腰を抜かす幕府の役人、徴兵制度で掻き集められクワを銃に持ち替えた三男坊、やがて軍人勅諭の天皇の軍隊、空が暗くなるという爆撃機の編隊を迎え撃つ高射砲…それぞれの時代の兵士達がこの「猿島」を通して戦争を見てきたのだ。
  
<地下壕に差し込む陽光と軍靴で摩滅した石段に夏草が厚く茂る>

横須賀:三笠

2008-07-01 | フォトエッセイ&短歌
 アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが黒船4隻で横須賀:浦賀沖にあらわれたのは1853(嘉永6)年6月である。鎖国を国是とする幕府にとっては対応策もなくてんやわんや。ペリーが久里浜に上陸する。『陣羽織異国から来て洗い張り ほどいてみれば裏が<浦賀>大変』の大騒動となる。
 横須賀は江戸・東京を守る軍事上の拠点となった。明治以降、大日本帝国海軍の横須賀鎮守府が置かれ、軍都・軍港として近代化の光と影を背負って都市開発されてきた。
 今も「水と光と音」をテーマにした「三笠公園」となっているが、「三笠」を背景に東郷平八郎連合艦隊司令長官の威容など帝国海軍の亡霊は衰えてはいない。

<皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ…、この日露戦争の後、対外侵略は一気に進む>

 1904年2月、日露戦争が始まると「三笠」は連合艦隊旗艦としてと指揮を執りロシアのバルチック艦隊を撃破した。海軍の象徴ともなった「戦艦三笠」のその後の運命は……。
 日露戦争終結直後の1905年9月、弾薬庫の爆発(水兵の火遊びと伝えられる)で沈没してしまうとは。その後、引き上げられ現役に復帰し、第一次世界大戦などに出撃するも戦後はワシントン軍縮条約で廃艦、続く関東大震災で浸水し帝国海軍を除籍させられる。
 なお、ドラマを演じながらも太平洋戦争の敗戦を迎える。ソ連の<解体し破棄しろ>の強要を乗り切ったが、「キャバレー・トーゴー」としてアメリカ軍人の娯楽施設に早変わりするなど波瀾万丈の生涯である。

<日本海海戦:「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」とバルチック艦隊を待ち受けた>

 ポツダム宣言の受諾によって降伏した日本は連合国(アメリカ)の占領下に置かれる。横須賀港はいち早くアメリカ海軍に接収された。日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で独立を果たしたが、日米安全保障条約によって横須賀は返還されなかった。
 現在、横須賀には在日米海軍司令部・アメリカ海軍第7艦隊と海上自衛隊の基地が置かれアジア最大の戦略上の拠点となっている。
 朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、新しくはアフガン・イラク戦争の前線基地の役割も果たしている。米軍基地に蹂躙されている「美しい国・日本」である。

<「YOKOSUKA 軍港めぐり」クルージング。第7艦隊の戦艦だが詳細は不明>