年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

風薫る<7>リンゴ

2010-05-29 | フォトエッセイ&短歌

 北国はいまリンゴの花が盛りである。遠くから見ると柔らかな緑の中に白く浮き立っているが、近づくと淡いピンクが何とも清純である。とりわけほころびかけるふっくらとした蕾のピンクは透き通るようである。
 美人薄命。りんごの花の命は長くはない。満開になると花を摘む「摘花(てきか)」という作業が行われ、無惨にむしり取られてしまう。リンゴを確実に果実として実らせるために花を間引くのである。


<アダムとイブが食べた「知識の木」の実はリンゴ(禁断の木の実)とされる>

 リンゴの歴史は古く、平安時代に中国から渡来して以来「和りんご」として親しまれてきた。小さくて硬く、渋味があるとか。現在のリンゴは「西洋リンゴ」で、明治元年に北海道七飯町で栽培されたのがルーツだという。その後、青森県で病害抵抗性、食味、収量などの絶え間ない研究が進められ、品種改良が加えられ、現在迄に約8000以上の品種が栽培された。
 リンゴは自家結実性が低いので、ミツバチを500mごとに4~5群おいて交配させるのであるが、ミツバチが激減し人工授粉の対応に大わらわである。

<北国の冷夏予報とミツバチの減少で今年もりんご園は対応に追われている>

 リンゴ園の近くで目がの覚めるような屋敷の庭先が展開した。リンゴ御殿でもあろうか。北国の春は桜と梅が一緒に咲くというが、すでにその時期は終わった。若葉に混じってツツジにミズキにレンギョ、そして燃えるようなヤツデ(?)が輝いている。

<北国の春はせわしい。冬が終わると一気に初夏が訪れる>


風薫る<6>レンゲ

2010-05-25 | フォトエッセイ&短歌

 かつて東京の近郊の田んぼでも「鯉のぼり」の後にはレンゲ草が咲き乱れ蜂や蝶がウルサイほど飛び交ったものである。その、レンゲ畑の赤紫色のジュータンの中にランドセルを放り出して「道草」をしていた子供の頃が懐かしい。今どきの小学生に「道草」の意味が分かるのだろうか。
 レンゲ畑が姿を消して久しい。硫安や石灰窒素などの化学肥料に代わったこと、機械化が進みトラクターに草がからみつくこと、田植えの時期が早くなってレンゲの種ができるまで待てないこと、などによってレンゲ畑が見られなくなったという。

<レンゲ畑に出会ってホッと一息。蔵王連山のふもとの田園地帯の一景>

 実は、子供の頃、春の風物詩であるレンゲ畑は春になるとめぐってくるの自然からの贈り物と思っていたが、そうではない。稲作の肥料として9月頃に種まきをして「緑肥」として栽培することを知ったのはずっと後のことである。根に寄生した根粒菌で空気中の窒素を固定し、田にすき込むと茎葉が肥料になるということだ。「窒素」を作る生産工場ともいわれる。
 化学肥料が使われてレンゲ畑が姿を消しただけではない。田んぼや用水や溜め池にいたドジョウ・ザリガニ・タニシ・イナゴ・メダカ… どれだけの生き物が姿を消してしまったのか。


<レンゲソウ(蓮華草)。正式にはゲンゲ、ハチミツの源となる蜜源植物>

 早期栽培(早稲)が主流になってレンゲ畑どころではなくなった。田植えと言えば梅雨の雨を利用した6月中頃の農作業で日脚が長くなった10月に刈り入れしたのだが。
 何が急がせるのか、稲の早期栽培は一層はやくなり、残雪を見ながらの田植えとなっている。

<冷たい水の中で、か細い早苗(さなえ)が揺れる。水面を風が吹き抜ける>


風薫る<5>残 雪

2010-05-21 | フォトエッセイ&短歌

 北の果てからサクラ便りが届き、冬と春の鬩(せめ)ぎ合いが終わろうとしている。これからは三寒四温の言葉通り、寒暖を行ったり来たりしながら春風の吹くのを待つ。思わぬ雪となって峠道が交通止めとなってローカルニュースを彩るのもこの時期の北国の風物である。
 まだ雪に閉ざされた山頂、それから麓に向かって緑の濃淡も鮮やかなジュータンが拡がる。山麓の風景はシンプルだが見飽きる事はない。秋の錦繍(きんしゅう)に勝るとも劣らない、萌黄(もえぎ)の塗り重ねが微妙に滲んでいる。

<今年は雪が深いという、蔵王連山の残雪の峰。静寂の雰囲気がいい>

 村里から少し山に入ると道端の根雪が頑強に溶ける様子もなく、頑なに居座っている。雑木が雪の重さに悲鳴をあげているのが聞こえそうだ。忍の一事で冬の終わるのを待望していたのだ。やはり厳しい北国の冬の痕跡に圧倒される。萌える新芽は凍てつく雪の中で準備されているのだ。


<雪は凍って氷の塊になっている。木々がその氷塊の中に閉じ込められている>

 雪の重圧から解放され、何事もなかったように起ち上がった雑木林が山肌を下りてくる冷たい風に揺らいでいる。灰色の世界である。それでも枝先には堅い新芽のふくらみがうかがえる。

<やがて、銀色の産毛のような若葉が芽吹くのも近いことであろう>


風薫る<4>砲台跡

2010-05-16 | フォトエッセイ&短歌

 大河ドラマ「龍馬伝」が好調でる。太平をむさぼる鎖国の日本に蒸気船が来航。方針の定まらぬ幕府の右往左往する様子や攘夷派の対応の様子が面白く描かれている。
 外国船に対する対応は「異国船打払令」が国策だから沿岸各地に大砲を設置しなければならない。特に江戸湾の入口にある安房(千葉)と相模(神奈川)の沿岸防備は緊急を要した。相模国城ケ島の沖あいにアメリカ艦隊が姿を現わしたのは1853(嘉永6)年、小田原藩にも海防の厳命が下った。
 藩財政が赤字の中で「真鶴台場」をかわきりに、「大磯台場」「荒久台場」など五台場を突貫工事で完成させている。

<砲台のある真鶴半島先端から景勝地三ツ石を臨む。前方の島影は伊豆半島>

 小田原藩は幕府の海防掛の支援を受け、伊豆韮山の江川太郎衛門の指導を仰ぎ「真鶴御台場」を築造したが、実際に砲口から弾丸が飛び出した事は無かった。現在、その砲台跡はテンヤワンヤの歴史を語ることもなく静かに下田港に向かって台座跡を残している。
 記録によれば、台場の形は台形で、海岸に面した南面の幅が約25m、長さが約36m、北面の幅が約32mとある。岬先端の広場全体の広さとなる大がかりなものであったようだ。

<コンクリ製の砲台台座の痕跡。黒船で混乱した下田港に標準を合わせる>

 真鶴岬は1672(寛文12)年に15万本の松の苗が植えられ、大正9年には「魚つき保安林」として指定された。木陰をつくり、枯れ葉や虫が海に落ちて、魚のえさを生み魚の集まる森として注目されたのだ。昭和35年、神奈川県立真鶴半島自然公園特別地区に指定された。
 与謝野晶子の「わが立てる 真鶴崎が 二つにす 相模の海と 伊豆の白波」の歌碑がその歴史と自然を見下ろしている。


<鬱蒼と茂る魚つき保安林。松が多いが、若葉・紅葉の落葉樹も多い>


風薫る<3>綿 毛

2010-05-10 | フォトエッセイ&短歌
 濃い緑の雑草の中に黄色い花たちが散在する。生命力が強く、砂利道とか側溝の脇にも花開くタンポポである。漢名で「蒲公英」と書き、別名を「鼓草(つづみぐさ)」という。茎の両端を細かく裂くと、そり返って鼓のような形になる。その鼓の音が「タン ポンポン」と聞こえるで、タンポポの名が成立した、というのは柳田国男の説である。
 だが、ふつう見られるのは「西洋タンポポ」である。明治10年代にフランスから野菜として輸入されたタンポポが栽培されたという。ヨーロッパでは花や根を強肝、利尿、強壮などの薬用に、根を炒って、粉にしたのをコーヒーの代用にも使っていた。日本でも古くから、若葉をひたし物や和(あ)え物、花は天ぷらにして食べた。
 外来種と在来種を見分ける目印。外来種の西洋タンポポ(帰化植物)は花のすぐ真下のところがベリッとめくれてる(総苞外片)。

<花びらは花弁(かべん)。花弁の先がギザギザになっている舌状花である>

 セイヨウタンポポがカントウタンポポなど在来種を圧倒するのは、単為生殖(単独でコトを為し、受精が無くても実を着ける)というすごいワザを持っていて、花粉の受け渡しを不要とする繁殖力があるからである。
 そんな訳で、クローン的に花が終わればガンガンと果実を実らる。しかも、綿毛(冠毛)のついた実(種子)は風に乗って遠くへロマンチックな旅に出かる。そして、 四方八方に飛び散った子孫は、旅先で落ち着き、1週間ほどで新たな生命を育てることになる。

<在来タンポポは虫が花粉を運んで受粉しないと結実しないので苦戦だ>

 冬が終わり春を告げるタンポポが力強く咲き始める。「荒れ地でも、踏まれてもくじけずに花をつけるタンポポのように強く頑張るぞ」
 そんなタンポポを見ながら今日も元気にコースを回ろう。『ナイスツッ、ショット!トマリ(ホールインワン)ですネ』遼と藍の将来の姿を思い描きながら…

<ホールポストに入って静止した状態「トマリ」までの打数を競うものである>

風薫る<2>竜 門

2010-05-05 | フォトエッセイ&短歌
風薫る<2>竜 門
 5日は「こどもの日」である。昭和23年に制定され『こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日』が法定の趣旨である。「端午の節句(たんごのせっく)」などと呼ばれて日本独特のものに思えるが、世界的な国際デーの一つともなっている。
 第9回国連総会において加盟国に対して「世界こどもの日」を制定することを勧告したが、いつにするかは各国政府の判断にゆだねられた。日本ではこれを5月5日の「こどもの日」にあてた(昭和31年閣議了解)。
 ちなみに5月5日を「こどもの日」にしているのは韓国、中国は6月1日、インドは11月14日などなど。なお「世界こどもの日」は11月20日である。

<風薫る新緑に泳ぐ鯉のぼり「鯉が竜門の滝を登ると竜となって天をかける」>

 由来は中国。5月5日の「野に出て薬草をつんだり、よもぎで作った人形を戸口にかけたり、菖蒲酒を飲んだりして邪気をはらう」行事が、平安時代に貴族社会に伝わり、江戸時代に武者人形や鯉のぼりを飾る形が出来上がった。
 これが、明治時代にはいり「富国強兵」の国策とあいまって「強くたくましく、立身出世」の成長を願う子供の行事として庶民にも広く定着したという。
 由来はともあれ、五月晴れの空に風をはらんでひるがえる鯉のぼりは清々しく、心躍らせるものがある。健やかに元気に育って欲しい。

<鯉のぼりの群泳。川面に姿を映しながら川上に向かって泳ぐ様子が絶景です>

 童謡『鯉のぼり』で思い出の幼少期も懐かしい。大正2年、刊行の『尋常小学唱歌 第五学年用』が初出であるが、作詞は不詳・作曲は弘田龍太郎。2番の詩が面白い。
    ♪ 甍(いらか)の波と雲の波  重なる波の中空を
         橘かおる朝風に  高く泳ぐや  鯉のぼり
   ♪♪ 開ける広き其の口に  舟をも呑まん さま見えて
         ゆたかに振るう尾鰭(おひれ)には  物に動ぜぬ姿あり

<甍(いらか)は瓦(かわら)。橘 (たちばな)は5弁の白い花が咲き美しい>

風薫る<1>春 霞

2010-05-01 | フォトエッセイ&短歌
 霞(かすみ)の立つ季節になった。気象学的には特段の定義もなく、春に霧(きり)や靄(もや)などによって視界が悪くなり、景色がぼやけて見える情景を春霞(はるがすみ)と言う。
 大気中の水分が植物の蒸散で活発化するなどで増え、気温の低下などによって微粒子状(細かい水滴)となり景色をぼやけさせるのだという。昼と夜の気温差の大きい日に起こりやすいという事は昨今の異常気温は春霞の絶好の環境であるのかも知れない。
 風雅をテーマとする和歌の格好の題材で古くから多く春霞がうたわれている。『誰しかも とめて折りつる 春霞 立ち隠すらむ 山の桜を』(古今和歌集:紀貫之) <一体誰が探して折ってきたのだろう、春霞が隠していた山の桜を>

<山間の裾野の人家にたゆたう春霞(はるがすみ)>

 しかし、最近の春霞は中国からの「黄砂」などの微粒子によって起こる場合が多く、春霞と言えば黄砂を指していると思っている人もいるとか。当然、黄砂は微粒子状であるから鼻や喉に侵入してくる訳だ。風雅どころではない、家に帰ったらまずはガラガラポイッのうがいですね。
 気温の上昇によって紗の幕を引くように霞は晴れわたり新緑の目映い舞台があらわれる。藤の淡紫色が柔らかな緑に映える。蔓(つる)が「右巻き」に巻きつくノダフジ(野田藤)である。藤の成分には、ポリフェノールが含まれ、花粉症、メタボリックシンドロームなどの現代の生活習慣病の体質改善に有効な働きをするといわれる。

<しばし、藤棚の下で房状に垂れて咲く藤の花の独特の淡い香りを楽しんだ>

 花より団子で春霞に話を戻そう。実は『春霞』と言えば秋田の名酒。秋田県仙北郡は秋田の中でも酒造りが盛んな地域であり、そこを代表する明治7年の創業とか。銘柄は、謡曲「羽衣」の一節、「春霞たなびきにけり久方の~」から取ったという。

<霞(かすみ)は古くは酒の異名であったという。萌える若葉を肴に一献参るか>