年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

冬遠からじ<8>甲州水路

2010-12-29 | フォトエッセイ&短歌
 幅3.3メートルの猿橋、車は通れません。すでに紅葉も散り果て華やかさは無いが、師走の佇まいの中で今年も暮れようとしている。


 猿橋から下流眼下を見ると水路の「猿橋」が見える。後方の赤い橋は20号線のバイパス猿橋で中央高速道の開通で交通量はめっきり減っている。
さて、水路の「猿橋」などと勝手に呼んだが、正式には八ツ沢発電所一号水路橋である。山梨県東部の大月市には、たくさんの水力発電所が存在する。特に桂川(相模川水系)沿いには小型水力発電所が多数ある。明治45年に建設された八ツ沢発電所もその一つである。
 上流で取水された水は全長は約14kmの導水路を経て大野調整池で待機して八ツ沢発電所に達する。水路は渓谷沿いの険阻な地勢。隧道(すいどう=トンネル)と開渠(かいきょ)の連続だが、川が川を渡る水路橋という難問もある。

<桂川を水路橋で渡る歴史遺産の八ツ沢発電所一号水路橋。猿橋から眺める>

 この第一号水路橋は鉄筋コンクリート製である。今でこそ珍しくはないが、鉄筋コンクリート黎明期の明治45年の建設である。綺麗な水が勢い良く飛沫をあげて流れ去って行く。
 すでに100年が経とうとしているが、まだ現役でカクシャクと休む事なく活動している姿は感動的である。やがて大野調整池から八ツ沢発電所の水車発電機を回転させ、電気となって送電される。
 当時の最先端技術と人海戦術によって作られた14kmに及ぶ導水路は、優れた産業遺産として国の重要文化財にも指定さた。

<水は水路橋をサンサンと流れる。日本の土木建設技術の確かさを見る思いだ>

冬遠からじ<7> 甲州猿橋

2010-12-27 | フォトエッセイ&短歌
 猿橋は、桂川(相模川上流)の両岸が崖となってそそり立つ川幅の狭まった地点にある。川幅は狭いが河原からの高さがあるので橋桁を建てる事はできない。こうした条件では吊り橋を用いるのが常だが、日本にはもう一つ、刎橋(はねばし)という形式が存在した。橋脚なしで橋を渡す技術である。
 現在の橋は、基盤のコンクリート保護・鋼材の使用等安全性を考慮し、H鋼を木材で囲った桔木を用いて、昭和59年に総工費3億8千万円をかけ復元させたものである。

<水面からの高さ31メートル、長さ33メートル、幅3.3メートルある>

 猿橋の歴史は古く、7世紀頃に百済の国の志羅呼(しらこ)が、猿がつながって対岸に渡る姿を見て、これを造ったという伝説がある。「昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍ると」(廻国雑記)
 信用し難い、と言っているが、伝説としてはありそうな話しである。橋畔には猿の石造や猿王を祭る山王宮が朱の鳥居を輝かせている。

<猿王を祭る山王宮。国の名勝文化財指定されている。平成の旅人を迎える>

 『猿橋や蠅も居直る笠の上』松尾芭蕉の甲州への道中吟である。猿橋の地点は橋づくしである。渓谷が深い割りには川幅が狭いので架橋には都合が良かったのかもしれないし、道中の重要な拠点であったのかもしれない。
 歴史遺産の「猿橋」・旧道の「猿橋」・バイパスの「猿橋」・更に水路の「猿橋」となかなかの景観である。

<旧道の新猿橋から上流に…。猿橋、水路、赤色のが20号線のバイパス猿橋>

冬遠からじ<6> 甲州桂川

2010-12-23 | フォトエッセイ&短歌
 猿橋宿(さるはししゅく)は甲州街道の宿場の一つである。現在はその面影を伝えるもはないが、JR猿橋駅の先にある「猿橋一里塚」がある。
 甲州街道は江戸日本橋から武蔵国(東京都)相模国(神奈川県)甲斐国(山梨県)信濃国(長野県)を通り、下諏訪で中山道に合流する44次、約56里(約219km)の街道である。甲州が幕府の直轄地となってからは経済上、軍事上、重要な交通路となった。

<甲州街道は猿橋で桂川を渡る。見上げると橋桁の無い橋が天高く聳える>

 甲州街道は現在の国道20線に重なる街道で、山間部を縫うように連なっている。旅人泣かせの難所が待ち構える。特に相模湖の上流の桂川渓谷沿いは深い谷と屈曲した道路のために自然災害による通行止も多々あった。
 猿橋宿(大月市猿橋町)はそんな桂川渓谷沿いに出来た宿場町である。この宿場町を有名にしたのが桂川に架かる「猿橋」(さるはし)である。

<小さい橋だが歴史を感じさせるものがある。国の名勝文化財指定のなっている>

 猿橋は谷が深くて橋脚がたてられないため、1本も支柱(橋脚)を使わずに両岸から張り出した四層の「刎木(はねぎ)」によって橋を支えるている。その構造形式は、「肘(ひじ)木けた式」と呼ばれ、橋脚を使用しないで両岸より張出した四層の桔木を支点とし、上部構造を支えるものである。
 歌川広重の絵を浮世絵として売り出したというから江戸時代にはすでに名勝として話題を呼んでいたのであろう。山口県の錦帯橋(きんたいきょう)、徳島県のかずら橋と並ぶ、日本三大奇橋の一つに数えられている。

<現在では唯一の「刎橋(はねばし)」となっている。匠の技が風格を持って迫る>

冬遠からじ<5>白いばら

2010-12-18 | フォトエッセイ&短歌
 川崎市多摩区の生田緑地ばら苑は春と秋の年2回の開苑である。小田急向ヶ丘遊園が閉園された時に「園内のばら苑」の存続を求める多くの市民の声があがり、2002年に川崎市が引き継いだものだ。
 多摩丘陵の雑木林の尾根に開かれたばら苑は、緑の周囲を展望できる貴重な緑地といえる。樹林を吹き抜ける風は爽やかである。そして、バラの高貴な濃密な香りを運んでいる。530種、1700株のバラが開花するという。
              
<秋期のばら苑はすでに閉園となり、来春の開園を待つ事になる>

 ばら苑の歴史は古く、開苑は1958年にさかのぼり、当時は「東洋一のばら苑」と賞されたとガイドブックにある。四季咲き大輪種(HT・ハイブリッドティー)、四季咲き中輪種(FL・フロリバンダ)や、四季咲き小輪種(Min・ミニチュア)などが植栽されて、春秋二度の開園が生田緑地ばら苑の特徴になっているとか。エイブラハムダービー(イギリス)・ホワイトマスターピース(アメリカ)・チャールストン(フランス)・マダム ヴィオレ(日本)とか名前で圧倒されそうだ。
                  
<秋だというに見事な花を咲かせている。寒風に枯れる前の最期の勇姿か>

 白いバラといえばドイツ映画『白バラの祈り』を思い出す。反ナチ抵抗運動として、国際的に知られている白バラ抵抗運動。第二次世界大戦下のドイツ・ミュンヘンで非暴力主義による反ナチス抵抗運動をした学生たちの実話を映画化したものである。
 1942年6月「全ドイツ人への訴え」と題したナチスに対する抵抗を呼びかける1号ビラが配布された。最後の6号ビラの残りをミュンヘン大学3階の吹き抜けにばらまいて主人公ショル兄妹が逮捕されて終わる。二人と仲間たちは人民法廷(ドイツ民族裁判所)で反逆罪により有罪となり1943年2月22日、処刑された。

<ホワイトマスターピースか。純白の花弁の中を無心に密を求める虫たちの動き>

冬遠からじ<4>囲炉裏

2010-12-13 | フォトエッセイ&短歌
 浄土教では死後、阿弥陀如来(あみだにょらい)のおわす極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれ変わる(極楽往生の思想)とされる。権勢を持った貴族が極楽浄土を具現しようと盛んに阿弥陀堂を建立した。平安時代の遠い昔の事である。
 近年では「阿弥陀堂だより」が思い出される。2002年10月に封切られた小泉堯史監督の映画である。原作は芥川賞受賞作家の南木佳士の「阿弥陀堂だより」。東京の暮らしに疲れ果てた一組の夫婦(寺尾聰・樋口可南子)が、大自然の暮らしの中で再生していく姿を描いたヒューマン・ドラマ。北林谷栄扮する阿弥陀堂で暮らすウメばあさんと小百合(小西真奈美)の関係が何とも言えない。

<雪が降ると山と里の境がなくなり白一色になる。うめ婆さんも鬼籍に入る>

 高蔵寺阿弥陀堂の隣に国の重要文化財の指定を受けた旧佐藤家家屋がある。江戸時代中頃の建造物で仙台領の中核農家(本百姓)の典型と認定された。昭和47年に此の地に移築・復元された。
 東北の農家らしい重々しい造りで、太い粗削りの柱は、鳥居建てという古式の構造であり、木材の曲がりを巧妙に利用した柱や梁が目前に迫って来る。

<屋根は寄棟造りの茅葺。東北の風雪に耐えた農家らしくどっしりと重々しい>

 農家の基本的な間取りの1つである広間型三間取りの単純な構成で、土間が全体の4割を占めている。藩の禁止令により天井は設けられず、太い荒削りの柱は鳥居建てという古式の構造で、木材の曲がりを巧妙に利用している。
 間取りは、長方形の建物を4分6分に区別し、右4分は土間一室、左6分は三室の居室部で、囲炉裏(いろり)のある「ひろま」と奥に「なんど」・「なかま」二室を構えている。国重要文化財に指定されている。

<拭き込まれた板の間に障子の明かりが時間を止めてゆったりの伸びている>

冬遠からじ<3>阿弥陀堂

2010-12-09 | フォトエッセイ&短歌
 柿と冬鳥の手代木沼(てしろぎぬま)は宮城県角田市高倉字手代木沼にある。農業用ため池だったいうだけに付近には収穫の終えた田んぼが広がる。灰はカリウムを多く含み植物の生育に欠かせないため古くから肥料として利用されてきた。
 その為に収穫後の野面にはワラやモミを焼く煙が漂ったものだが、コンバインによる作業、手不足、ダイオキシンなどで煙が立ち上るような事はなくなった。灰の変わりに化学肥料を投入する。土地は涸れ細るばかりだ。

<長閑な田園地帯だが、猛暑で不良米となった農家は大きな打撃である>

 近くに819(弘仁10)年、徳一菩薩の創建と伝えられる高蔵寺がある。寺は星霜の激動で衰え、本堂は粗末な家屋で見るべきものはない。しかし、阿弥陀堂だけが災厄と修理を経て今日にいたっている。簡素な見事な阿弥陀堂が凛として時の移ろいを語っている。宮城県最古の木造建築物とされて国の重要文化財に指定されている。

<高蔵寺山門の銀杏が石畳に散って錦秋の深まりを静かに語っている>

 高蔵寺阿弥陀堂は1177(治承元)年、藤原秀衡・妻などによって建立されたものとされている。間口、奥行とも9.3mの正四方形(宝形造)で、太い円柱に支えられた構造は簡素で力強い。宇治平等院鳳凰堂等ととに日本最古の七阿弥陀堂のひとつに数えられる。
 柱が厚い茅葺き屋根と大きな棟を支え、組物は舟肘木(ふなひじき)だけである。内部の天井・虹梁の様子も、平安時代の作風をよくとどめ、堂内に安置されている本尊の木造阿弥陀如来座像も平安後期の作と推定。国の重要文化財に指定されている

<平安時代、貴族階級が浄土往生を願い阿弥陀堂建立にいそしんだ>

冬遠からじ<2>木守柿

2010-12-05 | フォトエッセイ&短歌
 人間が木の実を重要な食料として自然の恵みと共に暮らしていた時代、自然と協調しなければ生きて行けなかった。収穫の終わった木に「神に感謝、自然に感謝」の気持ちを表した。「来年もたくさん実りますように」の願いを込めて、一つだけ果実を木に取り残しておく風習があった。これが「木守り(きまもり)」である。柿なら「木守柿」、柚子なら「木守柚」。
 ある地方では野鳥のために残しておいてやるのだと云い、別の地方では旅人へのお裾分けだと云う。村人の優しい心遣いの現われにホッとする話である。
 しかし、最近は庭先や路傍の柿など顧みられる事はなくなった。飽食とグルメの時代で野趣ある柿などは話題にも上がらない。過疎の農村では人手不足で柿を収穫する労力もなく朽ち果ている。それを目当てにサルやクマが人里に出没して騒動を引き起こしている。
 もはや、木守柿は死語となっているが、俳句の季語の世界では活躍している。写真の柿も「残した」のではなく、勝手に何かのひょうしに「残ってしまった柿」でしかない。

<村人の優しさと信じたい。木守柿が泰然と秋の朱色をまとい微動だにせず>

 北よりの風が色付き始めた葉を一枚二枚と吹き飛ばして行く。初老の男たちは思わず頭に手をやって薄れゆく髪の毛に愕然しながら秋の深まりに思いを致す。
 手代木沼(てしろぎぬま)にも冬鳥が姿を見せ始めた。北から日本に飛んできて春に北へ帰って行く冬鳥。今年は気温が下がらずまだ渡り鳥の数は少ないが年の瀬ともなると200羽もの白鳥が飛来するという。冬鳥の餌になるのだろう、沼に垂れかかる柿が水面に揺れている。

<手代木沼の秋を楽しむ先着の白鳥が一羽。まだ来ぬ仲間たちを待っている>

 手代木沼(てしろぎぬま)は江戸時代に農業用ため池として築造された。現在はお役目ご免で、夏には蓮の花が一面に咲き競う、冬には渡り鳥が飛来して観光スポットの一つになっている。
 沼から上がって土手で休息するカモの群れ、真剣な表情で一点に視線をこらしている。やがて白鳥に混じって小型のマガモやコガモ、オナガガモなどが群れ飛ぶ事だろう。

<手代木沼は阿武隈川の下流、宮城県角田市の穀倉地帯の田んぼの中にある>

冬遠からじ<1>葡萄柿

2010-12-01 | フォトエッセイ&短歌
 「桃栗三年柿八年」。芽を出してから柿の実がなるまでの期間は長い。収穫されるようになればしめたものだ。「柿が赤くなると医者が青くなる」と言うことわざがあるように、豊富なビタミン類とミネラルを含み医者いらずの万能薬としても重宝された。特に冬に向かっての風邪の予防には絶対的であっる。そして二日酔いの回復には最適というのが呑んべ~にはうれしい。
 甘柿・不完全甘柿、渋柿・不完全渋柿など日本柿の種類は1000種もあるそうだがビタミン類の含有には変わりが無いようだ。

<川崎市原産の禅師丸柿。不完全甘柿で小ぶりだが種が大きく果肉が少ない>

 晩秋に向かい柿の季節である。どこの屋敷にも柿の木があって、枝ごと取った柿を束ねて市場に出荷するのである。取り損なって傷の付いた柿は自家用で食べる。農家の貴重な現金収入の果物であったし食料でもあった。戦後の食糧欠乏時代、渋の残った未熟の柿を盗み食いして怒られたっけ!バナナが高級輸入品で庶民の手の届かない頃の話である。
 現在では採る事も忘れられて、里の霜降る季節の風景として放置されたままの柿の赤が珍しくはなくなった。

<角田市の山里、柿の木の田園風景。花火もように広がった赤い実が美しい>

 屋敷に続く土手道に見事な柿の老木があるので寄ってみる。脇に大粒のブドウ状の大きさの黒い実を付けた木の実が目につく。う~ん、ハテナ。
 実物を見たことはないが、信濃柿(しなのがき)と呼ばれる、豆柿(まめがき)か。柿渋を取るために信越地方で盛んに栽培された事があった。渋柿の未熟な果実を粉砕、圧搾して出来た汁液を発酵・熟成させて得られる柿渋。用途は多種多様である。
 紙に塗って乾燥させると硬く頑丈になるため、うちわや番傘に使用、また防腐作用があるため、即身仏(ミイラ)に塗布したともある。
 
<地方によってシナノガキ、マメガキ、ブドウガキ、ビンボガキ等とよばれる>