年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

兵士のお墓-5

2007-06-24 | フォトエッセイ&短歌
你好<ニハオ>東北紀行

【♪ ぼくの父さん満州で死んだ。/わたしの兄さん満州で死んだ。/忠義な兵士のお墓の満州。/守れや、守れ、われらの権利♪ 】
 満州事変頃の愛国歌謡のひとつとして気軽にそして真面目に歌われた。日清戦争・日露戦争で多くの日本人が血を流して戦い取った満州(中国の東北地方)は日本の物だという。日本の経済を発展させる観点からも、日本の軍事的安全保障上からも「満州」を日本の支配下に置かなければならない。
 例えば、毎日新聞の社説は『満蒙生命線論』を30数回掲載し日中戦争の世論つくりを進め、「満州は日本の生命線」という思想に結実させていった。それが関東軍の軍事行動に疑問や違和感を感じさせることもなく、積極的に戦争への道を突き進む事になっていく。
「現在革命尚未成功(革命いまだならず)」孫文の間際の言葉である。中国全土は国民党と共産党、そして軍閥が絡み合って混迷の極にあった。

 
 日本は親日的な満州軍閥の張作霖を支援し、統一政権の成立を阻止し、権益を確保する方針で進めていたが、その張作霖が国民政府軍の北伐により敗退した。彼は古里の奉天への帰途に関東軍の陰謀により爆殺された。これが張作霖爆殺事件(満州某重大事件)である。そのため中国国民の反日感情は高まり、息子の張学良は国民政府の指揮下に入り抗日的傾向を強めていった。張氏師府博物館:張作霖・張学良父子の官邸兼私邸。建物の偉容から満州に覇をとなえた張氏の巨魁ぶりが伺える。


1928年末、中国では不平等条約撤廃・権益回収を要求する民族運動が高まり、国民政府は公式に満州における日本の権益回収の意向を表明した。関東軍参謀石原完爾らは1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破(柳条湖事件)し、これを中国軍の仕業として軍事行動起こした。満州事変(中国では、9.18事変)である。
 現在その柳条湖の地に「九・一八歴史博物館」が建てられ抗日戦争の歴史を語っている。
 カレンダーをかたどっている。

陽に揺れる紫陽花寺

2007-06-18 | フォトエッセイ&短歌
 梅雨前線が北上せず梅雨入り宣言が遅れるからと何もヤキモキする事はないのに大きなニュースになる。四季折々の自然の節目と一年間の暮らしを重ね合わせて生きてきた稲作文化を基調としする日本人の感性かもしれない。
 その遅れ気味の梅雨入りが叶った翌日から夏日が続き、北海道では軒並み30度を記録した。さっそく空梅雨で水不足が懸念させはじめたり、異常豪雨の警戒を心配させたりと天気予報士のコメントも大変である。天候不順の春と秋、それに梅雨時期が天気予報士受難の季節と言われ当たるも八卦・当たらぬ八卦で正解の確立を競っている。
 天気図が作成されたのが1883(明治17)年、翌年の6月1日から天気予報が発表されるようになった。6月1日が気象記念日の所以である。『全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ』こんな具合に「お雇い外国人クニッピング」が出して日本人が訳したとか。


 梅雨といえばアジサイ(紫陽花)。しとしと降る雨の中で水滴を葉に転がしながら幽かに揺れ動く容姿は艶やかである。日本の青酸色のガクアジサイが原種で一度ヨーロッパに渡って華麗な西洋アジサイとなって再上陸したという事だ。
 とにかくアジサイ寺を訪ねてみよう。鎌倉の明月院が有名だが、拝観料の割には紫陽花の株より頭数が多く風情も静寂もなく不人気。
 近場のアジサイ寺に決める。多摩川を眼下に見下ろす長尾丘陵の一角にある天台宗妙楽寺、長尾の里のアジサイ寺として親しまれている。
 寺宝の木造薬師如来両脇侍像(やくしによらいりょうわきじぞう)(市重要歴史記念物)の修理のさい、日光菩薩像の胎内から天文14年(1545)の紀年と、「武州立花郡太田郷長尾山 威光寺(吾妻鏡に登場する源家累代の祈祷所(きとうじょ)」から威光寺の一坊であったとも推定される。


 アジサイは夏日の陽光に七変化の面影もなく些かくたびれた風情で揺らいでいた。青、白、ピンク、紫、赤に緑……花の色は土壌によって移りけりな。土壌が酸性だと青くなり、アルカリ性だと赤くなる。花言葉は「移り気」とか          <妙楽寺:JR南武線久地駅より 徒歩20分>
       

皇帝ホンタイジ-4

2007-06-13 | フォトエッセイ&短歌
你好<ニハオ>東北紀行
 今回の満鉄の旅<満州>は遼寧(りょうねい)省・吉林(きつりん)省・黒竜江(こくりゅうこう)省の東北3省を貫く旅である。瀋陽(しんよう)は遼寧省の省都で東北3省の最大の都市(日本統治時代の奉天:ほうてん)である。政治・経済の拠点都市であるとともに国家歴史文化名城に指定される観光都市でもある。30の民族が生活しているので文化の多様性もさることながら清王朝発祥の地で歴史遺産も豊富である。
 明朝の末期、女真族のヌルハチが周辺部族を統率し中国北部に進出し金朝を立てる。その子ホンタイジは満州を支配下に治め朝鮮の李氏を服属させと国号を「清」(1616~1911)と改め都をこの盛京(瀋陽)に置き皇帝の位についた。1644年、首都を北京に移す。

 瀋陽故宮(しんようこきゅう)はヌルハチとホンタイジの皇居で建築様式は漢民族、満州民族、蒙古民族の様式が融合していると言われ2004年に世界文化遺産に登録された。
 後に都を北京に移し大清帝国を築く。広大な領土にかくも長期にわたって平和が続き、文化が栄えた事は世界史上も珍しいとされ、文化大革命にも破戒を免れ整備・保存が継続している。故宮鳳凰楼に50mはある横断幕が遠慮もなく廻らされているのがいかにも中国的だ。


「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」というが、どうも名前だけではおさまらない。清朝初代皇帝ホンタイジの陵墓も330万㎡、正門から墓所までとても歩ききれないので専用カートが走り回っている。造営期間は1643~1651の8年間、1949年の中華人民共和国成立後も整備が続けられている。建物の後方の丸いのが墓の本体である。



石造彫刻が施された見事な正門。地震が無いので石造建築物の倒壊の心配が無いとか…

アカシアの街-3

2007-06-08 | フォトエッセイ&短歌
你好<ニハオ>東北紀行
 大連市、中華人民共和国遼寧省の南部に位置する特別級市。改革開放政策のモデルとして1984年に経済技術開発区に指定され中国最大の石油輸入港として爆発的な経済成長を示している。日本企業(3200社以上)・韓国企業の進出が著しい。渋滞する幅100mもある道路の中をバスが車体全面にコテコテの広告を塗りたくって警笛を鳴らしながら割り込み割り込まれガンガンと動き回っている。今や道路1杯の自転車の洪水は過去のものである。

 1970(昭和45)年に清岡卓行は『アカシヤの大連』で芥川賞を受賞した。彼は大連で生まれ敗戦までを過ごす。大連という複雑な歴史の積み重なりと澄明な風土的な空間性のなかでその感受性を育んだという。大連をモチーフにした多くの作品がある。
 『アカシヤの大連』の冒頭はこんな書き出しではじまっている。
「かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。…… 」


      

 快晴には恵まれなくて大陸の地平線まで続く青空を見ることはなかった、がどうも天候のせいばかりではなさそうだ。最近、指摘されている「排気ガス公害」によって都市の空はドンヨリとして夕方ともなると高層ビルはそのスモッグの中に姿を消している。STOP地球温暖化にとっても中国にとっても排気ガス規制は喫緊な重大な問題である。



 「小皇帝」:中国の「一人っ子政策」は徹底していて事実上2人の子供を持つことはできない。したがって「一人っ子」を一族挙げて育て上げる。溺愛・学歴何でもありの皇帝のような子育てとなる。「小さな皇帝」である。母親がビデオを構え父親が写真の舞台に娘を誘う。ロシア・日本統治時代の黄海に面した大リゾート地であった星海公園。イルカに乗る人形のモミュメントがまぶしい。

満鉄旧址-2

2007-06-04 | フォトエッセイ&短歌
你好<ニハオ>東北紀行
 1898年、帝政ロシアは崩壊寸前の清朝に迫って遼東半島の租借権を得て南下政策の拠点にした。今に残るロシア風建物やロシア人街がその遺構である。その後、日露戦争を経て1905年から45年まで日本の直接統治が続いた。その時代の遺構が天を貫くビル街の中で現在もキチンと使われている。宿泊所となったヤマトホテルはもとよりバロック様式の中国銀行大連分行・ゴシック建築の遼寧省貿易庁など日本統治の記念物である。

 日本の満州支配の象徴である南満州鉄道株式会社の本社屋(大連クラシック建築を代表する頑強で壮麗な石像建築)。初代総裁は台湾長官の後藤新平である。明治維新からの対外膨張を国是とした日本の近現代史が蘇って来る。





 市民の足になっている路面電車の敷設もまた当時のもので1世紀も経過した現在日本から出かけていって乗ろうとは何とも複雑思いである。


 大連は広場の街といわれがこの広場は最も美しいといわれるものである。
 ロシア時代は「ニコラヤフ広場」→日本時代は「大広場」→戦後は「中山広場」と広場の名称も変転する。鶏毛鍵(けいもうけん:中国版けまり→大きな羽を足で蹴り回す)に興ずる若者たち。細いジーンズにヘソだしルックは普通のファッションでもある。大連の経済開放政策は一挙に進んでいる。