年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

芝切通:時の鐘

2009-01-27 | フォトエッセイ&短歌
 米将軍のあだ名がついた8代将軍吉宗の頃の江戸の人口は100万人超(武士階級の人口が約50万、農工商の庶民も約50万)を越え、パリ・ロンドンをしのぎ世界最大の都市となった。市街地は拡大するが、それでも「時の鐘」は全域に響き時刻を告げたという。公認「時の鐘」が12ケ所というが、実際はどの程度あったのか不明であるし、当時の「時の鐘」は皆無である。
 芝切通しの「時の鐘」も有名ではあったが跡形もない。記録によれば、1674(延宝2)年に増上寺の外境内の「切通し」。現在の芝公園3ー1から左の坂を上り、正則学院の前を通り、円光寺のところで坂を下るコの字形の部分であるいう。

<東京都の人口は約1290万人。「時の鐘」を足元に見下ろす東京タワー>

 梵鐘の由来も伝えられているが行方不明である。芝増上寺大梵鐘の余材で芝切通しの鐘を鋳造した。増上寺の鐘は四代将軍家綱の命により、金塊を入れると響きが良くなるとかで、奥方のかんざしなどを供出させて関東一の大梵鐘が造られた。
 「時の鐘」の請負人は御霊屋籐右衛門、維持運営費として鐘撞料を徴収できる御朱引き(管轄地域)が指定される。場所柄、町人より武家が割高に出資する通達も出され、各大名家や旗本も同意し「鐘の音」代を支払ったという。

<「江戸七分 ほどは聞こえる 芝の鐘」 重量:15トンという堂々たる鐘>

 芝浜対岸の木更津まで響いたといわれ江戸庶民に親しまれていたようだ。「今鳴るは 芝か上野か 浅草か」と詠われている。
 「今鳴る鐘は切通しの七ツ」は「め組の喧嘩」辰五郎のセリフ、♪お江戸 日本橋 七ツ立ちは童謡。江戸時代、「時の鐘」の原則は、日の出を「明け六ツ」日没を「暮六つ」と決め, その間を6等分ずつして一刻(いっとき)とする(1日は12刻)。したがって「7ッ」はだいたい午後4時・午前4時を指している。旅人は足許も暗い早朝4時、振り分け荷物を肩に日本橋を旅立ったのである。

<水子地蔵の風車は永久の時を刻んでいるが、「時の鐘」はこれにて終了です>


浅草寺:時の鐘

2009-01-22 | フォトエッセイ&短歌
 浅草寺と言えば雷門と仲見世と観音様。平日といえども参拝・観光客は絶える事はなく、年間3000万人~4000万人で(自称)日本一と豪語している。韓国に中国、アメリカにブラジルと日本の下町もいまや人力車の行き交う国際的ダウンタウン。
 しかし、その歴史は古く飛鳥時代の推古天皇の頃に遡る。江戸浦(隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網に一躰の仏像が引っかかり、それを祀った。それから約1300年、様々な栄枯盛衰を繰り返しながら都内最古の寺院として今に至る。

<無病息災の霊験あらたかな煙です。本当にA香港型だろうと退散させそう>

 庶民の生活に根付いたのは江戸時代。徳川幕府の祈願所とされ堂塔の威容が整い、江戸文化の中心として、大きく繁栄してからである。
 浅草寺・弁天山の「時の鐘」は、1692年に五代将軍徳川綱吉の命により造られた。鐘の大きさは龍頭、鐘身あわせて総高2.12m、直径1.52m。1945年の東京空襲で戦火を浴びるが梵鐘だけは奇跡的に助かり、1950年に鐘楼が再建され毎日午前六時、「時の鐘」は正確に時報を告げている。深川の小名木川の畔で松尾芭蕉が聴いた「花の雲 鐘は上野か浅草か」の響きは今も健在であった。

<神社仏閣に関するもので無いものナシの浅草寺。時の鐘もその一つ>

 余りに定番ですが、シンボルとなっている浅草寺の総門(雷門)は942(天慶5)年、武蔵守に任命された、平公雅(たいらのきんまさ)がお礼に寄進したという。左右の「雷神」「風神」は鎌倉時代。連鼓を打つ雷神と風袋を担いで天空を駆ける風神は、「風雨順時」(自然が穏やかであること)を意味し、「天下泰平」・「五穀豊穣」・「伽藍守護」を祈願するものだ。
 従って、正確には「風雷神門」なのに……、そこで江戸川柳「門の名で見りゃ風神は居候」。実はこの雷門、江戸後期に火事で焼失し、1960年1世紀ぶりに再建された昭和生まれでる。

<とびきり大きな風雷神門の「提灯」。三社祭で御輿が通る時には撤去される>


不忍池:時の鐘

2009-01-17 | フォトエッセイ&短歌
 江戸にどの位の「時の鐘」があったのかは不明であるが、公認されていた有名なものに日本橋、浅草寺、本所横川町、上野、芝切通、市谷八幡、目白不動、赤坂田町成満寺、四谷天竜寺の9ケ所があげられている。
 松尾芭蕉は1687(貞享4)年には深川の芭蕉庵で暮らしていたが、「時の鐘」の響きに触発されて「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠った。花は桜を指すのだろうか、だとすれば満開の桜咲く昼下がり、眠りを誘うように鐘の音が響いてくる。この鐘は寛永寺か浅草寺かどちらの音であろうか……。

<上野寛永寺の鐘は寛文6年に設置、上野精養軒左側の小高いところにある>

 一刻(約2時間)毎に時刻を告げる時鐘は現在の23区をほぼ網羅したのではないかといわれている。江戸市民は日常生活で時間に迷うことはなかったのだ。
 遠くまで聞こえるように「時の鐘」は小高い丘に設置される。寛永寺の鐘も上野台地の突端にあり、眼下の不忍池(しのばずのいけ)を越え対岸の本郷台地にも響いていた。海岸線が後退してできた海跡湖の名残(なごり)でササ・カヤ・ススキが被い茂って「忍ぶことができなった」ので不忍池の地名が付いたとか。寛永年間に池の整備が進み、琵琶湖になぞられて弁天島が造られた。
 島が造られ弁財天が祀られると土地がら長寿・福徳の神として人気を集めた。

<冬枯れのアシにそよぐ弁天堂。弁財天は音曲の神様で舞踊関係者も多い>

 風情のある「時の鐘」で最も人気のあるのが、この寛永寺の鐘楼である。今でも朝夕の6時と正午には往時そのままの鐘の音を鳴り響かせる。 平成8年に環境庁の「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。<アア、ツマンネ~>鳥たちは大欠伸。
 ♪夕焼け 小焼けで 日が暮れて お手てつないで みな帰ろう♪ 夕暮れの中で鐘を聴きながら、一日が終われるような子供たちの環境を整えられないものだろうか。
 
<トリたちは大アクビをしているが、山のお寺の 鐘がなるの世界である>

牢屋敷:時の鐘

2009-01-12 | フォトエッセイ&短歌
 江戸城にはかなり正確な「和時計」があったが、江戸八百八町の町民は鐘の音で時刻を知った。その鐘を「時の鐘」という。地下鉄日比谷線の小伝馬町駅の近くに十思(じっし)公園があるが、その一隅に「日本橋石町の鐘」とよばれた、幕府公認の「時の鐘」がある。
 江戸城、西の丸にあったが「御座の近くで差し障りある」と、日本橋本石町に移された。
 鐘撞役の辻源七さんは手数料として鐘の音が届く範囲の町民から1ヶ月永楽銭1文を集める権利が保証された。受益者負担である。いまでも除夜の鐘として現役である。

<火事や再建でこんな安普請の安直な鐘楼になった。文化財軽視都政である>

 この十思公園は江戸時代の伝馬町牢屋敷(でんまちょうろうやしき)の一帯である。江戸時代最大の牢屋敷で大牢、拷問蔵、穿鑿所、死罪場、試し切り場などないものナシである。
 刑場の露と消える刑の執行は「石町の時の鐘」を合図に執行される。処刑日には鐘ツキが慈悲心からか鐘を遅らせので「情けの鐘」ともよばれた。井伊直弼の画策した安政の大獄で「情けの鐘」を聴いて斬殺された吉田松陰の「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置かまし 大和魂」の辞世の碑が恨めしそうに鐘を見上げている。

<安政6年10月27日、この地で処刑される。「吉田松蔭先生終焉の碑」>

 牢屋敷が廃止されたのは明治8年。この間、死罪場で斬殺された者、獄死した者、拷問で憤死した者など10万人を越えたという。その為に祟りを恐れて土地の買い手もなく跡地は荒廃した。
 そこで、明治の財界の大物、大倉喜八郎と安田善次郎が入札し、大安楽寺(だいあんらくじ)を建立寄進し、霊を慰めたという。だから「大」「安」楽寺なのである。今、大倉財閥はホテルオークラ、安田財閥は安田生命・東大の安田講堂などの名称で残っている。

<大安楽寺本堂脇に処刑された人々を供養する延命地蔵尊が祀られている>

お稲荷さんの威力

2009-01-07 | フォトエッセイ&短歌
 八百万の神(やおよろずのかみ)とはよく云ったもので多士済々だ。お稲荷様で親しまれる稲荷大明神(いなりだいみょうじん)も日本古来の神様の1ジャンルで、伏見稲荷・豊川稲荷・祐徳稲荷を日本三大稲荷としているが定かではない。
 故事来歴に至っては定説もない。本来は穀物・農業の神とされ、稲を荷のように架けて乾燥させる、稲荷木(とうかぎ)、稲架掛け(はさかけ)が語源という説が多い。稲荷鳥居(いなりとりい)や複数の鳥居を連ね稲への感謝や豊作祈願を表しているともいう。

<稲荷鳥居に絡まる見事な注連縄(しめなわ)は新丸子の伏見稲荷大明神>

 農業神であった稲の神(稲荷神)は中世以降に商工業が盛んになると工業神・商業神など商売繁盛の神ともなる。その後も屋敷神・同族神として一族一家を束ねる神として広く信仰されるようになる。それは神仏混淆の過程で稲荷様は仏教を守る守護神であるという福徳開運の万能の神になったからである。
 江戸時代、江戸に多い物として「火事 喧嘩 伊勢屋 稲荷に犬の糞」というはやり言葉にうたわれて「流行神(はやりがみ)」とも呼ばれた事もあったほどだ。全国にお稲荷様は約四万ケ所といわれる。そう言えば、寺の一隅や会社のビルの屋上などにもお稲荷様が祀られている。

<初詣で賑わう境内には護摩火焚きの炎が立ちる。災厄退散・至福招来!>

 お稲荷さんと言えば狐である。しかし、「いなり」と「きつね」との関係も全く分からない。守護神(ダキニ天というインドの神)が白キツネに乗っていたという、「神の使」説もあるが根拠はない。
 稲荷神には神酒・赤飯の他に狐の好物とされる油揚げが供えられ、その油揚げを使った料理を「いなりずし」とよんで親しまれている。稲荷大明神は何とも不思議な神である。

<稲荷鳥居をくぐり抜けるとそこは金キツネ・銀キツネ・白キツネの楽園である>

冥途の一里塚

2009-01-02 | フォトエッセイ&短歌
 何となく期待の膨らむ新しい年が始まった。経済の混迷、政治の停滞、文化の混沌など閉塞感が現実となって生活の足元を掬いはじめた昨年を何とかしたいという願いの表れでもあろうか。
 「犬も歩けばボウに当たる」かも知れない。ポカポカ陽気に誘われて初詣(初参り)に出かける。指折り数えて待った子供の頃の正月の風景は何一つ見つける事はできない。羽根つき?独楽まわし?カルタ?それってなんだ!
 景気低迷で門松もリストラの憂き目、「必殺仕置き人」が一刀両断で断ち切った見事な竹を使った威風堂々の「門松」や「注連飾り」は姿を消している。玄関の辺りに申し訳程度に立てられていたり、ドアにペッタンコされている。気は心、形式的とはいえ排さないのがいい。

<竜宿山西明寺:賽銭は少ないが満願成就を。気合いを入れて詣るとしよう>

 門松は年神が宿るための依代(よりしろ)である。年神が門松に宿り至福の幸をもたらすのでのであるが、お迎えしないと不幸を招くことになる。だから正月の年神祭りは重要な儀式で、すでに平安時代から門松は欠かすことが出来ないめでたい飾り物となっていた。
 一休さんの歌に『門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし』とあるが、複雑な思いで新年を迎える高齢者も少なくはない。

<山門には見事な門松。冥途への旅の一里塚をまた一つ超えてしまった>

 大晦日の賑わいや気ぜわしさも、紅白歌合戦が終わり除夜の鐘が鳴り終わると長閑な初春となる。一年の無事と平安を祈りに出かける。神宮でも八幡宮でも大師でも観音様でも七福神でも地蔵様でも大仏様でも不動様でも何でも良いと言うのが面白い。
 「御利益」に格差はなく神仏はみなあまねく平等だと云うことだ。ワーキングプア、押さえがたい貧困の格差が社会のあるべき姿を壊してしまっている。

<108の大健闘を響かせた鐘楼も穏やかな初陽のなかで憩っている>