年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

梅雨明け<2>清純な

2010-07-28 | フォトエッセイ&短歌
 『列島 暦どおり 大暑』今日も酷暑の記事が続く。~23日は1年で最も暑い時期とされる24節気の大暑。日本列島は勢力の強い太平洋高気圧に覆われ連日、記録的な猛暑に見舞われた~
 そうか、それじゃ、暑いわけだ。なんて頭で納得はするものの吹き出る汗に閉口し冷房に身を寄せる。しかし、待てよ。こんなに冷房漬で身体に良いわけないぞ。熱中症を恐れず外に出るべきか。何か様にならない、どうでもいい悩み事に、重い腰を浮かす。
 ハス(蓮・LOTUS)の花言葉は「清純な心」「純潔」「雄弁」「優しさ」だそうだ。納得の花の容姿である。

<蓮は泥沼に生じ清浄な花を開く。五濁悪世の我々衆生の姿を現すとか>

 蓮で連想されるのが寺・本堂・仏様・極楽地獄である。子供の頃、そういう仏画の世界を体験してそのまま留まっているのである。極楽浄土は蓮の池で、大輪の蓮の花が咲き誇り、天女が舞い山海の珍味並ぶ永久の桃源郷…そんな話だったかな。「一蓮托生」という言葉の語源になっているとか。
 それから、仏陀は誕生して間もなく蓮の花に立ち「天上天下唯我独尊」と第一声をあげた話になる。インドの国花で、インドではもっとも神聖な花で蓮華が仏さまの教えそのもののシンボルとなっている。
 花の中心部に特徴があり花托(かたく)が、蜂の巣に似ていることから「はち巣」となり「はす」とよばれるようになったとか。

<果実(種子)は中国や台湾では漢方薬として、鎮静、滋養強壮薬に使用される>

 連日のこの暑さで、立ち枯れの冬の蓮に想いが届く。寒そうにうずくまるカモの孤愁が懐かしい。花托(かたくの形も色も蜂の巣、そのものです。

梅雨明け<1>道遠く

2010-07-23 | フォトエッセイ&短歌
 梅雨明けと共に猛暑襲来となった。ヒト一人殺されれば大騒ぎとなり、事件となる昨今であるが、暑さのために連日2人、3人と熱中症で死亡していく。21日には気温30度以上の真夏日地点が全国の観測地点の7割676ケ所。35度以上の猛暑日も連日である。群馬県の館林では38.9度を記録した。こうなれば野次馬根性でどこまで記録が伸びるか、そんな秘かな楽しみもある。早速です。岐阜県の多治見で39.4度を記録した。
 猛暑もなんのその、この炎天下こそ我らの世界と白球を追う球児たちには拍手です。スリバチ形のグラウンドの底でさぞかし暑つかろうと聞いたら、暑さは感じないとの事。コンクリートの階段状スタンドでジッと観戦している方がよっぽど暑いんだそうだ。

<地方大会は今がたけなわ、等々力球場に足を運んで酷暑の夏を実感です>

 神奈川県では参加出場校は186校。正式には第92回全国高等学校野球選手権神奈川大会で優勝すれば甲子園で行われる全国大会に出場出来る。それにしても1/186校とは気が遠くなる道程である。遙かなる甲子園への道!
 強豪と言われる優勝候補のプロ顔負けの力と技と作戦を駆使する試合には手に汗を握る。しかし、一回戦二回戦でコールド負けする弱小野球部の懸命な姿にこそ地方大会の感動もある。

<応援団やチアガール、ブラスバンドや父母会もスタンドを湧かせる>

 梅雨明けで若葉の緑が濃くなり始めている。緑陰が増え小枝が揺れ風が起こる。猛暑も防げる。実はこの単純な事が猛暑の日本列島を救うのだという。
 気象庁の調査によるとこの暑さは地球温暖化だけでなく都市化によるヒートアイランド効果によるものだという。東京都市部ではこの100年間で3度も平均気温が上昇している。
緑地を確保して緑を回復することで真夏日は半減する。

<球場の周囲にはケヤキ並木が続く。その緑陰に憩うハトが夏空に映っている>

隅田川<31>小名木川

2010-07-18 | フォトエッセイ&短歌
 清澄庭園正門の前方の清澄橋通りを横断して200mほど進むと小名木川にぶつかる。地図でみると隅田川と荒川を直線で結ぶ5km弱の川である。
 徳川家康が江戸入府後まもなく小名木四郎兵衛に命令して開削させた運河だ。行徳(ぎょうとく:千葉県市川市)の塩を舟で江戸に搬入する目的の堀。巨大な消費都市となった江戸への物資搬入にも活躍し運河は拡大整備・改修も進んだ。その結果、利根川、江戸川を経て江戸へ物資を運ぶ航路が拓かれ、近郊の農村で採れた野菜、地方の酒、東北地方の米などを江戸に運ぶ大動脈となった。

<西深川橋辺り。干鰮商人の蔵が軒を連ねていた干鰮の荷揚場だったか>

 江戸時代も中頃になると貨幣経済が発達し、米(年貢)だけつくっていればよいという時代ではなくなった。商品作物(売って現金を得る農作物:綿・茶・麻)の栽培が盛んになった。そのためには有効な肥料が必要である。当時の優良肥料は干鰯(ほしか=イワシを天日で干し固めた肥料)である。千葉方面で大量にとれた鰯(イワシ)を干しあげ,小名木川を使って江戸に送り,干鰮場で荷揚され各地に運ばれたという。
 その干鰮場跡が清澄橋通りの白河小学校校門にあるというので訪ねたが、見つからない。白河小学校は生徒の減少で平成13年度をもって廃校となっていたのだ。現在はK.インターナショナルスクール東京(KIST)となって各国の子弟のスクールとなっていたのだ

<インターナショナルスクールの門前に江戸の干鰮場跡の碑が時代を語る>

 江戸時代、江戸の西側の守りが箱根の山であったのに対し、東の玄関口として、水の関所というべき役割を果たしたのが、中川船番所である。
 そのために小名木川の入口には船番所が置かれ、箱根の関所と同様「入り鉄砲・出女」の監視にあたると共に米・塩・酒など物資の出入りの管理もした。

<小名木川の高橋から水門を見る。水門を出ると隅田川で日本橋に繋がる>

隅田川<30>弥太郎

2010-07-13 | フォトエッセイ&短歌
 三大財閥といえば三井、住友、三菱である。三井、住友は300年以上の歴史を持つ旧家であるが、三菱は岩崎弥太郎が幕末・明治期の動乱期に政商として、巨万の利益を得てその礎を築いた新興財閥である。
 弥太郎の最初のボロ儲けがフルっている。明治政府は大名の藩札を禁止して紙幣貨幣を全国統一することにした。この情報を新政府の高官となった後藤象二郎から手に入れた弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を手当たりしだい買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を上げたのである。
 日本の最初の植民地、台湾出兵(明治7年)・西南戦争(明治10年)に際して軍事輸送を請け負って三菱商会を不動のものとした。政商・岩崎弥太郎の誕生である。

<海運業の岩崎が全国の名石を集め園内に配置。佐渡赤玉石・御影石等々>

 大正天皇の葬儀に用いた葬場殿を移築し大正記念館としたが、戦災で焼失。平成元年に全面リニュアールされたとある。

<星を祭る行事。七夕飾りで色紙や短冊がカラフルに飾られた大正記念館>

 涼しげに池面に立つ涼亭(りょうてい)は明治42年、国賓として来日したイギリスのキッチナー元帥を迎えるために建てられた。この時、三菱財閥はすでに2代目・弥之助も亡くなって三代目の岩崎久弥(岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長男)が社長となっていた。
 インド軍司令官キッチナー将軍(元帥)はイギリス国王エドワード七世の名代とし日英同盟の絆を深める目的で来日し、宇都宮で行われた陸軍大演習を視察している。日本が日英同盟を背景に日露戦争に勝利し、帝国主義を確立期していく時期である。

<日本情緒豊かな数寄屋造りでキッチナー将軍は何を語ったのであろうか>

隅田川<29>清澄庭園

2010-07-08 | フォトエッセイ&短歌
 清澄橋東詰の前方に清澄公園がある。公園を横切ったところが東京都指定名勝に指定されている都立「清澄庭園(きよすみていえん)」。広い池に三つの中島を配し、数寄屋造りの建物、水面に小島、木々の影を映す庭園となっている。
 言い伝えでは、江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡だったとか。1669年(寛文年間)、下総国(しもうさのくに)関宿藩(せきやどはん)藩主・大和守:久世広之(ひろゆき)の下屋敷となってから庭園が築かれたのではないか推定されている。
 明治維新の混乱期を経て、この荒廃していた屋敷地を買い取ったのが岩崎弥太郎である。
                
<清澄庭園は池を中心にした涼しげな回遊式築山林泉庭園である>

 岩崎弥太郎といえば、好調のNHK大河ドラマ『龍馬伝』のナレータ役を勤めている。香川照之演ずる岩崎弥太郎の視点から描かれているので「福山龍馬」に新たな魅力をもたらして人気をよんでいる。
 岩崎弥太郎の貧窮の貧で地を舐めるように生きる地下浪人の描き方に「香川弥太郎」ファンから、ひどすぎの声も上がっているとか。しばし、待たれよ。三菱財閥の礎を築く屈指の経済・実業家に成長するのも、後数ヶ月であろう。
 岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取ったのが、明治11年。社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園の大改修を行って「深川親睦園」として竣工させたのが、明治13年だ。

<池の端に石を飛び飛びに置き、水辺を散策出来るような造作を磯渡りという>

 岩崎弥太郎には16才も歳の離れた弟・岩崎弥之助がいる。間引きする予定だったが、弥太郎の願いで世に生き延びたという伝承の人物だ。後に、ドラマでは土佐勤王党の武市半平太を弾圧している後藤象二郎の娘・早苗を妻にしている。
 明治18年、兄・弥太郎の死後、三菱の社長の座を継いだ弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、明治24年に回遊式築山林泉庭園として完成させた。

<亀は万年とか、弥太郎の栄達を見ていたのか。のんびり甲羅干しをする大亀>

隅田川<28>清澄橋

2010-07-04 | フォトエッセイ&短歌
 隅田川大橋を渡って江東区側の「隅田川テラス」に出る。対岸に20階の高級賃貸マンションリバーサイド読売ビルが聳えている。お値段は… 聞いても手が出ないし関係ないか。中央の吹き抜けは風の通り道か、斬新なデザインのようでもあるが野暮な感じもする。
 水質汚染で問題になった隅田川も何とか回復し、異臭が漂う事もなく船艇が行き交っている。江戸から明治にかけて、隅田川(本名は荒川)は、密集した下町を貫いて海に注ぎ、大川と呼ばれ、白魚がすむほどだったとあるが、すっかり様相を変えている。

<この地点、高速道・一般道路・舟の航行・更に地下には鉄半蔵門線が通る>

 読売ビルから川上に300mの地点が清洲橋(きよすばし)の袂で、勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財に指定された能書のガイド版ある。関東大震災の震災復興事業の象徴とかで「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインの橋であるという、素人には分からない。当時世界で最も美しい橋と呼ばれたドイツのケルン市にあった大吊り橋をモデルにしたとある。

<当時の最先端技術による昭和初期を代表する吊橋として重要文化財に指定>


 1630年頃、江戸幕府が始まった頃、この辺りは沼地だったが、幕府の土地開発の方針もあって開拓が進められた。清住弥兵衛も開拓者の一人で「弥兵衛町」と呼ばれ、年貢も免除されたという。それから約400年近くが経とうとしている。
 明治6年には、深川佐賀町の青木安兵衛が東京府知事の許可を得て始めた「中州の渡し」も昭和3年、清洲橋の完成でその幕を閉じた。清洲橋(きよすばし)の名は建設当時の両岸の町名であった、深川区「清」住町と日本橋区中「洲」町からとられたいう。

<「中州の渡し」の渡船場も廃止され、川面の風を受けながら散歩がてらに>