年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

朱塗りの御門:東大

2009-05-20 | フォトエッセイ&短歌
 赤門といえば東京大学。歴史的には旧加賀屋敷御守殿門(東京大学赤門)と呼ばれるように加賀百万石といわれた前田家の屋敷の門である。
 1827(文政10)年、加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)は、11代将軍徳川家斉(いえなり)の娘溶姫(やすひめ)を正室に迎えた。このように、大名が将軍家から迎えた妻を御守殿(ごしゅでん)と敬称し、朱塗りの門を創建するのが慣例であった。

<御守殿門を赤門と称するゆえんである。明治10年、東京大学に移管される>

 将軍:家斉の正妻は薩摩藩の島津重豪(しげひで)の娘寔子(ただこ)であるが、その他に側室・侍妾60人という豪腕である。生ました子女の数も50人以上というから、マア常識ではとても考えられない。
 問題はこの子供たちの落ち着き先を見つける事である。なんと言っても将軍の御落胤だからツマラナイ処にくれる訳にはいかない。由緒正しい大名家への押し付けや養子、政略結婚など婚活は困難を極めたが、水野忠成が奮闘して「永久就職先」をさばいた功績で将軍の信任を得て権勢をふるったという。赤門の内側。

<白羽の矢が立った大名家は断る事もままならず赤門建立に四苦八苦したとか>

 前田家に配属された溶姫(やすひめ)の母は将軍・家斉に特段の寵愛を受けたお美代である。父は下総の法華経寺の祈祷僧日啓。お美代が寵愛を受けるに及んで雑司ヶ谷に3万坪の土地を与えられ将軍の祈祷を担当するなど大奥にも絶大な影響を及ぼす。
 家斉の死後、怪しげな祈祷・妖言の責任を問われ遠島処分、お美代も溶姫の住む加賀屋敷に「押し込み処分」となった。そんな江戸の一コマを残った楠の木が語りかけている。

<幕府財政を窮地に陥れた将軍家斉。以後、幕府は弱体化し消滅に向かう>


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