年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

松代-真田六文銭

2007-11-30 | フォトエッセイ&短歌
 猿飛佐助・霧隠才蔵などの忍術使いは大人気。実在の忍者と信じ込んでアレコレとマンガ本を片手に頑張った。障子紙をくわえて岩の上で印を結んで呪文を唱え飛び降りたり、木から木へ渡り歩いたりと「過酷な修行」に励んだ子供の頃、チャンバラ遊びのバージョンだったのか。
 真田昌幸・幸村の忍者集団:真田十勇士は天下の情勢を窺うため、家康の駿府城、秀忠の江戸城に忍び込み、徳川方の内情を探る。時には、京の南禅寺山門に住む石川五右衛門と術比べをしたりのパフォーマンス。なんとも泣かせるのが、女・子どもなどの弱きを助け、山賊などの強きを挫き、懲らしめるという正義の味方だった。大阪の陣はこんなのを相手に戦ったのだからコリャ~家康も苦戦するワ。
 真田の紋所は六文銭である。六個の銭は六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)の衆生を救うため、三途の川の渡し賃。トンデモない家紋であるが「物事には死を賭して挑めという家訓」からとか。

<三途の川の関料、六文銭クッキリの長國寺本堂の甍。藩主真田家の菩提寺>

 いずれにしろこの真田一族のグローバル思考は偉才を放っている。2代目館主:真田昌幸・次男:幸村は豊臣に付くも嫡子真田信之は東軍:家康側につき幕府確立期の一角を担い信州上田城を領有する。この真田家3代目の信之が1622(元和8)年に上田から松代への加増転封を命ぜら13万5千石の押しも押されぬ譜代大名になった。
 この松代城こそ武田信玄の命によって軍師:山本勘助が上杉謙信との川中島の戦いに備えた海津城である。武田滅亡後曲折を経て来たが、この時以降、真田家の居城として松代藩が消滅する明治維新の廃藩置県の時まで続いていくのである。ちなみに、12代目の真田幸民は新政府側に属し会津戦争に従軍している。

<松代城(海津城)の大手門跡、千曲川の水の流れを利用した堀が注目される>

 真田氏を「日本一の強兵」と賞したのは大阪の陣の時の島津氏発言であるが、総じて真田軍の戦いぶりに対する賞賛は極めて評判が高いのである。
 一方では「真田は表裏常なきもの」と批判する分子も少なくはない。何しろ武田信玄・勝頼→織田信長→上杉景勝→北条氏政→徳川家康など時の強大な大名達の庇護を求めて、次々と身の振り方を変えながら生き延びたのである。
 サテ、この二つの評価!<二代将軍秀忠が関ヶ原の合戦において、真田攻めに手を焼き関ヶ原の合戦に遅参したが、その汚名を雪ぐため、「日本一の強兵が相手だった、秀忠が手こずるのも無理はない」という政治的プロパガンダだというのだが…>必要以上に真田強しと讃えたのではないかと!

<藩士の子弟に文武を教授した文武学校。板の間が黒光する槍術所の道場>

松代-地下御座所

2007-11-24 | フォトエッセイ&短歌
 1864(元治元)年7月11日、京都木屋町に惨殺体が転がっていた。翌日の張り紙。『この者西洋学を唱え交易開港の説を主張し、奸賊会津・彦根とくんで天皇を奪おうとした。大逆無道だから天誅を加えた』。公武合体の流れに危機感を持った尊攘派のテロの刃に倒れた佐久間象山の最期であった。
 松代藩士、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰ら門弟数千人と言うから象山(しょうざん)先生並みの経世家ではなかった。また自然科学への挑戦は果敢で、(電信機を作り、電線を架設してダニエル電池を使用して通信の実験に成功)日本電信発祥の地となっている。
 この時期多くの逸材がテロによって倒れたが殊のほか惜しい人材を失っている。松代は真田一族の街ではあるが<象山神社><象山資料館>と佐久間象山の街でもある。

<西洋流の兵学を学び開国論を主張。望遠鏡を制作し天体観測、写真機等も>

 松代大本営地下壕は3地区に別れている。すでに見学した象山地下壕、地震観測所が置かれている舞鶴山地下壕、崩壊はげしく閉ざされた皆神山地下壕である。
 舞鶴山は宮内省が入る予定で天皇御座所や皇后御座所などが建設された場所である。すでに各都市の空爆はやられ放題の中の極秘の宮中移転である。象山地下壕に続く舞鶴山地下壕の計画に地元の混乱大きく記録は次のように留めている。
 『騒動が起きたのは1945(昭和20)年4月3日、国民学校の作法室に村の戸主130名が呼び出された。加藤少佐は挨拶もしないで開口一番「本日は天皇の命により、皆さんにお願いに上がった。家財をまとめて家を開けて立ち退いてもらいたい。理由は軍の秘密事項に属するので言えない…」。早い家は翌日に軍の作業員が家に押しかけて来て瓦をはぎ始めた……』
 ポツダム宣言を黙殺し「国体護持」を最大唯一の念願とした軍部はなお戦争継続を主張し地下壕を掘り進めて行った。

<現在、気象庁精密地震観測室。舞鶴山地下壕鉄筋コンクリート造半地下式>

 一部見学できるようになっている。爆撃対策のため、建物の天井や壁は非常に厚い。 天皇・皇后御座所が左右に振り分けられ中央には幅1、5M位のかまぼこ型の狭い急な階段が下っている。淀んだ暗い闇の世界を伺うようだが、これから先には進めない。警戒警報が鳴るとこの地下壕に避難することになっていたそうである。
展示室には完成していた地下御殿の豪華な部屋のパネルが展示されている。

松代-地下壕内

2007-11-20 | フォトエッセイ&短歌
 新潟市に河口を持つ信濃川は367キロという日本最大の長さの川であるが、長野県の国境を越えると千曲川と名前を変える。山岳県の長野の都市はこの千曲川流域に展開する小さな盆地上に形成されている。河川が経済の動脈であった事が分かる。そのため昔から烈しい争奪戦が展開されてきた。信玄VS謙信の『川中島の合戦』は特に有名である。
 長野市と川を挟んで向かい合っている松代も松代城の城下町で千曲川の畔に築城されている。武家屋敷が多く落ち着いた街並みである。

<屋敷の縁側から藁葺き屋根と塀越にようやく色づき始めた紅葉が覗かれる>

 地下壕と言われているが実際は山の麓から掘り抜いたトンネルというイメージである。見学可能な場所は500Mであるが、その規模の大さには度肝を抜かされる。軍部は狂気か本気か本土での地上戦をやるつもりだったのだ。
 中学生が平和学習の一環として地元ガイドの説明を息を殺して聴いていた。『~1944年の11月ですよ。工事が始まったの。都市は無差別爆撃くらって多くの人が被害に苦しむ。武器も弾薬、戦闘機も戦艦もない丸腰になっていたんですよ。どうしたと思います、ガタガタの飛行機引っ張ってきて体当たり攻撃、神風特別攻撃隊が始められたんです。そんな時期に大本営を移して闘ういう計画が実施されたんです。沖縄は実際に洞窟に軍司令部を移して闘ったんです。どれほど悲惨な地上戦になったか御存知でしょう。原爆が落とされました。でも軍部は戦争終結を全く考えませんでした。皆さん何故だと思いますか、どう考えたらいいのでしょうか~…』

<ナルホド。沖縄での地上戦の話に説得力あった。頑張れ若者たち!と思う>

 岩石に残る削岩用ロット跡やズリを運んだトロッコの枕木の跡など当時の工事の様子が多少分かる所もある。パンフには「延べ300万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され一日3交代徹夜で工事が進められた。食糧事情が悪く、工法も旧式な人界作戦を強いられ、多くの犠牲者を出したいわれる」。
 朝鮮人労働者は定説6500人位といわれている。壕入口に「松代大本営朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑」が平成7年に様ざま反対やイヤガセを乗り越えてようやく建設されたという。
   
<歴史を語る火薬を埋め込む穴やロット跡、水平基準の測量点などが見られる>
<県など行政の保存対策が進まず本格的な全面系統的調査はこれからである>

松代-大本営地下壕

2007-11-16 | フォトエッセイ&短歌
 すでに62年、焼夷弾とか竹槍訓練とか赤紙とかは解説がないとイメージすら思い浮かばない時代になっている。定年退職者が世に溢れ高齢者社会に突入、危機を迎えた老人大国日本だと。急がれる3大対策で増税は必至か……赤字対策・老人対策・防衛対策!何をヌカスか、戦後の政治や行政の怠慢を高齢者の増加にすり替えるとは。
 それにしても戦後60年を経過一つの峠を越えようとしている。「南京大虐殺」「沖縄戦での集団自決」「従軍慰安婦」「交戦権の放棄」など当たり前に学習してきた事に疑義が呈され、とうとう教科書から記述が消えてしまった。
 そんな折り戦争の事実を明らかにし風化させない様々な市民運動が立ち上げられた。「戦争遺跡」を発掘し、戦争の被害・加害を戦争関連の物的証拠で語り継いで行くのもその一つである。「遺跡研究会」に便乗して太平洋戦争の遺跡:信州松代大本営象山地下壕に赴く事にした。
   
   <地下壕近くで、カッと開いたザクロの表情がいい。口中に凍みる。>

 松代はゆったりと流れる千曲川のほとり、真田十万石の城下町で街並みなどが萌え始めた紅葉の中に佇んでいる。城下町特有の武家屋敷の厳格さが街を落ち着かせている。
 その街に一発のダイナマイトが轟いたのは1944(昭和19)年11月11日11時である。歴史的な大事業をイイ月イイ日イイ時刻としたのだそうだ。こうして「松代大本営地下壕」の突貫工事が翌年の8月15日まで277日間、掘って掘って掘りまくられたのである。
 大本営はとは何か。大日本帝国憲法「天皇は陸海軍を統帥する」を具体化するために「大本営条例」を制定し「戦争が起こった時は天皇の下に陸海軍の作戦を指揮するために宮中に大本営を設け戦争を遂行する」いわゆる御前会議である。「日清戦争」では広島に大本営が移され作戦が決定した。

<地下壕公開口。狭く傾斜しているのは正規の入口ではなくズリ(掘削の岩石)を搬出するための補助口。傾斜は設計ミス。壕内はトラックが走れる広さである>

 1944(昭和19)年2月、トラック島が潰滅し絶対防衛圏が破られた。文字通り竹槍で戦闘爆撃機を迎え撃つ事になる。そのために大本営・政府機関・天皇の御座所・賢所(かしこどころ・三種の神器の奉納所)を連合軍から守って一億玉砕の緊急体制をとる事になったのだ。
 信州松代に政府機関を移転する遷都である。地中の首都:松代は幸いな事に幻に終わったのだが。

<総延長5850メートルで碁盤の目のように掘ってある。日本放送協会・中央電話局・政府機関などの割り振りも進んでいた。軍部は本気で玉砕戦をやらせるつもりだった>


風林火山の里-番外

2007-11-12 | フォトエッセイ&短歌
    
   初候:椿咲き始む   次候:地初めて凍る   末候:金盞花香し
   *金盞花(キンセンカ) 早春を告げる花かと思いきや冬花なんですネ  
  白堂翁の「立冬」から4句、秋の夜長マアごゆっくりと!  
  ☆座布団に手を敷き込まん秋日和  ☆シャンソンに誘われて舞う枯葉かな
  ☆折々に珈琲香る庵かな       ☆つぶる目の奥にもモミジ 宵時雨
    
 遅い残暑に紅葉をためらう街路樹の影が長くなった。その影を映す西日の朱の太陽も一瞬のうちにビルの向こうに落ちていく。「秋の日は釣瓶(ツルベ)落し」‥詩人は詠う‥<落ちかけた夕日よ、今しばし待て、あそこに見える旅人がとけた草鞋(ワラジ)の紐を結ぶまで>。釣瓶も草鞋もすでに死語だから深まる秋の情景に思い至らないのも無理はないが、すでに「立冬」を過ぎた。
 関東平野では秋本番を迎え陽に照る烏瓜(カラスウリ)が鮮やかだ。まさに夏から冬への移ろい行く風物である。小学校の頃、カラスウリの果肉をふくらはぎに塗って運動会に臨んだ。脚が軽くなって速度が上がるというのだ。
 真偽のほどは今でもわからないが、プログラム最後のクラス対抗リレーで、女の子に「優勝が掛かってるのよ。頑張って」なんて言われてカラスウリを塗ってくれるわけだから脚が軽くならないわけがない。しかしマア、結果的に効果があるのは1人だけなのだが。
 漢方薬ではカラスウリは必要不可欠の薬材というから、彼女が塗ってくれる「精神性」以外にも何らかの効用があったのであろうか。彼女は年取る事なくあのブルマーの姿のままである。<風林火山の里にて>


 夏目漱石の『三四郎』、掃除を止めた美禰子に三四郎が問う。「何を見て居るんです」「あの白い雲」…白い雲が大きな空を渡っている。綿の光った様な濃い雲がしきりに飛んでいく。風の力が烈しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い地が透いて見える程に薄くなる。…立冬を過ぎた頃から上空の風速が強くなる。高層観測を始めた頃、余りに強い風が記録されるので「観測ミス」ではないかと疑ったという。
 少数になりつつある戦争体験派は立冬の空に無差別爆撃が飛来するB29の編隊を思い出すかも知れない。約百機の編隊が東京を初めて爆撃したのは1945年11月24日。高度8キロを飛んだB29は日本上空で予想外の強い西風に遭遇し、機体が横に流れて操縦士を驚かせた。
 ジェット気流発見のきっかけであるが、1908(明治41)年すでに漱石は西風のジェット気流を見ていたことになる。
 立冬の陽を受けてたわわに柿が群れなっている。やがて寒風の吹く頃、軒の下に干し柿となってぶら下げられるであろう。甲州は干し柿の産地である<風林火山の里にて>

風林火山の里(3)

2007-11-07 | フォトエッセイ&短歌
 まだカラオケがなかった時代、酒を飲むと恍惚として「武田節」を歌って涙する甲府出身の奴がいた。そして、会津がなんだ、長州や薩摩がなんだ、「オレは武田の末裔だ!」と意味もなく尊大ぶるのがいた。田舎ナショナリズムかなあ~甲子園が盛り上げるわけだ。
 それにしても戦国武将の中で一番強かったのは「武田信玄」とする信玄ファンは圧倒的に多い。が実際には合戦下手の実に不甲斐ない武将であったという説も根強い。信玄の偶像化は江戸時代に書かれた『甲陽軍艦』である。
 真偽はともあれ典型的な戦国大名であった事は間違いない。父信虎の追放が父子葛藤の格好のドラマになっているが、下剋上の社会では特筆する事ではない。名君の誉れとして釜無川の<信玄堤>が上げられるが、領国の富国強兵を進める戦国大名にとってはあたりまえの農業政策である。しかし、当たり前という事が一国一城の主にとっては大変な事だ。


 合戦に勝つために、年貢を取り立て軍事力をつける。娘の政略結婚先も考えなければいけなし、砦を築いたりと大変なのだ。跡継ぎの息子も準備しなければと3,4人の女も必要だしとまあいろいろとあるノダ…
 そこで甲斐国の法律(分国法)である『甲州法度之次第』(こうしゅうはっとのしだい)を制定して支配を強化していく。一般に『信玄家法』と言われるものである。
 *喧嘩したらイカン *田地を売ってはイカン *他国に手紙を出してはイカンとか、一国一城を守る涙ぐましい努力。禁止令を出さなければならないほど喧嘩が多かったという事だ。


<扇状地の傾斜地に石組みをした屋敷。合戦で倒れた息子の仏の姿だろうか>
 要害城は山全体を城郭とした山城である。その麓に流れ出る川が深い山間の土砂や岩石を甲府盆地に運び出して扇状地を形成する。村人はこの傾斜地に長い時間をかけて田畑を造って住み着いた。
 「要害」はその扇の要の部分に湧出する温泉である。温泉からの夜景は見事なもので6キロ先の眼下に甲府市街の光が賑やかにきらめいている。
 ゆったりと湯に浸かる。全国一斉の学力検査に話が及び校長の間違え指差し指摘には笑った。生徒はもとより父母や教師、校長や教育委員会が一丸となって走るのだ。競争原理が教育に持ち込まれる当然お帰結である。格差が助長され深刻な差別が生まれイジメだの自殺だのが出てくるのはすでに証明済みである。競争からは学力がつかない。
   
 季節の変わり目にご登場する白堂翁、今日は筆をカメラに持ち替えて野竜胆の激写です。髪イガイに頑張ってますネ。あと何回の温泉になるのだろうか。(風林火山の里:終)

風林火山の里(2)

2007-11-03 | フォトエッセイ&短歌
 積翠寺温泉に来て要害城に登らない事はなかろうと「登りたくない抵抗勢力」を巻き込んでの要害山。すでに1/2世紀をとうに生きてきた、加藤武が演じる諸角虎定の年齢、登城するのも楽ではない。濃い緑の木々の中に幽かに色づく雑木が混じっている。
 本丸のあった頂上は平らに削られ草が揺らぎ、信玄誕生の地の碑が建っている。市川亀次郎はここで生まれたのか。大きな腹をした大井夫人も登るのに大儀な事であったろうと夫・仲代達也と心を触れる事が無かった風吹ジュンを思い起こす。<大河ドラマ見てないとわかんネ>

<要害城本丸の最後の石段>

 ハテ?信虎夫人(大井氏)が嫡子晴信(信玄)を生んだのは、居城:躑躅ヶ崎館(つつじがさきのやかた)だか、山麓の積翠寺(せきすいじ)ではなかったのか。マアたいした事ではないんだが…
 戦国の世でも最も攻防激しい1520(大永元)年頃、石和から躑躅ヶ崎に館を構えた武田信虎は<詰城(つめのしろ)>として要害山に城を築いた。<詰の城>とは戦況不利となり篭城する目的で構築された山城のことである。最期の一族の自害の城とでもいうべきか。
 大永元年(1521)に今川氏の部将福島正成が甲斐に侵入し、躑躅ヶ崎館が危険に陥ったために信虎は身重の大井夫人を要害城に移し、ここで信玄が誕生したことになっている。実際は産湯として「積翠寺温泉」が使われたというから出産は山麓の「積翠寺温泉」であろうか。
 その後、武田家は信虎・信玄と危機に陥る事はなくあの堅固な要害城を必要とする事はなかった。

<躑躅ヶ崎館の門から城下を望む。かって武田24将の武家屋敷が左右に並ぶ>

 信玄の子勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れたのが1575年。足軽鉄砲隊の火縄銃に最強の甲州騎馬軍が敗北し戦国時代の戦術転換が問われた歴史的な合戦であった。勝頼は甲府を捨て1581(天正九)年、韮崎に新府城を築いて居を移した。その時に躑躅ヶ崎館の一木一草までも武将達の反対を押し切って破壊してしまった。現在の武田神社はその館跡である。家臣達との亀裂が決定的になり風林火山の甲州武田軍は滅亡して行く。

<信玄が産湯をつかったといわれる積翠寺山門。元祖信玄の隠し湯>