年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

その後:北の丸

2009-02-25 | フォトエッセイ&短歌
 1878(明治11)年の竹橋事件に驚愕した政府は明治15年「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし…」の軍人勅諭を出した。天皇の軍隊として絶対服従の帝国軍隊の精神的支柱を明らかにし、同時に外征軍としての軍制の確立を急いだ。
 明治21年、拠点守備の側面の強い鎮台制から、後方支援部隊を組み込んだ機動性の高い師団制への強化改組を行った。この改組は近衛連隊にも連動し(明治24年12月)近衛兵も近衛師団へと改称され近衛師団司令部が誕生した。

<近衛師団司令部前の近衛師団長・北白川宮能久親王。台湾征討中に逝去>

 近衛師団は平時は天皇や皇居の警護などに当たり、戦時には各地の戦線に参戦していった。当然、第二次世界大戦でも各戦線で激烈悲惨な戦場で戦っている。しかし、命運尽き10日の宮城内御文庫(地下の防空壕)で開かれた御前会議でポツダム宣言の受諾が決定される。瑞西、瑞典を介し連合国側に伝達された。
 これを知った陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が起こり、いわゆる『日本のいちばん長い日』といわれる宮城事件(きゅうじょうじけん)が勃発した。

<近衛師団司令部庁舎は丸の内公園の一画。現近代美術工芸館である

 宮城事件とは、昭和20年8月14日の深夜から15日にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。
 徹底抗戦を主張する将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害し師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城を「占拠」した。しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自決しクーデターは頓挫した。こうして予定通り15日正午の玉音放送によって日本の無条件が臣民に表明された。
 近衛兵、それは竹橋事件で始まり宮城事件で終わる。まさに帝国軍隊の誕生から終焉を物語っている。

<玉音放送用レコード盤争奪戦のドタバタは劇画を思わせる展開であったが…> 

銃殺刑:北の丸

2009-02-21 | フォトエッセイ&短歌
 近衛兵の蹶起した竹橋事件は「暴徒」として263名に有罪判決がくだった。1878(明治11)年10月15日、53名の死刑囚は肌寒い小雨の中を刑場になる越中島(えっちゅうじま)調練場(江東区越中島)に連行される。陸軍史上例を見ない53名の銃殺刑は5時に始まり9時に終わったと伝えられている。銃殺地点は特定されていない。
 あってはならない軍隊の反乱。後に政府は軍人勅諭を出して帝国軍隊の絶対服従の規律を確立した。さらに、近衛兵以外の宮城警備組織(皇宮警察)を設置して万全を期した。

<越中島通りの東京海洋大学の塀が続く。軍の調練場(練兵場)一帯>

 処刑者の所属は近衛砲兵大隊47名、東京鎮台予備砲兵隊5名、近衛歩兵連隊1名である。裁判も処刑も秘事として執行された。19日までに遺体の引き取りを願い出た遺族は4名だった。公に弔うこともままならい極悪非道の国事犯、彼等の墓所さえ定かではなかった。
 都立赤坂高校正門あたりにあった墓が偶然にみつかったのは1977(昭和52)年、<旧近衛鎮台砲兵之墓>と刻まれ、その背面には<大赦明治二十二年二月十一日>とある。
 現在は青山霊園二種イ号にある。明治憲法の発布の特赦により、名目上は赦されて墓を建てたのだろうと推察される。

<淡い木漏れ日の冬の陽の中に旧近衛鎮台砲兵之墓の碑はあった>

 浦塚城次郎(砲兵大隊銃殺:大分県)の遺族が青山辺りに墓があるらしい、探したいと言ったところ、声をひそめて「一族の名を汚した城次郎だ。ムホンをおこして打ち首になった奴はほっとけ」日中戦争の頃の話しである。兵士たちの家族や遺族が「国賊」として追いやられた状況が想像出来る。
 永合竹次郎(砲兵大隊銃殺:三重県)の母は大赦令によって「これで息子も靖国神社に合祀され、神に祀られた」と満足して世を去っていったという。竹橋事件の事実が秘されていた事を物語っている。越中島の「調練橋公園」の碑、この辺りが処刑場所となったのか…。
   
<隅田川相生橋の袂。調練場に行幸した明治天皇の巨大な聖蹟碑が聳える>

反乱軍:北の丸

2009-02-16 | フォトエッセイ&短歌
 地下鉄東西線の竹橋駅を地上に出るとパレスサイドビル(毎日新聞社)がそびえる。その西眼下に清水壕を越える竹橋が架かり、その右手に国立近代美術館が見える。
 代官通りに架かる竹橋は頑強無骨なつまらない橋となっているが、江戸時代の竹橋は4間3尺の木橋だった。
徳川家康が江戸入りした時は竹を編ん橋だったからとも云われている。また後北条家の家臣・在竹四郎が近在に居住しており「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われる。御舂屋(おつきや=城中で使用する米穀の精米所)

<橋詰にあるパレスサイドビル一帯は江戸時代に御舂屋があった場所である>

 1878(明治11)年8月23日、竹橋西詰にあった近衛砲兵大隊の兵士が大砲を引き出して市中に進軍したのである。三添卯之助、小島萬助等約260名が西南戦争の恩賞不公平や減給不満などから暴発した激化事件として流布されている。
 澤地久枝著『火はわが胸中にあり』では「近頃人民一般苛政ニ苦シムニヨリ暴臣ヲ殺シ、モッテ天皇ヲ守護シ、良政ニ復シタク……」(田島盛介)からそんなに単純なものではないと指摘する。明治新政府の方針に疑義を抱き「革命は可なり」と草奔崛起(そうもうくっき)したのではないか推察する。

<竹橋を渡った平川壕側にある竹橋門跡の枡形の石塁が歴史を語っている>

 恐れ驚愕したのは政府当局である。「天皇および皇居」を守備する近衛兵が士官深沢巳吉大尉らを殺害、大隈重信公邸に砲撃を加え、周辺住居数軒に放火、さらに天皇のいる赤坂仮皇居に進軍したのだ!
 準備不足で指揮系統もなく激発した決起は未明には捕縄につく者が出始め、「暴徒」は全員逮捕された。陸軍裁判所は反乱を社会から隠すように処理を急ぎ、口供書の作成を以て審理終了とし53名に死刑が宣告された。口供書には多くの誤記があり拇印もない。算盤責め、箱攻めなどの壮絶な拷問の様子も伝えられている。この事実が明らかにされたのは1945年もずっと経った戦後のことである。



<竹橋事件を語る痕跡もガイドも何もない。初春の日に朱い実が静かに輝く>



近衛兵:北の丸

2009-02-11 | フォトエッセイ&短歌
 1867年、徳川幕府は滅亡したが、諸国の大名(藩)はそのまま存続しているのだ。そこで、1871年、廃藩置県(大名<藩>を廃止して県を置き、そこに中央から役人を派遣して政府の方針を徹底させる)を断行した。大名の完全リストラである。
 リストラ反対の抵抗運動を押さえるために、薩・長・土の3藩から屈強な武士約1万人を献兵させ新政府のスクランブル軍隊とした。これを「御親兵」と名付け、翌年には「近衛兵」に組織替えし「天皇および皇居の守備兵」とした。兵営を宮城の北の丸に置いた。

<近衛兵の軍靴が響いた清水門(高麗門:二ノ門)。手前右側が近衛砲兵兵舎>

 明治政府は国軍を創設するために徴兵制を実施した。そして、東京・大阪・熊本・仙台に4つの鎮台(地方を鎮める軍隊)に兵士を配属したので当時は「鎮台兵」と称した。従って、明治初期には国内の反乱を鎮圧する軍隊である「鎮台兵」と宮城の守護を専一にする「近衛兵」という全く任務の異なる軍隊が併存した。
 「近衛条例」には、近衛兵は、専ら輦下を護衛し、特旨によらない限り、他の徴発に応じるものではないとも記されている。「優秀な兵のみを集めた陸軍のエリート兵団」と言われた所以である。不平士族の暴動(佐賀の乱など)如きには出兵しなくてもよい、という事だ!
  
<西南は西郷が率いた西南戦争。近衛兵は優秀な壮丁を以て充てたという>

 1877(明治10)年、明治維新を画する最大規模の士族の反乱:西郷隆盛率いる「西南戦争」が起こる。政府軍は、鎮台兵だけでは不足となりエリート兵団:近衛兵にも動員をかけた。他にも屯田兵、警察巡査、士族出身の募集兵など明治政府は総力を挙げて戦わざるをえなかった。
 周知のように薩摩軍は壊滅して終わったが、引き出された近衛砲兵たちは恩賞が不公平であったばかりか俸給が減俸されたことに不満を抱いた。彼らは、近衛歩兵聯隊と協力して諸大臣を拘束し天皇に直訴する行動に出た。これが、竹下騒動(竹橋事件)である。

<水ぬるむ清水壕に映る竹橋。対岸の石垣が江戸時代の竹橋の橋台跡である>

亀之助:北の丸

2009-02-06 | フォトエッセイ&短歌
 陸軍総裁:勝海舟と西郷隆盛の会談によって江戸城の無血開城が決定され、1868年4月11日に官軍に引き渡された。7月には江戸を東京に、更に10月13日には江戸城を東京城と改称し皇居と定める。この日、8月に即位式を上げた明治天皇が始めて上京して宮城(皇居)に入る。
 15代将軍慶喜が謹慎・隠居となったので北の丸の田安家7代目当主の亀之助が、駿府藩70万石を与えられ徳川宗家(将軍家)を相続する事になった。幻の16代将軍:徳川家達(いえさと)である。

<田安家正門。徳川宗家を継いだ亀之助(家達)の人生もまた運命的である>
 
 「もし、あの時」ほんの少しばかりの風向きが変わったなら… 彼の生涯どころか幕府の存続やあるいは天皇神聖の維新の形も変わっていたかも知れない。実は14代将軍徳川家茂は死去する際、将軍職を亀之助にと遺言している。当然、家茂の近臣や大奥の天璋院篤姫、御年寄・瀧山らは将軍:亀之助を強く押した。しかし、雄藩大名らが反対し慶喜が16代将軍に就任したのだ。
 さて、幻の16代将軍:家達はその後、イギリスに留学し、貴族院議員になり、ワシントン軍縮会議首席全権大使を務めるなど政界で活躍した。

<田安亀之助(家達)の屋敷跡は東京ジャングルのオアシスとして佇んでいる>

 明治新政府とはいえ、薩摩・長州・土佐・肥前などの倒幕雄藩の寄り合い世帯で正規の軍事力を持っていない。旧幕府を支持する武士や改革抵抗勢力の反乱を心配した政府は1871(明治4)年、「天皇の警護」を名目に薩摩、長州、土佐の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」とした。翌年にはこれを「近衛兵」として「天皇および皇居の守護」という任務を課した。1872(明治5)年の事である。
 この近衛兵の兵営(宿舎)が、北の丸の田安家(後の近衛歩兵第一聯隊)・清水家(近衛歩兵第二聯隊)の屋敷があてられた。

<北の丸公園の林の中にある、近衛歩兵第二聯隊跡地ににある連隊記念碑>


御三卿:北の丸

2009-02-01 | フォトエッセイ&短歌

 半蔵門線「九段下」から壕に沿って靖国通りの九段坂を左折すると田安御門の二の門(櫓門)。江戸城の一角、北の丸の入口で門を潜ると左側に日本武道館が構えている。
 江戸城は家康・秀忠・家光の3代に渡って完成する。中心となる本城、将軍の隠居所となる西城、その外郭の一つに北の丸がある。従って北の丸は将軍家の居所でも政治の場でもなく、大名の屋敷地であった。振袖火事(1657年)で江戸城が全焼した後は屋敷の再建を禁止し、火除け地の空き地とした。


<フミヤのイヴェントの行列は日本武道館から九段坂下まで連なっている>

 将軍の跡継ぎは直系男子を旨としたが、それが叶わぬ場合は御3家(尾張・紀伊・水戸)から将軍を迎える事になっている。それが繰り返されると血縁はどんどん疎遠になっていく。
 それを憂慮した8代将軍吉宗は新たに御三卿の制を設けて<田安家・一橋家・清水家>を創設した。と言っても自分の2男:宗武(むねたけ)が田安家、4男:宗尹(むねただ)が一橋家、孫:重好(しげよし)を清水家としたのだから、暴れん坊将軍吉宗してやったりである。しかも空き地になっていた北の丸全域(現在の北の丸公園)を田安家と清水家にくれてしまった。
 幕府滅亡と共に明治政府に没収されたが、この田安門・清水門がその名残となっている。



<武道館向かって左側が田安殿、右側が清水殿の広大な屋敷が連なった>

 武道館から旧清水殿の屋敷を進むと吉田茂の銅像がある。銅像左下に清水御門がある。一族とはいえ門を別にしたことが分かる。NHK大河ドラマ「篤姫」でもう一人のヒロイン14代将軍家茂(いえもち)に降嫁した皇女和宮が、江戸に入って最初に逗留したのが、この清水屋敷である。
 なぜ、清水家なのか。ここに清水が湧き出していたからだと…オソマツ。敵の侵入を迎え撃てるように四角いマスのような構造になっている門構えは1658年再建の2代目である。



<典型的な枡形門(ますがたもん)。門を登る砂利道は江戸時代の地形である>