明治21年、拠点守備の側面の強い鎮台制から、後方支援部隊を組み込んだ機動性の高い師団制への強化改組を行った。この改組は近衛連隊にも連動し(明治24年12月)近衛兵も近衛師団へと改称され近衛師団司令部が誕生した。
<近衛師団司令部前の近衛師団長・北白川宮能久親王。台湾征討中に逝去>
近衛師団は平時は天皇や皇居の警護などに当たり、戦時には各地の戦線に参戦していった。当然、第二次世界大戦でも各戦線で激烈悲惨な戦場で戦っている。しかし、命運尽き10日の宮城内御文庫(地下の防空壕)で開かれた御前会議でポツダム宣言の受諾が決定される。瑞西、瑞典を介し連合国側に伝達された。
これを知った陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が起こり、いわゆる『日本のいちばん長い日』といわれる宮城事件(きゅうじょうじけん)が勃発した。
<近衛師団司令部庁舎は丸の内公園の一画。現近代美術工芸館である
宮城事件とは、昭和20年8月14日の深夜から15日にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。
徹底抗戦を主張する将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害し師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城を「占拠」した。しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自決しクーデターは頓挫した。こうして予定通り15日正午の玉音放送によって日本の無条件が臣民に表明された。
近衛兵、それは竹橋事件で始まり宮城事件で終わる。まさに帝国軍隊の誕生から終焉を物語っている。
<玉音放送用レコード盤争奪戦のドタバタは劇画を思わせる展開であったが…>