年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

師走も暮れて

2008-12-27 | フォトエッセイ&短歌
 冬至も遠うに過ぎ大晦日(おおみそか)を迎える。42キロも走ったランナーがゴールを目前にラストスパートがかける。そんな感じか…、一年が何とも光陰矢の如くに過ぎ去っていく歳となっている。
 何とも変な1年だった。清水寺の森清範貫主は『変』と揮毫した。変ナ!というマイナーにも、変カク!という積極性にもとれるが、貫主はどちらにかけていたのだろう。この閉塞した状況を突破するにはCHANGE、積極果敢なヘンカクしかない。
 冬至(この日を境に日脚のびる)
  初候  蚯蚓結(きゅういんむすぶ)  ミミズは地中でかたまる
  次候  麋角解(びかくげす)     大鹿も角を落とす
  末候  水泉動(すいせんうごく)   地中で凍った泉が動く
                <揮毫と2句・白堂>    
   
    <冬至り乾いた音の遠くなり>  <飲む御酒の苦み走りて年暮れむ>

 12月31日、大晦日の夜を1年の日ごよみを除く夜と言う事で除夜と云う。アレモコレモの1年の最後の締めくくり、暮れゆく年を思い起こす意味で昔からいろいろな行事が行われてきた。そのイベントの中の最大のものは新しい年を迎える除夜の鐘である。
 何故、百八の鐘なのか。四苦八苦を取り払うということで<4×9+8×9=108>とか。1年の12ヶ月+24節気+72候を合わせて108とか、様々だが仏教がらみだから内容が難しい。
 諸行無常の響きを楽しめば良いのだけど、品格的にいうと108回のうち107回は旧年のうちに撞き、残りの1回を新年(1月1日)に撞くんだそうだ。

<江戸で始めて鋳造した関東一の大梵鐘。社会変革に祈りを込めて準備完了>

 芝:増上寺は新年を迎える大掃除も終わり、その除夜の鐘(じょやのかね)の準備も万端整っている。108の煩悩を綺麗に洗い流すという除夜の鐘を元気に響かせてもらいたい。
 増上寺の大梵鐘。鐘高さ1丈、重量4千貫で将軍家綱は大奥の女房どものカンザシ・クシなどを沢山寄付させたが、別に銅不足という訳ではない。金塊を入れると響きが良くなるので供養にとか云って供出させたとか。

<先端に堅い芽を宿す桜の枝が揺れる。2008年「風にふかれて」これにて>

毛野国・樺崎の如来

2008-12-24 | フォトエッセイ&短歌
 足利市の樺崎寺(かばさきでら)は中世を代表する豪族武士団:足利氏の氏寺である。創建は2代目・足利義兼(あしかがよしかね)で源頼朝の妻・政子の妹、時子を妻としているので将軍頼朝とは義兄弟である。彼のあと9代目が「足利幕府」を開いた足利尊氏、その孫が金閣寺の足利義満で足利幕府の3代目の将軍である。
 その一族の氏寺・廟所(びょうしょ:墓所)であるから壮麗なただずまいであった事が偲ばれる。奥州平泉の中尊寺の浄土庭園を参考にした華麗な中世寺院であったが、「盛者必衰の理ををあらわす」の通り、江戸時代には衰退した。

<盛時を偲ぶには余りに落ちぶれているが、盛者必衰の歴史を想像して欲しい>

 中世浄土庭園を持つ寺院として調査と復元作業が進んでいる。あわせて、世界遺産への登録運動も始められているが、樺崎寺?知られていない。
 ところが思わぬ事で「世界的な話題」となり、樺崎寺はマスコミを賑わした。今年3月にニューヨークのオークションに如来(にょらい)像が出品され、史上最高値である1430万ドル(約14億円)で落札されたのだ。実はこの「大日如来像」(運慶作)が樺崎寺の本尊であったのだ。地元の口さがない連中は「明治維新の神仏分離令で樺崎寺が廃寺になる過程でバカ住職が、酒代に売り払ったんじゃないか」とも。
 今回の出品を知った足利市民は署名を集めて、運慶の作品が海外に流出しないように文化庁に要請するなど地元では注目されていたのだが…。大日如来像が樺崎寺に戻ることはない。
  
<世界遺産ネ~。文化遺産の活性化と毛野国をダイナミックに演出する事だ>

 最後の鑁阿寺(ばんなじ)に着いた時にはとっぷり日が暮れてしまった。足利一族の邸宅で堀と土塁が見事に残っている。それにしても「鑁阿寺」とはまた難しい漢字ですね。麻生くんもよほどガンバラないと…、煩雑レベルじゃない。
 鑁阿寺(ばんなじ)の鑁(ばん)・阿(あ)はそれぞれ金剛・胎蔵の大日如来をあらわす種子で真言宗の理想を示す文字の鑁(ばん)と言われてもナ~。師走も押し迫ったので毛野国にとはひとまずお別れ!

<正確には金剛山仁王院法華坊鑁阿寺という。暮れなずむ太鼓橋と楼門>

毛野国・足利の里

2008-12-19 | フォトエッセイ&短歌
 太田市を北上し渡良瀬川を越え下野国(しもつけのくに・栃木県)足利の里に入ると史跡足利学校が迎えてくれる。
 足利学校の詳細は定かではないが、関東管領(かんとうかんれい=関東一円を支配する大ボス)上杉憲実(うえすぎのりざね)が典籍を集め、学則を定め、寺領を寄進するなど学校を整備再興したとあるから創立はもっと古くなる。そして1530年~1590年頃に最盛期を迎え各地から学徒3500人が集う。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは「遠隔の地、坂東と称する所に大学あり。日本で最も大にして最も多くの学生を集めている」と本国に書き送っている。

<1549年11月5日付、ゴアの聖パウロ学院宛のザビエル書簡が述べている>

 大学といっても現在の学校とは全く違う。校長を庠主(しょうしゅ)と言い鎌倉円覚寺の快元(かいげん)を招いている。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入る。教育の中心は儒学であるが、易学・兵学・医学も盛んで卒業生はそれらの実践的な学問をもって戦国武将の知恵袋として仕えたという。
 従って学校のシンボルは孔子廟で教室に当たるのが方丈。生徒を集めて講義するという事は無く、自学自習であった。読めない字や意味の解らない語句などは紙に書いて、松の枝に結んでおくと、翌日、ふりがなや注釈がついて戻される。その松の木は字降松(かなふりまつ)としてその名残を伝えている。

<集団での講義はない。自学自習が原則で分からない事は字降松にどうぞ>

 足利学校の孔子廟(こうしびょう)は中国明代の聖廟を模したもので現存する孔子廟としては日本最古のもという事になっている。校門などにも一定の形があって、入徳門・学校門・杏壇門(きょうだんもん)となっている。「杏壇」とは、孔子が弟子たちに教えを説いたところで、杏(あんず)の木が植えられていたことに由来している。
 明治維新後、足利藩は足利学校を藩校として復興を図ったが、明治4年に足利県(栃木県)に移り、1872(明治5)年に廃校となった。

<孔子は時世の不合理から教育と著述に専念。学問の神様として聖堂に祀る>

毛野国・参道の華

2008-12-15 | フォトエッセイ&短歌
 金山城址は土に埋もれていた事もあって保存状態が比較的よかった。戦国時代を落城もせず生き抜いてきた金山城は小田原北条氏の支配下に入っていたが、豊臣秀吉の小田原征伐の折に前田利家らに接収され廃城となった。
 徳川幕府成立後は顧みられることは無かったが、金山で採れた良質なマツタケが将軍家に献上されたのを機に「徳川将軍家御用の松茸山」とされ農民の入山が禁止された事もあって城の遺構が残ったというのだが…。
 御台所曲輪(城主の御殿が建てられた山頂)に登る最後の石段がある。南下した紅葉前線が里山の木々を染めるようになった。

<晩秋の紅葉が筆で掃いたように透き通って淡く萌えている。欅の華の威容>

 上州太田は新田義貞(にったよしさだ)のふる里で、多摩川の「分倍河原の戦い」で鎌倉軍に勝利して鎌倉幕府を滅亡させた武将だ。その新田義貞を祭る「新田神社」が山頂の本丸御殿跡に建てられている。
 明治8年の創建というから古くはない。それもそはずで、明治維新から戦前にかけては、皇国史観のもと、幕府を倒し、「逆賊」足利尊氏に対して後醍醐天皇に従った忠臣として楠木正成に次ぐ英傑として国史のページを独占した特別の人物だからである。
 戦後においては、一東国武将に過ぎない凡将。戦略家としても凡庸であり愚将であると酷評する意見が多いのだが…。
 マア、それはともかく新田神社らしい境内に忘れてはならない「戦争文化財」が存在する。あったのですね~皇居を拝する神域が…

<大砲の弾のモニュメントの前方に見えるのは皇居遙拝処である>

 樹齢300年以上(600年とするガイドブックもある)といわれる見事な欅(ケヤキ)の巨樹がある。樹勢はますます旺盛でエネルギーがたぎり圧倒される容姿である。凡俗の社会を癒しているようだ。樹高15m、目通り幹囲6.6m。
 石段を登ると新田神社である。石材は自前の金山(海底火山の溶岩)産出である。



<春の若葉、秋の紅葉もいいが、葉を落とした冬枯れの無骨な形がいいとも…>

毛野国・石の山城

2008-12-11 | フォトエッセイ&短歌
 中世(戦国時代以前)の城は、山の自然地形を利用して堀を掘ったり、土塁を築いたりして山全体を砦としたものである。前線基地で退却・転進など小回りが利き「城を枕に討ち死」などという発想が無かったのかもしれない。
 特に、石垣や石積みがないのが「関東の中世山城」の特長であった。ところが上州太田の金山城(かなやまじょう)の発掘調査で石垣・敷石を巧みに使った「石の山城」であることが判明し、注目されるようになった。本丸に達する最後の大手虎口(おおてこぐち=城の表玄関)の石垣・石積みは南米の遺跡を思わせる実践的なものである。

<まだ天守閣がない時代の山全体を要塞化した築城の様子がうかがえる>

 上杉・武田軍などの度々の攻撃に耐えて堅城ぶりを証明したというから、「石の山城」という事だけではない。敵を惑わせる複雑な通路や鋭く切れ込む竪堀(たてぼり)・堀切(ほりきり)などの防御施設も完璧である。
 切り立った崖を巻くように造られた桟道(さんどう)はいざとなれば切り落としが出来るようになっている。

<敵を惑わせる複雑な通路や攻撃を阻む桟橋など様々工夫が見られる>

 山城の最大の難問は水の問題で飲料水をどう確保するかであるが、金山城はこれをクリアしている。実城曲輪(みじょうくるわ=山頂の城主の館)のすぐ下、山頂に近い曲輪に井戸があり涸れる事がない。調査時に井戸浚いをしたが、今でもコンコンと水が湧き出るのだという。
 日ノ池・月ノ池が対になっていて、戦勝や雨乞いのなどの儀式を行った神聖な池であったといわれている。

<山頂に近い、日ノ池で水が涸れた事がないという。対岸に井戸枠が見える>

毛野国・埴輪が語る

2008-12-07 | フォトエッセイ&短歌
 4世紀ごろ大和王権による国家の形が出来あがり、東国にも支配の手が伸びてきたが、関東北部の大豪族:毛野氏は大和王権の支配に屈することを嫌って抵抗していた。「何をこしゃくな、東国の蝦夷め!」日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征物語の世界となる。
 結局、毛野国(けぬのくに)は大和政権に敗れ、上毛野(かみつけぬ)国と下毛野(しもつけぬ)国に分国される。後に上野国(こうずけのくに=現在の群馬県)・下野国(しもつけのくに=現在の栃木県)と呼称も変化し現代に至る。
 大和王権と一戦を交えた大豪族を裏付けるかのように群馬県太田市には全長210mに及ぶ東日本最大の前方後円墳(太田天神山古墳)がある。その付近には末裔たちの墓ででもあろうか田んぼの中から古墳が出土する。住宅が遠くに霞む水田のど真ん中のあちこちに散在する帆立貝式前方後円墳で「塚廻り古墳群」と呼ばれている。後円部に立つのは盾形埴輪(たてがたはにわ)・太刀形埴輪(たちがたはにわ)で武力保持を象徴している。

<忠実に復元整備された「塚廻り4号墳」。ホタテの形がハニワで画されている>

 前方後円墳といえば墳丘を連想するが、認識を変えなければならない。この「塚廻り古墳」は7基以上の古墳で構成されているが、田畑の耕作面下にあり、埴輪が304本も出土している(主軸は約30メートル)。しかも円筒・朝顔・家形・人物・武器・馬等々埴輪の百貨店である。
 古墳時代の後期、550年頃のものと推定されている。葬られたボスが生前、馬に跨って利根川と渡良瀬川流域の穀倉地帯を駆け抜けて行く姿が髣髴とする。遙かなり古代東国の黎明期である。

<前方部は祭り事の場である。祭礼儀式の終了後、ハニワで再現したのか>

 「塚廻り古墳群」から北西10㎞に標高235mの金山城址のある「太田のシンボル金山」が望まれる。山全体が城となっている中世の典型的な山城である。
 1469(文明元)年、岩松家純(いわまついえすみ)によって築城されたが、下剋上の時代、重臣横瀬(由良)氏が実質的な城主となって全盛期を迎える。上杉謙信や武田勝頼の猛攻撃にも落城する事なく難攻不落の山城として関東に覇をとなえた。発掘調査により、その全貌の解明が進み始め、復元整備が進んでいる。

<通路の正面を石積みで妨害。敵兵の前方視野をさえぎる工夫がされている>

毛野国・去らずの梅

2008-12-03 | フォトエッセイ&短歌
 去る11月22日は小雪。江戸時代の暦家はこの時期の自然を短詩で謳う。
  初候:虹蔵不見 (にじかくれてみえず)  陽気もなく虹を見ない
  次候:朔風払葉 (さくふうはをはらう)   北風が木の葉を払う
  末候:橘始黄 (たちばなはじめてきなり) 橘が黄葉を始める

 24節気の小雪はすでに過ぎ去り、何かと忙しい師走の風が吹きすさぶ。カレンダーの最後の一枚がハラハラと我が残り少ないカミの如く揺れて動く。締まりのない風情と世情が続きました。衆院解散・補正予算・新特措法…極め付けが定額給付金と、太郎くん何をやってんだか。

<「秘やかに落葉松の降る今朝の冬」(白堂)。書も白堂翁。朔風の候です>

 足利学校(栃木県足利市)は室町文化の地方普及という項目で歴史の教科書には必ず出てくる当時を代表する最高の教育機関である。しかし、その創建については様々な説があって定かではない。はっきりしている事は関東管領上杉憲実が再興し盛時には3000人の学生が学んでいた事である。
 釣瓶落としの晩秋の夕暮れ、閉門が迫り「夕焼け小焼けのメロディ」が流れる。暗くなった足許を気にしながら出口に向かう。『これ、去らずの梅じゃない』『嗚呼、不断梅よ』女性はしばし足を止める。
 方丈から漏れる灯に梅の木が浮かび上がり、鋭い棘の枝に梅の残実が陰っている。

<樹齢百年を超えるという足利学校の孔子廟側の不断梅(ふだんばい)>

 「去らずの梅」とは何ともロマンティックだが、残念ながらこの言葉を知らない。ようやくたどり着いたのが「不断梅(ふだんばい)」である。実が熟さないため、青い実が黒くなり冬まで枝に残るので、常に実が断えないことから、その呼び名があるという。ちなみに、伊勢の白子観音には「不断桜」(ふだんざくら)があるとか。
 それにしても秀逸「去らずの梅」と表現した彼女の姿は夕闇の中に消えた。楚々とした立ち居振る舞いの女を連想したりして…!

<小雪の節気は関東平野にも南下し本格的な紅葉の晩秋を迎える>