年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

兵ニ告グ

2007-02-26 | フォトエッセイ&短歌
 その日の未明、東京は深々と降る雪の中にあった。約千五百人の兵士が仄かな雪明かりを頼りに背嚢を背負い、機関銃や拳銃で完全武装し行動を起こしている。

 二.二六事件である。陸軍の「皇道派」青年将校たちが「昭和維新」(天皇親政の国家改造)を叫んで起こした近代史上最大のクーデターである。霞ヶ関・三宅坂一帯が占拠され高橋是清蔵相・渡辺錠太郎教育総監らが殺害された。
 翌、27日には戒厳令公布、28日の『反乱軍は原隊に帰れ』の奉勅命令が下されると、投降が始まりクーデターは失敗に終わった。<下士官兵ニ告グ  抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル>
 この事件を利用して、東条英機ら統制派が勢力を伸ばし、日本はファシズム(国家主義)への道を猛進、国号も『大日本帝国』に統一された。翌年の蘆溝橋事件を契機に宣戦布告なきまま日中戦争の泥沼に突き進み、やがて太平洋戦争へと向かう。
  

 陸軍衛戌監獄に収監された将校たちは特設軍法会議で審理(弁護人なし、上告なし)され7月5日17人に死刑の判決がくだされ一週間後に銃殺刑に処された。「皇道派」「統制派」の主導権争いも事実の解明を封印し「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれた暴走」として事件の全てを終わらせた。
 陸軍衛戌監獄(代々木陸軍刑務所)は現在の渋谷公会堂の後方一帯でNHKの広場辺りが処刑場だと言われている。渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像が「二.二六事件」の歴史を伝える。僅か70年前の事である。戦前のあの悪夢を繰り返してはならない。
  
     <刑務所の前辺りになるのか、若者たちが街路ライブに舞っている>

濡れて行こう

2007-02-23 | フォトエッセイ&短歌

如月雨水。24節気の雨水(うすい:雨水ぬるみ草木が発芽)を越えた。小学校の頃だった。登校途中、崖下の氷柱を取ってはチャンバラごっこで振り回していた。手袋もなく冷たかったナ~。雨でも降れば氷雨となって震え上がり「夕方からは雪になるでしょう」となる予報の季節だ。1メートもある氷柱も珍しくはなかった。暦と体感的寒さが大きくかけ離れる頃であるが、今年はいかにも一致している。
傘を握る手に寒さはなくコートの内は汗ばんで来る。若芽の出る頃、静かに染みいるように降る春雨の風情である。春雨と言えば時代劇の傑作、大川橋蔵の『月形半平太』である。
「月さま雨が……」「春雨じゃ濡れて行こう」 ~動乱の幕末、舞台は京都。桂小五郎に後事を頼まれた月形は、同志の暴発を抑える役目を果たすが理解されず四面楚歌となる。京に潜入した桂から薩摩長州連合成るを聞く月形だが、その夜半平太は同志の手で新選組に売られ、壮絶な斬り死にを遂げる~

 
白堂翁の書跡で参りましょうか。雨水。*初候…土潤い起こる *次候…霞初めてたなびく *末候…草木萌え動く 春寒し人熊笹の中を行く (前田普羅)
  
純白の桃の花が灰のような春雨に潤い、大きくほころんでいます。滴が曇天の空を映して落下しています。

裸の冬木

2007-02-16 | フォトエッセイ&短歌
北からの空ッ風に立ち向かって梢をヒューヒューと打ち鳴らす裸の冬木、厳しい冬を堪え忍んで春をジッと待つ。そんな詩になるような街路樹のスィティエイションではない。


バレンタインデーを迎えたこの時期になっても「冬将軍」の突撃命令が出ないのか♪北風勘太郎♪はやってくる気配はない。チョコレートはいらんのか……
 <バレンタインデー始末記:幼稚園の「チョコ禁止令」で園児がガッカリしているという話を聞いた。たわいない子供たちの遊びに、無粋な!「禁止令」はなかろうと思ったら然に非ず。女の子も男の子も朝から落ち着かず不穏な空気なんだと。愛の告白だぜ、ガキどもが!保育士さん曰く「落ち着かないという事もそうだけど、私たちには1個と5個とかの絶対的格差について説明の言葉がなく、お手上げです。解決策は絶対禁止令です>。ワカルナ~

   
「冬将軍」の気勢を制したのは「春将軍」である。緩やかな冬型の気圧配置の間隙をぬうように、東シナ海から移動してくる低気圧に向かって温かい南風が吹き込むのである。気象庁では、「春一番」であると発表した。冬から春へ移り変わる時季に来ている。
それにしても遂に葉を散らす事もなく越冬してしまった、枯葉や木の実が春一番の南風に揺れている。冬眠しない熊、産卵を始めてしまった蛙ドウナルノカ?

書状集箱

2007-02-09 | フォトエッセイ&短歌
 「バぁバ、お孫さんに葉書ですか?イイッスネ。メールに抵抗して手書きの葉書なんぞは。子供たちのトラブルや事件にはメール文化の責任も大きいし」。それにしても文化財並の丸型ポストあったんですね。マダアゲソメシマエガミノ……初恋の胸をときめかせて「ラブレター」を祈る思いで投函していたポストといえばこの丸型ポスト。想いは深いが、いつの間にか無粋な角形になってしまった。

 日本にポストが誕生したのは郵便制度が始まった1871(明治4)年で木製「書状集箱」(集信箱)で「書状を出す人の心得」・「各地時間賃銭表」が付けらていたとか。その30年後に「街角で目立ち動かせない事、通行のじゃまにならない事」という2つの条件をクリアーして赤色丸型ポストが定着した。戦時体制下で鉄製ポストは徴用されコンクリートの代用品も出現した。玉砕戦硫黄島の武器弾薬にもなったのか、これじゃ弾薬も尽き果てるわ。涙ぐましい限りだ。
戦後、再び鉄製ポストの使用が始まり、正式名称も「郵便差出箱」となり、順次複数の投函口を持つ箱形に変えられて来た。今後、郵政民営化によって激変する事になるだろう。

  
<潮風に打たれて「郵便差出箱1号」は60年の風雪に耐えたのか、表面はかなり疲労気味である。遠く逗子の潮騒がさざめいている>

鬼の行方へ

2007-02-03 | フォトエッセイ&短歌
節分の豆まき。今は昔、一般家庭でのあたりまえの情景であった。卯の刻を迎え 薄闇が漂う頃、「福ワ~内~、鬼ワ~外~」の声が各家から響き渡ったものである。子供達は神妙に大豆をまき、歳の数だけ豆を食って無病息災を願ったものだ。
最後の「鬼は外!」のタイミングが難しく、鬼は外!と鋭く豆を退散する鬼にぶつけると間髪を入れず雨戸をピッシャリと閉ざすのである。もたついていると鬼が舞い戻って居付いてしまうというのである。暗くなった部屋の静寂の中でジッと耳を澄まし、鬼の気配をを探ったものである。
奇怪な赤鬼青鬼を払う悪霊ばらい節分は何かオドロオドロしい雰囲気を感じさせた。イワシの頭を焦がしてヒイラギ(柊)の枝に突き刺し、雨戸・玄関・窓など外の世界と通じるあらゆる戸口に差してあるのも臨場感たっぷりであった。
豆鉄砲で撃退された奇怪な鬼共は一体どこに行ったのだろうか、長い間の不思議であったが、「鬼は内!」という地方や「全国から閉め出された鬼を迎える」(群馬県鬼石町)寺院や土地があることを知ってヤレヤレです。

しかし、今時の節分会は華やかなものです。コンサートや芸能人の豆まき、福引き付きの色豆など楽しいイベントである。鎌倉の長谷寺でも特設ステージに高砂親方が登場、特賞は液晶テレビだ。残念、テレビは遙か前方に落下の模様。

節分は「季節を分ける」事を意味している。つまり<立春・立夏・立秋・立冬>の前日のことで理屈的には4回あるが、1年の始めという事で春の節分が行事化したとか。
   
<青みを帯びた白梅が凛々しい。親方、もう少し気合い入れて遠くにも!>