年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

秋保大滝

2012-05-29 | フォトエッセイ&短歌

 仙台から山形へ向かう秋保街道(あきうかいどう)を車で走る。新緑と呼ぶには少し早いのか、産毛が陽に輝く淡い若葉のモスグリーンが東北の初夏を彩っている。街道の歴史は古く平安時代、山寺・立石寺を開基した慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の時代に拓かれたといわれる。塩釜から塩を運んだ「塩の道」、月山への「信仰の道」でもあった。現在でも処々に宿場の雰囲気を残しながら、仙台の奥座敷「秋保温泉:あきうおんせん」への観光路して賑わっている。
 温泉街から4里も走ると秋保不動尊が守護する秋保大滝がある。日本三大名瀑の一つとして観光スポットにもなっているが、日本三大○○はあちこちにあるから深く詮索しない事だ。因みに関東では、袋田の滝(茨城県)、華厳の滝(栃木県)、那智の滝(和歌山県)を日本日本三名瀑とする。
 この不動明王座像は胴回り5mとあるからかなり大きな不動尊である。円仁は唐の長安で約10年間、仏法の修業を積んだ高僧だが、開山したり再興したりしたと伝えられる寺が東北だけでも331寺余もあるとされるから、秋保の足跡も事実かも知れない。
 不動尊の滝見台から見下ろす大滝は眼下に白布を垂らしたように翻えり、微かに瀑布の流水音が迫り上がってくる。見下ろす滝は滅多にお目にかかれない珍しい景色であるが、滝の持つ迫り来る迫力の点で物足りない。そこで、古稀の足腰には軽くはない負担を覚悟して渓谷の滝壺まで下りる。渓谷は名取川の上流で河口は仙台湾に注ぐ。東北太平洋沖地震では、この名取川を遡上し平野部を呑み込んでいく津波の猛威がTV画面を圧倒した記憶は生々しい。
 滝は幅約6m高さ約55m、滝つぼの周囲は、流れ落ちる滝の飛沫が霧となり、見上げる大滝の迫力が迫る。淡い虹がユラユラと飛沫に揺れる山里の初夏の風景である。

<秋保大滝を滝壺から仰ぎ見る。飛沫の涼が夏を感じさせる>

  滝壺の飛沫を刺し抜く初夏の陽に妻となりいる虹の架け橋

  夏の色割きて流るる渓谷の若葉青葉が重なり光る

  山脈を削りて落ちるひたすらに哲学の如く秋保大滝

  眼(まなこ)澄む不動明王に怒りあり津波被災の手立ての遅れを

  街道の屋号風雅な蕎麦屋入る 太き黒き蕎麦ドデンと並ぶ 


もう一つの竹橋

2012-05-16 | フォトエッセイ&短歌

  岡本 柳之助(おかもと りゅうのすけ)と云えば「およそ近代世界外交史上に例を見ない暴虐」(大江志乃夫)事件である王妃閔妃(びんひ)殺害事件を主導した有名な人物である。『閔妃暗殺』(新潮文庫)を書き上げた角田房子はこの事件に衝撃を受け「朝鮮に遺憾の念」を持ち、「日韓関係は過去の歴史に目を据えその教訓を謙虚に学ぶ事から始まる」と記している。
 朝鮮宮内府兼軍部顧問として閔妃派排斥のクーデターを大院君を引き出して画策した首謀者が、岡本で国粋主義者・大陸浪人とされる。帝国侵略の闇の請負人のように蠢き燐光を発する何とも奇怪な人物である。
 閔妃殺害事件が起こる16年前の1878年に近衛兵による叛乱(竹橋事件)が起きている。この時、岡本柳之助は東京鎮台予備砲兵第1大隊長として「竹橋暴動」に深く関わっていた。西南戦争で参謀大尉として転戦しその功で少佐に昇進、陸軍のトップグループの一人である。一般概説書には竹橋事件の首謀者と記されているが、具体的にどう計画に参画していたのかは不明である。しかし、兵卒や下士官にとって岡本大隊長が「蹶起軍」側にいた事は心強く、精神的な支柱になっていた事は想像に難くない。
 8月23日、近衛兵営では蹶起の準備が秘かに始められ、午後11時に銃声が轟き、兵達が喊声を上げて動き出した。同時に決起するはずの市ヶ谷の岡本麾下の東京鎮台予備砲兵の姿はなく駒込の妙義坂を行軍していた。首謀者と目されている岡本少尉がなぜそんな所に…
 行軍を強いられていた鎮台砲兵にも竹橋蹶起の砲声が届いた。蹶起を約束していたのになぜここに連れ出されているのか、猜疑心が一挙に爆発し収拾し難い状況になった。岡本少佐の秘策行動なのか、あるいは裏切りなのか、混乱を繰り返しながら王子村への行軍は続けられた。
 「もう一つの竹橋」と云われる岡本少佐の不可解な王子飛鳥山行軍である。夏の夕暮れは遅い。ようやく暗くなった8時頃に登営した岡本は非常呼集ラッパで整列した兵卒に「弾薬背嚢の携帯は及ばず」として武装解除のまま営門を後にしている。しかも青山火薬庫をめざす事になっていたが、牛込方面に向かう。「暴発決起の決行」と思っていた兵卒の一部はこれは変だと行軍を何度も阻止しよと試みるが結局、深夜の0時過ぎには東京府王子村飛鳥山に到着する。
 そして宿処になっていた王子扇屋に落ち着くが、ここでも蹶起合流への激しい遣り取り続けられた。だが、すでにこの時には反乱軍は完全に鎮圧され、兵達の捕捉が始まっていた。もし、岡本少佐麾下の鎮台予備砲兵が盟約通り蹶起していたら日本の近代化は別の形をとったのであろうか。後の話だが、王子での岡本は「お前たちに国賊の名を負わせたくなかったからだ」と訓示したという事だ。    *「竹橋事件を歩く」(竹橋事件の会主催)で駒込界隈から王子飛鳥山まで歩いた。

<王子飛鳥山の扇屋があった場所で雑居ビルになっている。正面はJR王子駅>

  初夏の陽を足にまといて路地抜ける染井吉野の里は葉桜

  染井村桜吹雪のお囃子の響き抱えて葉桜繁る

  暗闇の往還を征く砲兵は飛鳥山にて鎮圧を知る

  扇屋の名を留めいて一世紀竹橋事件を伝うものなし

  竹橋と市ヶ谷結ぶ連帯を果たせぬ兵の慚愧の軍靴

  蹶起せぬ兵も編み笠腰縄で憤怒を背にし刑場に向かう


竹の子ご飯

2012-05-11 | フォトエッセイ&短歌

 開発の波が押し寄せる以前、多くの農家は竹藪を背にしているか、周囲が竹藪で被われていた。竹材は家屋や農作業の重要な資材なので竹藪に接して屋敷を構えたのであろう。5月の節句ごろになるとタケノコが芽を出し始め食材としても重宝される。最も春らしい野菜はタケノコであるという食通もいる。八宝菜やメンマや土佐煮はポピュラーだが、刺身や焼き物、天ぷらと日本料理の季節物として美味高価である。
 食料不足の戦後、竹藪で鞍馬天狗や丹下左膳のチャンバラで遊んでいた頃の思い出である。麦飯に豪快に刻んだタケノコがゴロゴロと入った『筍飯(たけのめし)』を食ったものだ。正確にはタケノコに飯粒(めしつぶ)がへばりついていると言った方がいいかもしれない。たいした調味料もなく、えぐみの残ったマズ~イ『筍飯』、恐ろしきは春の食卓だった。
 そんなトラウマの影響で「もうタクサンだよ。タケノコ君」というわけでしばらくタケノコを食べる事はなかったし、竹藪に入るということもなかったのだが。先日、50年も疎遠にしていた同窓生のS君から「竹の子狩り」の誘いを受けた。彼の地域は市街化調整区域で農地や竹藪など自然が確保されている。
 Sの家は丘陵の麓の雑木林と竹藪に囲まれた典型的な横浜の郊外に見られた屋敷である。以前だったら粗末な納屋、牛小屋、便所などがあったであろうが、今は鉄骨プレハブの建物の中には小型の農機具が何台も所狭しと置いてある。
 3日前にも30人規模の「竹の子狩り」の団体が入ったという。この時期は3日も経つとまた新芽が頭を擡げて来るのだという。
 竹の子は簡単に見付けられるのだが、根が張っているので掘るのが意外に大変である。斜面に足をしっかりとつけて、「たけのこ掘り唐鍬」で竹根の掘起し(タケノコの生え際までの穴掘り)をして最後はタケノコ生え際へ唐鍬を命中させるのだ。2本も掘りと滝のような汗をかくことになる。
 終わってからのビールと『筍飯』は格別だった。『たけのこご飯』も50年の歴史を経て味はまさに春の味覚であった。

<みずみずしいタケノコ。竹根の掘り起こしを開始>

 

  緑濃き孟宗竹に陽が滑り竹の葉ゆるり影絵のごとく

  孟宗竹の猛々し ふくよかに芽を出す子等はヒゲを蓄え

  春の陽に葉は煌めきて土温む竹の子狩りの唐鍬光る

  蓋とれば芋に筍ゴロゴロと筍飯は麦飯ヴァージョン

  軒下にタケノコかじる子等座る朝鮮を霧雨が被う


憲法記念

2012-05-07 | フォトエッセイ&短歌

 日野原重明(ひのはら・しげあき)100歳を越える聖路加国際病院理事長。話を聞いた事はないが『5月3日は憲法記念日、祝日の中でも特に大切なものとして心に留め置くべきだ』新聞のコラムの書き出しが目について読んだ。戦争放棄を宣言した日本国憲法は世界史上でも画期的なことで、「非武装の防衛手段」によって世界での存在感を増すような政策をとらなければダメだと云っている。斬新な発想が必要ともいう100歳の憲法9条の真っ当な見解には恐れ入る。
 今年、古稀を迎え「これからの人生は付録みたいなもの」などと年寄りぶっていたが、日野原氏に追いつくにはまだ30年もある。まだ足が動くうちは矍鑠(かくしゃく)と動かないといけないな~。社会的な視野を持って暮らしていると脳も活性化しボケないという。
 そんな思いでもないが小雨降る中を日比谷公会堂に向かい『5・3憲法集会』に参加した。~輝け9条 生かそう憲法 平和とくらしに被災地に~志位共産党委員長、福島社会民主党党首のスピーチなどがあり、改憲の危険な策動と憲法の条文を生かす戦いの重要性が話された。直面する原発再稼働・日米安保・沖縄基地問題と憲法の関わりには頷かせるものもあった。
 しかし、素人の私などから見ると日本国憲法は瀕死の状態に追いやられている感がある。9条の軍隊と戦争の放棄、基本的人権の保障、国民の政治上の主権など時々の政権によって限りなく侵害され歪められて来ている。この国に軍隊がなく、人権が大切にされ、国民に主権があるなどと実感している人が何人いるのだろうか。この実感の出所がどこから来るのかどうもはっきりしない。たぶん、それは、権力が政治から国民を遠ざけオカミが勝手に政治を引き回しているからであろう。
 1947(昭和22)年に文部省が発行した社会科の教科書に『あたらしい憲法のはなし』がある。これには…國の力のもとは、ひとり一人の國民にあります。そのために、國民のひとり一人に、いろいろいろ大事な権利があるのです。…文部省がこんな教科書を配って日本国憲法を懇切丁寧に教えた時代があっただ。国民主権というか、民主主義が遠くに漂い始めているのではないか。

<集会で憲法を語る、脚本家の小山内美江子さん>

  静もれる公会堂を五月雨が包みし外を街宣車騒ぐ

  憲法は権力縛る法規なり改憲論は民に足かせ

  二階まで立ち上りくる小山内の九条トークはドラマのような

  閉塞の時代を撃った啄木のテーブル叩く強き拳が

  霧雨が柳葉につもり一滴(ひとしずく)日比谷の杜は大河にならん


八十八夜

2012-05-03 | フォトエッセイ&短歌

 5月1日は立春から数えて88日目の「八十八夜(はちじゅうはちや)」で霜の心配も無くなり茶摘みが始まる。「新茶」ともなれば値段も張るが馥郁(ふくいく)たる風味は逸品である。アルコール大好き人間の私は日本酒がどうのビールだワインだとご託を並べるが、最後は「日本茶」に勝る物はないというのが持論である。
 去年、静岡茶は福島第一原発の事故によって規制値を超える放射性セシウムが検出され深刻な打撃を受けた。神頼みではないが、茶摘み式の神事を思わず真剣に見ざるを得なかった。今年の茶葉は放射能汚染はないのか。紺がすりに茜(あかね)だすき姿の「茶摘女」は淡緑の茶畑に見事に映えていた。茶と傾斜地を守る茶畑は日本の風景である。 
 5月1日はメーデー(May Day)でもある。万国の労働者の祭典で「労働者が団結して権利を要求する日」である。起源はアメリカのシカゴの労働者、1886年5月1日「第1の8時間は仕事のために、第2の8時間は休息のために、そして残りの8時間は、おれたちの好きなことのために」を目標に行なわれたという。
 日本の第1回のメーデーは1920年、1万人の労働者が結集して上野公園で行われた。「8時間労働」「失業の防止」「最低賃金」をスローガンに立ちあがった。それから、すでに1世紀も経ったが、どれ程の前進があったのか。労働条件や労働戦線は更に厳しい局面にたっている。
 約120万人を組織している日本労働組合総連合会(連合)は何故か4月28日、代々木公園でメーデー中央大会を開催している。挨拶に登壇した野田佳彦首相は何としても消費増税法案を実現させると」と決意を述べた。原発再稼働をどうする!全国民が注視する原発問題に触れることは無かった。
 連合の基幹労組(鉄鋼、造船、重機などの労働組合)は関西経済連合会と「原子力発電所の再稼働を求める共同声明」をまとめ政府に原発再稼働を求める事になっている。労働組合が経営側と一体となって原発再稼働に乗り出す初めての事となる。
 電機労連幹部は「原発事故の原因がはっきりしていないのに再稼働反対はするべきではない」とも云っている。せめて「事故原因の解明までは再稼働反対」を言えないのか!意見の相違というレベルではなく、労組を名乗る裏切りだと思う。絶望的なダラ幹労働貴族の現実である。
 一方、5月1日の全国労働組合総連合(全労連)のメーデースローガンは消費税・原発・TPP反対と旗幟鮮明でる。どちらが、国民・労働者の声を反映しているかは論を待たない。モスグリーンの柔らかなケヤキの若葉がサワサワと揺れ動いていた。

<5.1代々木の杜:NHK前の路を行くにデモ行進>

  原発に消費増税TPPストップ!させると二万の拳が

  メーデーの年金者多くデモ隊は歩みもエコでゆったりと進む

  見上げれば堅きケヤキも和らぎて旗幟に倣って若葉も揺れる

  電波塔NHKの巨大なる眼下の集会映すことなし

  メーデーも八十三回の歴史ありメーデー事件知る人も減る

  赤旗靡く代々木の杜は米軍のワシントンハイツの過去を刻む