年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<27>3K地点

2010-06-29 | フォトエッセイ&短歌
 「永代橋」と「清洲橋」の間は800mあるが、関東大震災の復興橋梁の象徴として2橋はセットでデザインされ「帝都の門」という華麗な橋となった。そこえ400mにも及ぶ、堅固第一の二層式の隅田川大橋がドデンと居座ったのだから江戸っ子には面白い筈はない。「大川端」と呼ばれた隅田川周辺の景観も変えてしまったと追い打ちの不評である。
 しかし、まあこれも時代の流れで「隅田川テラス」と呼ばれる堤が整備され、都市河川の景観を作り、格好の散歩コースになっている。
  
<優雅な橋は清澄橋、後方のタワーは東京スカイツリーで完成すれば634.0m>

 とは云え「隅田川テラス」は散歩のためではない。江東区は有名な「海抜0メートル地帯」で、干潮時でも海の底にいるみたいなもの。堤防が堅固にならざるをえない。
 もともと0メートル地帯であった訳ではない。昭和の始め、工業地帯に指定され工業用水に地下水を大量に汲み上げ、かつ水溶性天然ガスをドンドン採掘したので地盤沈下をもたらし、約半世紀で4m以上も地表面が下がったというから恐ろしい限りだ。昭和30年代、工場の郊外移転が始まり地盤沈下は治まった。
 本来隅田川に流れ込む小河川は逆流に備えなければならない。水門をつくって水流・水量の調節が必要になる。

<隅田川大橋と清澄橋の間の清澄排水機場もその一つで隅田川に排水する>


 隅田川大橋の袂がちょうど河口から3kmの地点になる。右岸・左岸は川上から川下に向かって言うらしい。後には読売ビルが聳えている。

隅田川<26>大 橋

2010-06-23 | フォトエッセイ&短歌
 水天宮を後にして、水天宮通りを進むと左側にロイヤルパークホテル、目前には屏風の様に首都高6号向島線が左右に展開する。その首都高の下は江戸時代、箱崎川が流れ河岸蔵が並び伝馬船が行き交う「水運の要」であった。明治・大正時代になっても大倉庫が並ぶ倉庫地帯で商業の中心地となっていた。
 その箱崎川を埋立て首都高6号線を開通させ、9号深川線を接続するために箱崎JCTを完成させ「陸路の要」に変貌させた。箱崎JCTの高架下に「東京シティ・エア・ターミナル」が開業し空路にもつながる要所にもなったのは昭和53年5月である。
 日本橋の箱崎川は高度経済成長のうねりの中でその姿を消し去ったのである。

<箱崎川を埋めてアエ・ターミナル、その上を水天宮通りと高速6号が重なる>

 箱崎JCTの後は隅田川の河畔の「隅田川テラス」である。下流側には「IBM 箱崎ビル」上流側には「読売新聞」のビルが聳え建っている。その真ん中を「首都高速道路9号 深川線」が、大蛇の威容を示すかの様に隅田川を跨いでいる。
 この首都高の建設に合わせて下段部分に一般道路を開通させた。これが隅田川大橋(すみだがわ おおはし)で中央区日本橋箱崎町と江東区佐賀を結ぶインフラの橋である。

<隅田川唯一の二層式の隅田川大橋。上段が首都高速で下段が一般道路>

 隅田川大橋の完成は昭和54年、高度経済成長が始まった年で、経済性実用性優先の物造り神話が熱く語られた時代。機能性重視の設計デザインをもって良しとされた。
 今となっては評判がすこぶる悪い。曰く、本来対の美観を配慮されて、設計・架橋された「永代橋と清洲橋」をぶった切って、双方から見通せなくしてしまったという。今頃、そんな事言われてもなナ~

<隅田川大橋の右岸から江東区を望む。上流の清洲橋に向かう遊覧観光船>


隅田川<25>水天宮

2010-06-18 | フォトエッセイ&短歌
 人形町界隈の賑わいをもたらしているのが「子供の守護神・安産の神様」で親しまれる、日本橋蛎殻町の東京水天宮である。休日・祝日ともなれば年間を通して狭い境内は参詣客でごった返す。
 江戸時代、久留米藩(くるめはん:福岡県久留米市)有馬家二十一万石の屋敷にあった水天宮が江戸っ子たちの間で安産の願いを叶えると評判がたち、塀越しにお賽銭を投げ入れる庶民が後を絶たなかった。そこで毎月5の日に限って庶民のため門戸を開放したという。
 有馬様は「情けが深い」と更に評判となり「情けありまの水天宮」との洒落た言い回しが広まり、「恐れ入谷の鬼子母神」と共に江戸の二大流行語となったんだと。

<大名家の屋敷にあった水天宮がなぜ江戸っ子の安産の神様になったの?>

 水天宮の由来によると歴史は古いだけでなく、何かよく解らない事がいっぱいある。安徳天皇・建礼門院を祭神としている。安徳天皇といえば平家一門の象徴で壇ノ浦の合戦で源氏の軍船に取り囲まれ、祖母に抱かれ、母の建礼門院と共に波間に身を沈めるという平家物語の涙の部分である。
 戦後、建礼門院の官女:按察使局(あぜちのつぼね)が筑後川に逃れ、小さな祠(ほこら)を建てて安徳天皇とその一族の霊を慰めた。彼女は尼となって里人に請われ加持祈祷を行ったが、その願い事がよく当たり、尼御前(あまごぜん)と称えられ、祠も尼御前神社と呼ばれるようになった。これが水天宮の起原であるという。

<東京の中心地、ビルに囲まれた2階造りの水天宮は鎮守の杜などはない>

 ここまで来たので、その後についてもう少し。子供の守護神、安産の神様のみならず、農業、漁業、航海者の間で信仰され、さらに病難、火災などの除災招福のご利益をもって聞こえるようになった。
 有馬忠頼(ありま ただより)は久留米に豪壮な社殿を造営したが、参勤交代で江戸詰め中は水天宮にお参りできない。ために第9代頼徳(ありま よりのり)は江戸は赤羽根の久留米藩有馬家屋敷に水天宮を祀った。明治4年、青山の中屋敷に移り、翌明治5年、有馬家屋敷のあった現在の日本橋蠣殻町に移転して今日に至っている。

<壇ノ浦の戦いから今年は825年、筑後の小さな祠は日本橋で頑張っている>

隅田川<24>人形町

2010-06-14 | フォトエッセイ&短歌
 日本橋人形町は日本橋地域のど真ん中に位置する。事務所・商店・飲食店・住居が混在する街並みで、路地を広くした程度の一方通行の道路が伸びる。特に甘酒横丁という飲食店が軒を連ねる通りはごった返している。
 江戸時代、庶民の娯楽として盛況だった歌舞伎小屋や人形芝居の中心地で多くの人形を操る人形師が住んでいた。そのために、人形を作る人、修理する人、商う人などが大勢暮らしていたという。現在の歴史と伝統の下町情緒の残る小粋な界隈として活気のある繁華街になっている

<甘酒横丁交差点。飲食店・土産物屋が建ち並び、週末には観光客で賑う>

 朝は魚河岸、昼は歌舞伎、夜は吉原に人々が繰り出し、「朝昼晩三千両のおち処」と唄われたという。現在もそんな雰囲気がなくもない。
 例の有名な人形焼き、今半のしゃぶしゃぶはもちろん、漬物、和菓子、煎餅など美味しい名店がずらりと並ぶ下町情緒溢れる街並み。で、時がたつのを忘れないように、火の見やぐらをデザインした時計台がしっかりと時間を知らせることになっているとか。

<人形町通りの時計台。江戸職人姿の人形が、時間になると木遣り歌う>

 人形町通りの時計台を箱崎方向に向かうと水天宮前交差点だ。前方には首都高速道路の箱崎ジャンクションが、鉄とコンクリートの東京砂漠を象徴するように、お江戸日本橋の下町情緒の空を塞いでいる。
 そんな無機質化する街に潤いを添えようと街並みに工夫がなされているのが嬉しい。江戸の風情を演出した水天宮前のバス停とか歴史ガイド版などが街並みの景観を演出している。交番も一役買っている。

<水天宮前交差点の交番は水天宮に合わせたユニークなデザインである>

風薫る<9>飛不動

2010-06-08 | フォトエッセイ&短歌

 青根温泉から蔵王連山と遠刈田温泉を結ぶエコーラインに出て温泉街に向かう。道路脇に不動様が仁王立で旅人の安全を慈しんでいる。不動様(不動明王:ふどうみょうおう)は宇宙万物の最高神:大日如来(だいにちにょらい)が私たちを護るために姿を変えて現われたものである。
 それにしては何ともケッタイな恐ろしい姿をしている。特徴的なのは背中の炎で、迦楼羅焔(カルラエン)と言う鳥だ。炎の姿をした鳥で毒になるものを焼きつくし不動明王を守っていると云われる。

<悪魔の降伏のために恐ろしい姿をしているが優しい慈悲に満ちた顔だという>

 蔵王不動から七ヶ宿街道(国道113号線)の奇岩景勝地である材木岩のある白石市小原に出る。ここに天正19年に伊達政宗が建立したと伝えられる「飛不動」がある。昔、堂が火災に見舞われた時、不動明王は自ら飛出し、裏にあった岩窟に避難した。奇跡的に傷ひとつ負追わなかったので、霊験あらたかな「飛不動」として多くの崇敬をあつめるようになった。
 災難厄除のほか良縁、子宝、家内安全にもご利益があり、8の付く日に参拝すれば願いが叶うという。

<不動様が右手に持っている剣は利剣。迷いや邪悪な心を断ち切りると云う>

 不動明王を動物で現すと竜、物ならば両刃の剣、色ならば金または青黒となる。特に両刃の「剣」は敵を断ち切りるという事で強調される。そんな事もあってか、明治維新後は身代り不動明王として出征者の武運長久を願う人々の参詣が絶えないようになった。
 また、現在は「空を飛び来て、衆生を守り給うお不動様」という事から「飛行機の神様」と云われ、空の交通安全と道中安泰を祈願する人たちで人気のお不動様となっている。パイロットが航行祈願で飛不動に参詣すると云うのが面白い。転じて「落ちない」という拡大解釈から受験生にも人気で天神様と張り合っているとか!
        

<「飛不動尊」も時代と場所で、あちらこちらと飛ぶのでお忙しいようですナ>


風薫る<8>青根郷

2010-06-03 | フォトエッセイ&短歌

 青根温泉(あおねおんせん)は、蔵王連峰東側の山腹(宮城県柴田郡川崎町)にある温泉。泉質は弱アルカリ性単純温泉で無色透明でぬめりやクセがなく、肌の上をサラサラと滑るような感触が特徴である。効能は日本全国どこでも同じような神経痛、腰痛、眼病、リウマチ、胃腸病など万能!


<ひなびた温泉郷は新緑の山間にある。若葉の広がる音が風となって流れる>

 青根温泉は戦国時代(1528年)川崎領主だった佐藤掃部の発見による。ガイドによると、アオヌキの古木の下から湯が沸いていたことから「青根」の名前がついたと伝えられている。以来、500年の長い歴史を誇る。江戸時代には仙台藩伊達氏の御殿湯が置かれ、湯元不忘閣は仙台伊達家の湯治場とされ青根御殿と呼ばれたとか。(アオヌキの木がどんな木なのかハテナ?)
 

               
<不忘閣の中庭に聳える青根御殿。ヤッパリ殿ともなると豪華な風呂場だのう> 
 
 青根温泉には古賀政男メロディ発祥の地として「影を慕いて」の歌碑が立てられている。なんでも失意の中で青根の雑木林をさまよっていて生まれたのが「影を慕いて」だという。その記念館「青根洋館」が建てられ、懐かしい古賀政男の直筆の手紙やレコードのジャケットなど資料が展示されている。
 古賀の人生はまさに波瀾万丈である。時代の流れにのれず、その絶望から、青根温泉で自殺を図った。昭和3年の夏である。そのときに蔵王にかかった夕焼けを見て『影を慕いて』の一片の詩が浮かんだという。

<君故に 永き人生を  霜枯れて 永遠に春見ぬ  我がさだめ
        永ろうべきか  空蝉の  儚なき影よ  我が恋よ>