年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<16>石川島寄場

2009-09-24 | フォトエッセイ&短歌
 佃大橋を渡って佃島渡船場の堀割を渡ると石川島である。石川島は石川島人足寄場と石川島造船所で歴史教科書に必ず登場する。犯罪者の巣窟として江戸を舞台としたドラマでは格好の背景となる人足寄場だが実際はそうではない。
 飢饉になると貧農たちは村を捨て江戸市中に流入し、町中を流浪する無宿人となる。農村は荒れ果て、都市は無宿人の増加で社会不安を増大させる。幕府は彼等を野(の)と呼び「狩込み=手入れ」を行い、ふる里に連れ戻したが、帰村先がなく犯罪歴のない者を石川島人足寄場に収容し、技術を身につけさせ社会復帰をさせた。
 授産をもって、懲戒主義の追放刑に代えるという近代的自由刑につながるものとして注目される。石川島人足寄場が廃止されたのは明治3年である。

<1790(寛政2)年、火附盗賊改方長谷川平蔵宣以の建議で創設された>

 石川島は隅田川が晴海(はるみ)運河とよぶ支流と分かれる河口の三角州(島)である。当時は江戸湊と呼ばれる隅田川の河口で品川沖を航行する船舶で賑わった。1866年、石川島人足寄場奉行清水純畸はここに灯台を築いて航行の安全を期した。
 「油を絞られた」という言葉通り搾油機での「油絞り」は重労働であり、絞られた油は灯火用の原料として需要が高かった。人足寄場奉行はこの「油絞り」の利益によってこの石川島灯台を建設・維持したという。

<復元された石川島灯台。灯台の灯は人足寄場で「絞り上げた」原油である>

 この隅田川河口の石川島に1853(嘉永6)年、水戸藩が幕命により日本最初の洋式造船所を造った。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)は巨費を投じて蒸気砲艦1隻を建造している。その後、明治政府に接収され海軍省へ移管され、さらに民間に払い下げられ、平野富二(ひらのとみじ)のもとで民営平野造船所として富国強兵の拠点産業として多数の商船や軍艦を建造した。
 1893年に株式会社東京石川島造船所、その後日本経済の動向にあわせて推移し1960年に石川島播磨重工業、2007年(平成19)にIHIと改称され、現在に至っている。日本の近代化を一身に体現し大財閥の中枢を担う。

<重工業発展の面影をただよさせる大川端リバーシティ21敷地内のモニュメント>

隅田川<15>佃島渡船跡

2009-09-15 | フォトエッセイ&短歌
 佃島の漁民たちは小舟を操って対岸の江戸市中と往き来した。江戸の中頃、藤の花の名所となり、花の時期には花見客のために渡し舟を往復させたともある。「佃の渡し」に本格的な定期船の運行が開始されたのは、1883(明治16)年である。
 佃島や石川島、月島に造船所が造られ、労働者の唯一の交通機関として必要に迫われたのである。5厘の渡し賃をとったので 「五厘の渡し」 と呼ばれが、大正15年には東京市の管轄となり無料となった。昭和2年、重工業の発展により重要性が増し、汽船曳船による一日に70往復というスピード化が計られた。
 佃大橋(つくだおおはし)が架けられたのは1964(昭和39)年で、それを機に「佃の渡し」の渡船はその幕を閉じた。

<佃大橋の橋詰にある佃島渡船跡の碑が長い歴史の「佃の渡し」を物語る>

 佃島渡船場に佃大橋が架けられ320余年続いた「佃の渡し」は廃止された。隅田川最後の渡船場として親しまれて来たが、郷愁では運行できない。
 佃大橋は個性的なデザインが施されている隅田川の橋の中で極めてシンプルである。無個性で無粋な橋といわれ、橋マニアには人気がないが、大ブロック工法など、当時の技術の粋を凝らしているというのは専門家。その理由は、オリンピックに間に合わせるために急ピッチな架橋工事だったのだという。その意味で戦後の急速な復興を遂げた高度成長期の日本を象徴する橋といえる。

<飾り気のないシンプルな佃大橋。戦後初めて隅田川に架橋された橋でもある>

 佃大橋から佃島を望む。リバーサイドの緑の後には「大川端リバーシティ21」が聳え立っている。渡し船で繋がった石川島人足寄場から石川島造船所に変貌し、そして大川端リバーシティ21への開発を眺めると「江戸から21世紀の東京」への変貌を見事に象徴している一帯である。

<火附盗賊改方長谷川平蔵がいればどんな思いでこの風景を眺めることだろう>

隅田川<14>佃煮発祥地

2009-09-10 | フォトエッセイ&短歌
 月島のもんじゃ街から有楽町線の月島駅を越えると佃島(つくだじま)に入る。「島」と呼ばれるように隅田川の河口に出来た寄州(よりす=自然に土砂が吹き寄せられて出来た州)である干潟を埋め立てて居住地とした、江戸初期の土地開発地である。
 徳川家康に招かれた摂津(大阪府)西成郡佃村の名主孫右衛門(まごえもん)は漁夫30余名と共に向島を拝領し、埋め立てを行って郷里の名をつけて「佃島」としたとある。
 佃島は地震や空襲の被害を余り受けず明治の風情を漂わせる住居環境を残している。劇作家の北条秀司の句碑『雪降れば 佃は古き 江戸の島』がある。

<江戸の風情が残る堀割に架かる赤い欄干の佃小橋。屋形舟などの舟溜まり>

 佃島の漁夫たちは将軍家や諸侯に白魚(シラウオ)の献上を義務づけられた、が残りの魚介類を日本橋小田原町で売ることを公認された。彼等はこれらの雑魚(ざこ)を醤油で甘辛く煮しめて不漁の時の保存食とした。
 この「佃煮」が江戸庶民の人気をとり、江戸名物として現在に至っている。佃煮の発祥の地である。現在、老舗の天安、佃源 丸久の3店ほどが営業している。

<路地に広がる、甘辛い香りの江戸「佃煮」の伝統を受け継ぐ佃煮屋の暖簾>

 佃小橋を渡り右折すると佃島の鎮守住吉神社である。1644年、佃島の漁師が故郷である摂津国住吉神社の分霊を勧進して創建した。上方人の誇りからか、望郷の念止み難しだったのか。その後、海運業者や問屋業者から篤く尊崇された。
 祭りの際の佃囃子(ばやし)は江戸三大囃子の一つとされた。また安藤広重の錦絵にも描かれた400㎏の御輿が海中で激しくもみ合う「海中御渡り祭り」は今はその勇壮な姿は見ることが出来ない。

<宝井其角が住吉神社を詠んだ『名月やここ住吉の つくだじま』の句碑がある>

隅田川<13>月島もんじゃ

2009-09-04 | フォトエッセイ&短歌
 勝鬨橋を渡って清澄通りを左折して佃島に向かうと月島にでる。月島とはまた風情のある地名であるが、実際に「月の岬という月見の名所から名付けられた」とある。しかし、「築島の字を変えた」説もあってどうもこの方が現実的であるようだ。
 1892(明治25)年)、隅田川に年々土砂が堆積し、船舶の往来が困難となったので東京府が土砂を浚い<東京湾澪浚(みおさらい)計画>その土砂で造成された埋立地が月島である。埋立地なので水道がなく、「水売り」の舟が通っていたという。

<月島に架かる月島橋。隅田川とは月島川水門で繋がり船溜まりとなっている>

 月島は太平洋戦争末期の爆撃を受けなかった幸運な地域である。そのため戦後もしばらくは古い戦前の町並みがそっくり残っていたが、現在はスッキリと開発されている。それでも西仲通りの路地の裏には古い長屋風の建物の一帯が見られ大戦前の下町風情が味わえる。
 隅田川の対岸、明石町にアメリカ公使館があったので爆撃機がこのあたりの爆撃を避けたのではないかと囁かれているが、それは定かでない。

<東京大空襲をまぬがれた戦前の長屋「出桁造りの家屋」が存続している>

 西仲通りを進むと有楽町線の月島駅に出るが、何とここは「月島もんじゃストリート」でる。キャベツと小麦粉を主体とした、たかが、もんじゃ屋さんも60店も軒を連ねると壮観である。関西の生まれかと思いきやサニアラズ。
 起源は、江戸中期の江戸で作られた「麩の焼き」であるといわれている。1819年刊『北斎漫画』に、「文字焼き屋」の挿絵があり、すでに江戸にもんじゃ焼きがあったことがうかがわれる。焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字焼き」と呼ばれ、「もんじ焼き」。これが「もんじゃ焼き」となったとの説である。現在は月島と浅草がブランドになっているそうだ。

<もんじゃストリートの「月島もんじゃ会館」。お持ち帰りもんじゃが好評とか>