佃大橋を渡って佃島渡船場の堀割を渡ると石川島である。石川島は石川島人足寄場と石川島造船所で歴史教科書に必ず登場する。犯罪者の巣窟として江戸を舞台としたドラマでは格好の背景となる人足寄場だが実際はそうではない。
飢饉になると貧農たちは村を捨て江戸市中に流入し、町中を流浪する無宿人となる。農村は荒れ果て、都市は無宿人の増加で社会不安を増大させる。幕府は彼等を野(の)と呼び「狩込み=手入れ」を行い、ふる里に連れ戻したが、帰村先がなく犯罪歴のない者を石川島人足寄場に収容し、技術を身につけさせ社会復帰をさせた。
授産をもって、懲戒主義の追放刑に代えるという近代的自由刑につながるものとして注目される。石川島人足寄場が廃止されたのは明治3年である。
<1790(寛政2)年、火附盗賊改方長谷川平蔵宣以の建議で創設された>
石川島は隅田川が晴海(はるみ)運河とよぶ支流と分かれる河口の三角州(島)である。当時は江戸湊と呼ばれる隅田川の河口で品川沖を航行する船舶で賑わった。1866年、石川島人足寄場奉行清水純畸はここに灯台を築いて航行の安全を期した。
「油を絞られた」という言葉通り搾油機での「油絞り」は重労働であり、絞られた油は灯火用の原料として需要が高かった。人足寄場奉行はこの「油絞り」の利益によってこの石川島灯台を建設・維持したという。
<復元された石川島灯台。灯台の灯は人足寄場で「絞り上げた」原油である>
この隅田川河口の石川島に1853(嘉永6)年、水戸藩が幕命により日本最初の洋式造船所を造った。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)は巨費を投じて蒸気砲艦1隻を建造している。その後、明治政府に接収され海軍省へ移管され、さらに民間に払い下げられ、平野富二(ひらのとみじ)のもとで民営平野造船所として富国強兵の拠点産業として多数の商船や軍艦を建造した。
1893年に株式会社東京石川島造船所、その後日本経済の動向にあわせて推移し1960年に石川島播磨重工業、2007年(平成19)にIHIと改称され、現在に至っている。日本の近代化を一身に体現し大財閥の中枢を担う。
<重工業発展の面影をただよさせる大川端リバーシティ21敷地内のモニュメント>
飢饉になると貧農たちは村を捨て江戸市中に流入し、町中を流浪する無宿人となる。農村は荒れ果て、都市は無宿人の増加で社会不安を増大させる。幕府は彼等を野(の)と呼び「狩込み=手入れ」を行い、ふる里に連れ戻したが、帰村先がなく犯罪歴のない者を石川島人足寄場に収容し、技術を身につけさせ社会復帰をさせた。
授産をもって、懲戒主義の追放刑に代えるという近代的自由刑につながるものとして注目される。石川島人足寄場が廃止されたのは明治3年である。
<1790(寛政2)年、火附盗賊改方長谷川平蔵宣以の建議で創設された>
石川島は隅田川が晴海(はるみ)運河とよぶ支流と分かれる河口の三角州(島)である。当時は江戸湊と呼ばれる隅田川の河口で品川沖を航行する船舶で賑わった。1866年、石川島人足寄場奉行清水純畸はここに灯台を築いて航行の安全を期した。
「油を絞られた」という言葉通り搾油機での「油絞り」は重労働であり、絞られた油は灯火用の原料として需要が高かった。人足寄場奉行はこの「油絞り」の利益によってこの石川島灯台を建設・維持したという。
<復元された石川島灯台。灯台の灯は人足寄場で「絞り上げた」原油である>
この隅田川河口の石川島に1853(嘉永6)年、水戸藩が幕命により日本最初の洋式造船所を造った。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)は巨費を投じて蒸気砲艦1隻を建造している。その後、明治政府に接収され海軍省へ移管され、さらに民間に払い下げられ、平野富二(ひらのとみじ)のもとで民営平野造船所として富国強兵の拠点産業として多数の商船や軍艦を建造した。
1893年に株式会社東京石川島造船所、その後日本経済の動向にあわせて推移し1960年に石川島播磨重工業、2007年(平成19)にIHIと改称され、現在に至っている。日本の近代化を一身に体現し大財閥の中枢を担う。
<重工業発展の面影をただよさせる大川端リバーシティ21敷地内のモニュメント>