年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

男たちの哀愁

2006-11-30 | フォトエッセイ&短歌
一線を退き再会を果たした男達の背に深秋の真鶴の木漏れ陽が柔らかい影をつくっている。白髪もすっかり板に付いてきた。既に3分2世紀余を一途に生きた男達の足取りは決して軽やかではないが疲労感が漂っている訳ではない。成し遂げてきた仕事への自信と深い愛着心がマグマのようにしっかりと背筋を伸ばさせている。
マニュアルを欲し管理職の指示を欲し管理を欲し整然とした鋳型を欲し……そんな所からは子供たちの個性は見えねエ~だろう。劣化する子供たちを取り巻く環境と状況を把握し何がベストなのか手垢のしみた独創的なカリキュラムをつくって果敢に取り組んだものだ。何が時代遅れなもんか……
しみじみ哀愁が滲み出ていて渋いねエ~。下り坂にけつまずかないように注意&注意。


真鶴半島が海路の拠点であった事から幾たびか歴史にその名を留める。真鶴港に面した岩窟に頼朝が難を逃れたという「鵐窟](しとどのいわや)<難しい字です。これだから歴史は敬遠され、ついにやっても無いのに学習した事にして調査書を作成して大学生になる。アベクン、歴史認識がなっとらんヨ。無理もないワ>がある。
1180年、伊豆で挙兵した源頼朝は石橋山の戦(小田原付近)で平家方の大庭景親(おおばかげちか)に大敗し、この岩屋に一時身を潜め海路安房国に逃れた。<危うし、頼チャン!>
しかし、東国の源氏が続々と馳せ参じ、その2ヶ月後には富士川の戦(水鳥の羽音に驚いて遁走したという合戦)で平維盛を蹴散らして鎌倉に凱旋している。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…… 平家が壇に浦で滅んだのがそれから5年後で、鎌倉時代へと移って行くのである。

                
樹齢300年、400年のクス木・マツ木がうっそうと茂る。そんな雑木林に「魚付き保安林」の標が立っている。「魚を育てるのには森林を育てる」のだという。①樹木の影で魚たちが休息 ②魚たちのエサとなるバクテリアが枯葉や虫によって繁殖 ③雨水が森林から流れ出すので海水温の変化が小さく魚たちにとって良環境。ナンダッテ。凄いな昔の漁師さんは!

青梅街道

2006-11-23 | フォトエッセイ&短歌
山里は深い錦秋の中にひっそりと息を止めている。樹木みな幽かな色合いを違えながら大自然のパノラマを「天然色」に染めあげている。
柔らかな緑に燃え立った春の息吹のエネルギーは既になく、最後の光芒を放っているような愁いを漂わせている。夏の名残と慌ただしい冬への支度の中でやがては散り去って行く姿に、人の世のさだめを見るからであろうか。
多摩川本流は奥多摩湖を越える丹波の宿場を抱え込んで丹波川と名を変え大菩薩嶺に遡っていく。紅葉を映す丹波渓谷が眼下に臨まれる。青梅街道が川に沿ってはしっている。


青梅街道は江戸時代の始め、江戸城や日光東照宮などの白壁材として、青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路(成木街道と呼ばれた)として、大久保長安の指揮の下に整備されたのが始まりだという。甲斐国と武蔵国を結ぶ山岳街道である。

「新宿追分」で甲州街道と分かれた青梅街道は中野宿・田無宿・青梅宿・氷川宿・丹波宿などの宿場を経て甲府の東にある酒折村(甲府市山崎)で甲州街道と再び合流する。幕府の天領であったことから関所が設けられておらず、庶民の利用も多く甲州裏街道としてと旅人の姿が絶えなかったと言われる。
青梅街道の丹波山村の宿場の外れにある街道筋の一軒家。往時、茶店でもやっていて旅人にわらじでも売っていたのであろうか。くすみのない透き通るようなイチョウの黄葉が眩しい。

            
現在の青梅街道は新宿からほぼ一直線に青梅市に入ると、多摩川に沿って奥多摩にいたり、さらに丹波川・柳沢川沿いに柳沢峠を越えて山梨県の塩山市まで通じている。
<昔あるイベントで多摩川源流:水樋ミズヒまで歩いた。すでにその面影はなくアスファルト道路が続きライダーが疾走していく>


飛鳥山

2006-11-18 | フォトエッセイ&短歌
京浜東北線王子駅から飛鳥山公園を抜けて本郷通りを上中里駅に向う。「国立印刷局」(日本銀行券と呼ばれる紙幣や切手を印刷している凄いところ)を過ぎると御殿前遺跡を保存している滝野川公園があり、入口に弥生式土器をあしらった洒落たモニュメントがある。武蔵国豊島郡の郡衙(奈良時代の地方政庁)のあったところで古代武蔵の先進地域であった事が判明している。
 しかし、この関東ローム層の地に豊かな文化が展開したのは奈良時代を更に約3千年も遡る縄文時代の頃である。
 今から6千~7千年前の温暖期、海面は現在より3mほど高く、古東京湾は奥深く進入し大宮・川越どころか入り江の先端は群馬県の館林まで伸びていた。
王子、上中里も海岸線に位置し海を見晴らす台地となっていた。彼等、縄文時代人は狩りを行い木の実を採り、魚介類を捕って生活していた。その生活の中で不要になったものを捨てた場所が貝塚だから、それを調査することによって彼等の暮らしを再現することが出来る。貝塚が考古学の宝庫と言われる所以である。


台地の村の外れに形成される貝塚からは土器、石器、木の実、獣の骨、海産物、道具などが貝殻の堆積物に混じって発見される。それが普通である。しかし、貝層の厚さ4.5メートル、長さ約1キロメートルにわたる日本最大規模の中里貝塚(縄文時代中期中頃から後期:約4600~3900年前)はカキとハマグリによって占めていた。しかも、村から離れた海浜低地に形成された貝塚である。
アリエナイ、ハテナ?そこで学者は考えた。これはゴミ捨て場ではなく「中里海産物生産共同工場」なのではなかろうかと。そうなのだ、水を沸騰させて貝の「むき身」をとった粘土の穴や焚き火跡など工場の様子が確認されたのだ。
大量の「干し貝」を生産し内陸へ供給し石器の材料など各地の産物と交換するための交易品として加工していたのだ。縄文時代の生産、社会的分業、社会の仕組みを考える上で極めて重要である。
平成12年に国指定史跡に指定。
               
明治から大正期、鹿鳴館などを手がけた英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計による旧古河庭園の洋館と洋風庭園を見学。未だ紅葉には遠く秋バラが晩秋の陽にゆらりと揺れていた。
文全協主催の「武蔵野の遺跡を歩く」に参加
中里貝塚→西ヶ原貝塚→御殿前遺跡→飛鳥山博物館などを廻る
                         

影向寺

2006-11-08 | フォトエッセイ&短歌
多摩・港北ニュウータウンで開発された多摩丘陵の東南端は幾つかの丘陵支脈をつくって多摩川右岸に向かって消滅する。丘陵支脈の一つが川崎市のほぼ中央にある伊勢山台遺跡(高津区千年)である。
この一郭に影向寺薬師堂(県指定重要文化財)があり、その本尊である薬師如来座像(国指定重要文化財)が安置されている。肉付きのたっぷりした平安時代の古様の特徴を示し古刹の象徴となっている。一見に値する。



最近「川崎の文化財発祥の地」として改めて「郡寺」の切り口から注目されている。奈良時代の律令体制の確立によって、国には国分寺、郡には郡寺が整備された。
周辺の遺跡調査の結果、ここは武蔵国橘樹郡衙(むさしのくにたちばなぐんが)<橘樹郡:現在の川崎市とほぼ同じ範囲の行政区域だがその中枢機関。今流に言えば川崎市役所>の所在地であった事がほぼ判明したのである。正倉(倉庫=納税物を保管:一部は平城京に送られる)の遺構が多数発掘された。

この千年の台地こそ、郡庁・正倉・館と郡寺が一体となって天平文化が咲き競った地である。『青によし奈良の都は咲く花の 薫うがごこく今さかりなり』と謳われた奈良の都の洗練された仏教文化と大型建物群が民衆を驚かせ跪かせ燦然と輝いた事が想像される。


木漏れ日を映す影向石
 近世には眼病治癒の霊石とされ、霊水を眼に浸し治癒を願う人々が絶えなかった という。三重の塔の礎心石である。樹の間隠れの丘陵上にそびえる朱塗りの三重 の塔をイメージして古代川崎の歴史を想うのも楽しいものである。
         南武線 武蔵新城駅下車バス

霜 降

2006-11-03 | フォトエッセイ&短歌
24節気。太陽の黄経360度を24等分した季節を示す用語、なんて面倒な説明になるが秋分・立春とか、冬至・夏至とかのあれである。古代中国で用いれられた季節の区分法であるが、中国の暦を使っていた日本でもそれを使用し、暮らしや農作業の目安にしている。
11月は霜月である。寒冷前線が北の方から下がってきて思わずブルッと来る。涼から寒へと変速機が設定される。24節気では<霜降>にあたる。




退職後、八ヶ岳山麓の山小屋に隠棲した書家白堂翁(書の主)はすっかり自然にとけ込んで24節気の中で生きているのか、節気が変わる毎に墨痕鮮やかに一筆したためてメッセージしてくる。メールに筆というアンバランスがかえって新鮮である。何でも四国の山寺の倅だったと言うから親父の筆使いを見ながら育ったのかも知れない。マア御高覧あれ。
しかし<芸術は時にしばしば凡人を悩ます> そこで読み下し(初旬に)霜初めて降る (中旬に)小雨時々降る (下旬に)紅葉つた黄ばむ (2.4.6行は漢文で中国の説明なので潔く諦めるべし) 『霜降や 朝しらしらと 繭の色』(小坂文之)<霜も繭も知らないイマドキのガキには分かるメ~>


代々木から千駄ヶ谷に抜けるイチョウ並木

それにしても<霜降>る気配は全くない。公孫樹並木は濃い緑で装い紅葉の雰囲気ではなく、緑葉のまま突然枯れ葉となって飛ばされるのではないか。「彩りが毎年毎年遅くなる。地球温暖化実感ですよ」とカフェテラスのオヤジさんは嘆息。
自然が蝕われ、人の心が蝕われ、アレモコレモ蝕われようとしている。とうとう教育基本法や憲法など国家の背骨をも蝕もうとしているとんでもない輩が賑々しく跋扈している。