年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

蝉時雨-代官屋敷

2007-08-31 | フォトエッセイ&短歌
 時代劇に欠かせないのが<お代官様>である。「水戸黄門」「暴れん坊将軍」等々<お代官様>が登場しないとドラマが成り立たないのであるが、職務に誠実・清廉潔白な代官では話にならない。悪代官でないとダメなのである。悪行の数々、ワルならワルほど盛り上がるので憎たらしい役者を使う事になる。
 しかし、実際には悪代官はやめさせられてしまうのでドラマほど多くはなかった。二重帳簿や献金不記載や贈収賄などは言語道断で即刻罷免更迭である。バンソウコウ大臣のように言い逃れ・居座り等は許されない。江戸時代の役人の方が現在より遙かに厳しかったのである。
 普通、代官は天領(幕府の直轄地:経済基盤)支配をまかされ、旗本(幕府の親衛隊)が任命される。そのために彼等は絶大な権限を与えられ、<切り捨て御免>などという特権も持っていた。
 この権限と特権を私的に悪用し、村の娘を拐かし、百姓を虐げ、商人から賄賂を強要するなど庶民をいじめ抜いているところに遊び人の金さんが楊枝かなんかくわえて颯爽と登場し悪代官を懲らしめるというのがドラマの定番である。


 夏休みの宿題の追い込みに駆けつける子供たちと一緒に世田谷代官屋敷を歩く。東京都指定史跡・国重要文化財というから夏休みの課題としては面白い。
 世田谷村の没落郷士である大場氏が代官職に取り立てられたのが1633(寛永10)年で、彼の邸宅が役所(代官所)となったもので当初は大場代官屋敷と呼んでいた。従って表門も武家屋敷の長屋門形式ではなく、豪農の邸宅。つまり、大場氏は自宅を役所として代官の執務(今流に言えば、税務署・市役所・警察署)などを行なった事になる。
 
 <改築・増築などでそれらしくなっているが、基本的には豪農の座敷程度>

 土着の大地主を呼び出して「これが目に入らぬか」と代官職の辞令書を突きつけたに違いない。セコイ軽便な代官所の設置方法だナ~。そうなのだ。これは幕府の代官所ではなく[大名領の代官所]という珍しい都内唯一の代官所なのだ。
 面倒な事はまっぴらと思ったか、大場氏とて先々代は吉良氏の有力な家臣で御家復興の千載一遇の機会と捉えたかは分からない。いずれにしろ領内20ケ村の世田谷代官として明治維新まで連綿と続いてきたのだ。優れた行政手腕を持っていたのだろう。現在も敷地内に生活している大場さんは数えて16代目とか。
 厳しい残暑とはいえ木陰には秋立つ微風が吹き抜けていく。沸き立つ蝉時雨が風雪を刻む板の間に流れていく。[大名領の代官]については次回。

やはり最後は極め付け-11

2007-08-24 | フォトエッセイ&短歌
你好<ニハオ>東北紀行
 
 すでにハルビンの空港を飛び立って成田に着いてから3月が経った。印象や記憶も薄れてきたので東北紀行もこれにて終わりにしたい。アカシヤの花もとうに終わり濃緑の葉が猛暑にグッたりしていることだろう。
  広さも・深さも・大きさも想像を絶する<中華>を自認するとてつもない国であった。ちなみに、中華人民共和国の<中華>とは<世界の中心に位置する最も文化の優れた国>という意味で、その古い古代の看板を衒いもなくすまし顔で身にまとって生きている国、そんな感想を持った。
  毒入り食品、欠陥生産品など世界中の顰蹙をかっているが、何の何の先日はアメリカを越えて世界第2位の貿易輸出国になってしまった。奴隷状態の労働者が救出されたとか、役人の袖の下はあたり前で、産業公害で空も川も真っ黒ケ…気にしないんだナ~。怪獣がのたうっているような社会経済文化のエネルギーには眼を見張るものがある。共産党独裁の社会主義国で自由も人権もないアカの国、こういうレベルの視点ではとても納め切れない事を実感した。


  ↑ドアなんかないが超高級トイレ、白タイル仕様だからネ  
  最後はやはり厕所(ツゥスォ:便所)と飲み水のお話ですね。トイレにはドアがないから、尻丸出しで出る物も出ないから覚悟召されよ!と出掛ける前に散々言われていたからカルチャーショックはなかったが、難儀ですね。人間食えば出る、この当たり前の節理にナンカ問題でもあるのか、ウン!そんな感じです。鼻先には籠があって使用済みのナニガ無造作に放り込まれているし。
  しかも、そこらの水を飲めば一発でジャーだから待ったなしときたもんだ。ペットボトルの水なら文句ないだろうって。アマイアマイ、そこらのコンビニのペットボトルは信用出来ません。
  ↓高級友好便利店、「ハイ、ココのコンビニの水は安全」と添乗員


  格差社会と交通版造反有理。これも印象的でした。日本の社会科教科書でも紹介されている「一人っ子政策」で子供は皇帝並みで幼稚園の引け時ともなると、高級車が門前に二重三重のお出迎えで交通麻痺。その一人息子と一人娘の結婚式ともなると3尺玉花火の炸裂したような超宴会のあと15mもあるだろうリムジンに乗って練り走る。その後ろには金魚の糞みたいに何台もの一族の車が連なる。
  中国もすでに車社会を迎えているが交通道徳という認識がない。交差点の眺めは壮観というか滑稽でもある。東西の流れに南北の車が突っ込んでくる。そこに左折車右折車がかってに割って入る。決して止まることはないから麻雀のパイを引っ掻き回した状態。ここでビビッテはならない。当然、この混乱の中を人様も歩いて行くわけだ。彼等も決して足を止めることはなく、素手で自動車を追い払って我が道を行くわけだ。
  まだある。その車の窓を叩いて「お恵み」の器を掲げる豪快な貧しき人々の群れ。そんなとこでカンパする奴がいるのか…いるんですネ~



秋立つや

2007-08-15 | フォトエッセイ&短歌
 まだかまだかの「梅雨明け宣言」、別に宣言なんか無くてもいいけど…。でもこのままじゃ~稲作に影響するかも。なんて心配してたら、突如全国的に真夏日をマーク、その後は35度を超える猛暑酷暑の日々に壁壁とひたすらビールのお世話と成りにけり!何と今日は館林では40度を超えたとか。
 ウンだら何と何と<立秋のメール>が届けられたではないか。8月8日から秋だそうだ。
 『砂のような雲がさらさらと流れていた。その時ふいに、何処からともなく風が立った』「風立ちぬ」で堀辰雄は秋の訪れをこんな風に描いている。それからすでに1週間、今日は<終戦記念日>である。

    
    白堂翁の墨跡でしゃきっとしてみよう。  立秋
    初候 涼風至る   次候 ひぐらし鳴く   末候 濃霧昇降す 
        秋立つや ほろりと落ちし 蝉の殻 (子規)
 翁は墨痕の後にこんなコメントを記している。
<“重い夏”がやってきました。62年目の原爆忌、終戦の日を迎えます。45年7月2日夜、焼夷弾爆撃をかいくぐって後ろの眉山に避難し、明けて朝、焼け落ちた本堂のがれきの上をネズミが這っていた情景を思い出します>
 焼けた残骸にネズミとは面白いですネ。仲間でも探しに来たのでしょうか。私のは“軽い夏”だった。空襲警報が鳴ると防空壕に駆け込むのだが、隣家と共有だったもんで子供が5,6人も揃うから楽しくて面白くて、ランプのユラユラ炎で何とも雰囲気を出してくれたものだ。



 新聞各紙に厚生労働省が「本日は戦没者を追悼し平和を祈念する日です。正午から1分間の黙祷をお願いします]の広報を出してます。“ソンナ事アンタニイワレタクネーヨ、なんて不遜な事言ってはダメです”そして、戦没者追悼式では岸信介のお孫さんが役人の書いた原稿を一生懸命に額に汗して読んでました<戦争の反省を踏まえ、不戦の誓いを堅持し世界各国との友好関係を発展させ国際社会の先頭に立ち世界恒久平和の確立に積極的に貢献していくことを誓います…>いいですね。 日本国憲法の前文を彷彿させるようで感動です。「戦後レジームからの脱却」とか言って、憲法改悪手続き法案をごり押しし、南京大虐殺も集団自決の強要も無かったし、米下院の従軍慰安婦謝罪決議もなんのその防衛省を創設したら、原爆投下もしょうがなかったとお友達大臣。こりゃ冷や汗も出るわナ。
 62年前の8月15日も抜けるような青空だったという。戦闘機の飛ばない青空は本当に美しい。アシに秋も感じる…朕ハ時運ノ趣ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以て万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス…

お江戸日本橋

2007-08-12 | フォトエッセイ&短歌
 ♪お江戸日本橋 七つ立ち  初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ 
  コチャ 高輪夜明けて  提灯けす コチャエ コチャエ~♪

 『お江戸日本橋』:「道中唄」というジャンルで東京の民謡(という?)。
 歌川広重の鮮やかな浮世絵「日本橋」が浮かびあがり、江戸を出立する旅たちの浮き立つような可愛らしい華やかなイメージが溢れている…がそうではない。<初のぼり>とは参勤交代で江戸詰めになっていた大名が、妻子を将軍家の人質に置いて、初めて国元(領国)に帰る事を指している。<夜明け前に足許を照らすチョウチンをかざして日本橋を発った大名一行が高輪辺りで朝を迎えチョウチンの灯を消した> 。クダラナイアダルト歌詞を含んで延々と上方まで続くのである。



 徳川家康が関八州の大名として江戸に移ったのが1590(天正18)年8月。以降、壮大な城下町の建設が始まり1603(慶長8)年に最初の日本橋が架設された。そして翌年には各街道の里程の起点とされ、いわゆる五街道(東海道・中山道・甲州道中・奥州道中・日光道中)の整備が進められていく。「日本橋何里々々の名付親」江戸時代の川柳である。一里塚や宿駅や関所を設けるなど日本の交通制度を確立したのである。ド田舎にいても江戸の方角や距離が分かるのだ。家康のスゴサは街道を造っただけではなく「道中奉行」(国土交通省)というすごい権力を持った役所をつくった事である。
 道路網を掌握する事によって、江戸に向かう大名の動向、物資の流通、飛脚による信書の流れ、庶民の騒擾などの情報を把握し、徹底的な統制を行ったのだ。こうして首根っこを押さえつける事に成功した江戸幕藩体制は黒船の恫喝まで延々と続くのである。


 初代の木橋が架けられてから400年を迎えている。以降、焼失・流失などによって度々架け替えられたが、現在のは1911年に架けられた石造(花崗岩)の二連アーチ橋で「第十九代日本橋」(国の重要文化財に指定)である。
 浮世絵では日本橋の橋桁の下を舟が行き交い、濃紺の空をバックに手の届くように富士山が描かれている。恐らくその風景は大正の頃までは変わっていなかったのではないか。激変するのが東京オリンピックを控えて直上に首都高速道路が建設された時である。日本橋は首都高に被われ空を見上げる事ができなくなった。川面は臭いを漂わせベットリと茶色く淀んでいる。歴史的街並みや環境を無視し、利便性だけを優先させた都市開発の最悪最低の見本である。首都高を地下へ通し、景観を復活させるという構想が持ち上がっているが、試算予算は5000億円超だという。

ネギ坊主ドーム-10

2007-08-02 | フォトエッセイ&短歌
你好<ニハオ>東北紀行

 いよいよ旅の最北地に辿り着いた。四つ星ホテルの昆侖大酒店ではフロアやレストランは大柄小柄の金髪のロシア人で華やかな雑踏をつくり雰囲気は一変している。ハルビン( 哈尔滨)はそういう土地である。また日本史を紐解く事になる。
 日本が日清戦争で清から取り上げた遼東半島を三国干渉で阻止したロシアは清に迫ってその見返りに満州の鉄道敷設権を手に入れた。満州を横断し不凍港ウラジオストックに達する東清鉄道である。小漁村であったハルビンは劇的な発展をとげる事になる。1920年代には欧米企業の支店が1000店を越え多くの欧風建築が軒を連ねた。国際都市ハルビンの誕生である。ロシア人約9万人、日本人約3千300人。その後「満州は日本の生命線」の大陸侵略の国策で日本人の開拓団移民が増加し、1932年の偽満州国成立後は実質的な日本の支配下におかれた。

 重い雲の中にある哈尔滨站(ハルビン駅)に到着する。1909年10月26日「韓国統監府」初代統監;伊藤博文が朝鮮の植民地化に反対する民族活動家<安重根>に射殺された地である。安は裁判で日本の侵略と伊藤の罪状を告発したが、翌年には死刑に処せられた。
 更に平房区には「侵華日軍第七三一部隊遺址」があり、中国人・ロシア人をマルタと称して約3000人を人体実験用に虐殺している。<コースに入っていませんネ。ハイ時間的都合で>。現地ガイドはニッと笑った。日本人の気分を害するような所はご案内しませんよ。あしらわれている!ソンナカンジ…


 ハルビンを象徴する代表的な欧風建築物で観光の目玉ソフィスカヤ寺院。ネギ坊主形ドーム屋根に赤レンガの外壁遺構にビザンチンの影響が見てとれる。1907年、帝政ロシア兵士の従軍用教会として創建されたロシア正教の教会である。どっしりした色合いが絵画のようである。

   

 中央大街(ロシア名・キタイスカヤ=中国人街):帝政ロシア時代の名残を留める街並みでハルビン最大の商業地域でファッションやウインドなど銀座と原宿を合わせたような雰囲気の街路。