年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

年の瀬の嵐

2006-12-30 | フォトエッセイ&短歌
田起こしが終わった田んぼに昼下がりの柔らかな一瞬の陽が落ちている。師走の慌ただしさも年の瀬の賑わいも無縁な雨上がりの田園の佇まいである。東北の新米の出荷時期は年々早まり作業の手順も早く荒起しは年内に終わる。土中にしっかりと酸素を送り込むのだ。
1995年、新食糧法が施行され戦後の食糧難時代に国民を飢餓から救った食糧管理制度が廃止された。過剰米を槍玉に上げながら米を輸入するというノウセイの賜で規制緩和という市場原理の導入が始められた。一日でも早く新米を市場に出さなければならない。たおやかブランド米なら文句はない。農協の肝いりでササニシキの作付けが奨励された。しかし、たおやかなブランド米は耐久力が弱く微妙な天候不順に実をつけることを拒否してしまう。「ササは諦めました」農民は渋い顔で言った。
   

笹谷街道は仙台から奥羽山脈を越えて山形を結ぶ渓流に沿う九十九折りの山間道である。仙台平野から山岳地にかかる辺りに釜房ダムがあるが、そこを3〇分も北上すると秋保温泉に至る。
尾根に出ると薄日に輝く虹が眼前の小さな集落から立ち上げっている。1昨日は低気圧が東北の太平洋岸を襲い大雨に見舞われている。1ヶ月の雨量の3倍が1日で降ったとかで「爆弾低気圧」とも報じていた。そんな天候の影響なのだろうか、年の瀬の東北の空に虹を見た。心洗われる美しい色合いである。
日めくりも2枚を残すだけとなった。捉えどころのないヌメヌメ感だけが通り過ぎて行った気がする。もう惑うような歳でもないのに尚惑おうとする事が気にくわんナ~。やらせタウンミーティングで偽装世論をでっち上げ、戦後の教育の主柱であった基本法を改悪し、その隙間に防衛省設立だから…… サイタ サイタ サクラで咲いた!どんな年が来ようとしてしているのか。明日は「おおつもごり」、あの虹のように透き通るような年を迎えたいものだ。
     
 虹って湖とか沼から立ち上がると聞いていたが、そうじゃないんですねー

影法師

2006-12-25 | フォトエッセイ&短歌
冬至が過ぎた。一陽来復で春に向かって一日一日と日が長くなってくる。没落する太陽がこの日を境によみがえって来ることを発見した古代人は平安の近いことを祝い神々に心から感謝した。神話の天の岩戸も冬至過ぎの光の回復物語だろうとも言われている。

しかし「冬至冬中冬始め」(冬の中間点だが本格的な冬はこれからが本番)で「体に融通をきかせる」という意味で「ゆず湯」で暖まる事になる。
白堂翁の墨跡でキリッと冬至の節気でも感じてみようか。冬至(チョっと読めないが、入試には関係無いから心配御無用と教育基本法を改悪した人たちが言っていた)
1、3,5行目は中国なので略。 冬生じて夏枯る / 鹿角落ちる / 雪降りて麦のびる。<雪降りて麦のびるナンテノモ分からんだろうな~。ナニセ讃岐うどんの原料8割以上がオーストラリア産だもの>  山国の虚空日わたる冬至かな (飯田蛇笏)


路の中央にハッシと駆け寄った二人、気持ちのこもったフレンチキスを繰り返して言った。
「このところ会えなくて心配したわよ。どうしたの?元気なのネ」
「ワシはカクシャクだが、あれがよ、ノロウイルスにひっかかって動けんじゃった」
「寂しかったンよ。アタイの気持ち分かってるの…。孤独なヒト様の癒しのお相手してあげなければならないし、アンタの事で気をつかわせないでよ」
「ワシとて同じ、分かっとる。主が下痢だったもんで心細がって抱かれ放しで出られんかった。衣食が良くなった分要求も大きくなっとるから、ワシらの気苦労も絶えんと言うもんじゃ」
「アンタ、咲くこともなく蕾の恋で終わらせてしまうつもり……」
鎖に繋がれた二人はひとときの逢瀬を引き裂かれるように分かれていった。山の端の陽が長く長く影を路面に写し取っている。ワン様にも辛いものがあるのだ!

里の秋(下)

2006-12-21 | フォトエッセイ&短歌
この季節になると『どじょっこ ふなっこ』(東北地方のわらべうた)を懐かしく想う。パステル画で描いたマンガチックなアニメの世界なのだが、しみじみとした素朴な自然の奥深さと大きさを感じさせる不思議な詞とメロディーである。
<♪♪秋になれば 木の葉こ落ちて/どじょっこだの ふなっこだの/舟こ来たなと思うべナ~> <♪♪冬になれば 氷こも張って/どじょっこだの ふなっこだの/天井こ張ったと思うべナ~>
詞の中に「こ」が散りばめられているが、こんなにも使うのだろうか……東北弁では使うんですネ……「牛の子」(べここのこっこ)

池に浮かぶ枯葉を動かせば小さな生き物たちが面食らって一斉に動き出すのが普通であったし、その様は滑稽であり微笑ましいものであった。開発が進み水面に紅葉が浮くような環境が激減していく同じ時期、農薬が無制限に投下され、化学薬品が垂れ流された。ドジョウもフナも、ザリガニもホタルも死滅した。「メダカの学校」が廃校になって久しい。ヒトサマだけが健全であるわけがなく心と身体の呻吟が始まっている。


既に師走も中旬「里の秋」というのには遅れ気味だが、体感的・ロケーション的には晩秋の県立三ツ池公園である。江戸時代にかんがい用水池として谷戸田の奥に造られた溜め池を利用して計画された緑と池の公園である。戦後30年頃までは田園地帯が広がっていたが市街化が進み公園の一角だけがその里山の面影を残している。
丘陵の自然の起伏を活かしているので横浜近郊の谷戸村の屋敷と田んぼの景観が忍ばれる。約40品種、1000本のサクラが楽しめることから「桜の名所100選」に選ばれている。水鳥の波紋に冬桜が影を落としていたが、爛漫のサクラとはまた違った風情である。
<横浜市鶴見区三ツ池公園>


外苑点景・競技場

2006-12-15 | フォトエッセイ&短歌
紅葉に染まった神宮の杜を見下ろすように国立霞ヶ丘競技場(明治神宮外苑競技場)の偉容が見える。1964年第18回オリンピック大会の開会式が行われたところである。衛星中継が可能となり、オリンピック史上初の世界への生中継となった。カラーテレビが普及し、東海道新幹線が開通するなどオリンピック景気を現出しまさに高度経済成長を象徴するイベントとなった。曲がりくねったが、戦後平和日本の到達点である。

しかしたかだか50年前は広漠とした赤土の砂埃が激しく舞い上がる原っぱ。米国の飛行家、アート・スミス氏は1916年この青山練兵場で曲芸飛行を披露したが、その時の滞在日記がある。結構読ませる。観衆13万人とも報じられている。
 <…余は東京青山練兵場にて日本における第1回飛行を行った。見物の群衆が来襲したので余は驚愕の余り唖然たらざるを得なかった。彼等は暑さと埃の中に8時間も待つのである。埃といえば余は青山ほど怖ろしい埃の立つところを見たことがない。聞くところによれば1年前までは此処は一面美しい草の野原であったそうだが、5千円余を投じてその草を払去ったとの事だ、余は何故に美しき青草を引抜いて埃立つ裸の野原としたのかと了解に苦しんだ……>


この一角に明治神宮外苑競技場が竣工したのは大正15年。しかし、スポーツの殿堂は戦火の中で戦意高揚のイベント会場となる。
昭和18年10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、文科系学生の徴兵猶予が停止。約十万の学徒が大東亜共栄圏の完遂を信じ込まされて戦場へ赴くことになった。明治神宮外苑競技場では、文部省主催の下に東京周辺七十七校が参加して「出陣学徒壮行会」が実施された。歴史に言う「学徒出陣」である。大陸の凍土の中で、南海の孤島で彼等を待っていた運命は余りに過酷であった。過酷な運命を辿ったのが彼等だけではなく、全く関係ない他国の人々や一般の市民をも巻き込んでいくところに戦争の更なる犯罪性がある。

スタンドの大きくカーブする先には何があるのか。分列行進する出陣学徒達の足音が響いて来そうな昨今の政治情勢である。「寒くて大変ですネ」。カップ爺さんは言ったよ「ナンの、天下太平じゃよ…」



外苑点景・銀杏

2006-12-09 | フォトエッセイ&短歌
遅れた秋がようやく神宮外苑の銀杏並木に訪れた。足許から舞い上がる風はちょっぴり冷たく絵筆持つ指先を吹き抜けていく。カンバスの黄色に黄葉したイチョウの葉が舞い落ち絵の中に溶け入った。一心に筆を動かす画家さえもが風景の中に溶け入っている。
 

今日ばかりは絵心がないのが残念だ。信州に隠棲して履き古した登山靴ばかりを描き始めた友人を思い出した。『幾つの山を越えてきたかな… ニッカボッカで流行の「雪山賛歌」を口ずさみ新宿の中央本線を待ったもんだ。夜行の匂い、登山の苦しみが蘇って来る。それはいつしか丸ごとの自分の過去になり、気が付けば夕陽が西に赤くなっているのさ。いいんだよ、この無為のような時間がさ』
ソウカ~、ソウダヨナ~。でも焼き芋の匂いがたまらね~。落ち葉とくれば焼き芋だから。子供の頃のイモばかりのひもじかった頃も蘇って来る。



明治19年、近衛・第一両師団は部隊の教練のためにこの青山の広大な土地を練兵場として使用する事になった。翌年、天皇が初めて近衛兵除隊式を閲兵、以後毎年1月8日の陸軍始の観兵式と11月3日の天長節の観兵式が行なわれた。日清、日露戦争の観兵式もここで行われ、大陸侵略への陣立てで戦意高揚を演出し多くの兵士たちが戦地へと旅立った場所である。まさに大日本帝国軍隊の発祥の地である。
その後、この青山練兵場は「明治天皇の業績を後世に残そう」と公園建設計画が進み、現在では「神宮の杜」(明治神宮内苑・神宮外苑)と呼ばれる市民の憩いの場として親しまれるようになった。
青山通りから絵画館に至る300メートルの銀杏並木は燃え立つ紅葉の頃が最大のページェントになるが、春陽に輝く新緑の時期を愛でる市民も少なくはない。あるいは木枯らしに枝を振るわせる裸木の影の寂しさが何とも言えないという人もいる。尚、殆どを雄株にしてギンナンがならないような植樹にしてあるので、銀杏の木特有の甘酸っぱい悪臭は発生しない。あの匂いも捨てたものではないんだが。

背戸道を下って

2006-12-04 | フォトエッセイ&短歌
相模湾を左手に臨みながら東海道本線が弧を描いて小田原を過ぎると、早川・根府川を経て真鶴に到着する。真鶴は生粋の地魚料理で刺身通にはたまらない。しかし、それ以上に忘れられないのが「小松石」である。硬い話で刺身のツマにもならないが。墓石としては御影石などより優れ建築材としても最高級品である。石質は硬く、耐久性に優れ、磨きによって表出される細かな石肌は灰色から淡灰緑色の微妙な輝きが何とも魅力的である。
箱根火山の活動(40~15万年前)で流出した溶岩が急激に冷却し生成した安山岩。そのために大きな石、小さな石に分裂してしまう<地中でゆっくりと固まったのが花崗岩>




相州小松石が歴史的に注目されたのは、岐阜県養老郡時村「竜淵寺」リュウエンジで発見された奈良時代の墓石が、相州産小松石であることが「石のDNA」で明らかにされた事である。その後も真鶴は石材の郷として発展するが、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて(1192年)以来、都市づくりや社寺の建造に大量に小松石が使用される。
そして徳川家康が石屋善衛門を関東石匠棟梁に任命し江戸城の石垣を築かせてからは幕府の管理下におかれる。ブランド品の独占である。
すなわち、江戸時代の300年間、石材供給のため、徳川御三家(紀州、尾張、水戸)及び松平家、黒田家などが真鶴の各所に「御用丁場」(官営採石場)を開いて石材を江戸に送り続けた。西念寺参道には石丁場を開設した黒田長政の供養の碑が建てられている。

      

石丁場から一望する真鶴港。当時「相州石」と呼ばれていた小松石がその名を馳せたのはこの良港のお陰である。石船が相模湾から江戸湾に連なったことであろう。小松石の芸術的な石垣に囲まれた「背戸道」を下って港に着くとコンクリ製消波ブロック(テトラポッド)に混じって小松石の消波ブロックが圧倒する。
自然石の表面は酸化し赤褐色をしているので、庭石、記念碑、飛石にも珍重される。