年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

立夏・寛永寺

2008-05-12 | フォトエッセイ&短歌
 家康と二代将軍秀忠の葬儀は芝の増上寺で行われ、徳川将軍家の菩提寺は増上寺に定着するはずであったが、三代将軍家光は秀忠との確執から葬儀は上野の寛永寺で執り行う事を遺言した。こうして、徳川将軍家の菩提寺は<芝の増上寺>と<上野の寛永寺>の2寺が並立し、家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定の6人は寛永寺に眠っている。
 家康の信任を得た天海僧正は江戸城鎮護の祈願寺として寛永寺を創建。それが菩提寺となったのだから、天台宗の関東総本山に格上げされご威光は絶大になった。

<柔らか若葉を透して立夏の木漏れ日が寛永寺山門に降り注ぐ>

 それから約250年、幕府の鎮護を託された寛永寺の神通力も外様の田舎大名には効力を発揮せず、戦わずして投げ出された。江戸城の無血開城である。しかし、気骨のあるというかラストサムライがいたんです。彼等はここ上野寛永寺に立て籠もり戦意高揚。
 しかし、最早、ラスト侍もお上に楯突く賊軍、幕府体制のバリケードである寛永寺に立て籠もった訳だから、薩長官軍は此処を先途とばかりに襲いかかる。1868年の彰義隊による上野戦争である。
 意気はともかく歴史の流れには勝てず彰義隊はわずか半日で潰滅、壮大な規模をほこった寛永寺の堂塔伽藍もこの戦いでそのほとんどを焼失した。官軍は寛永寺を旧体制の象徴とみて必要以上に徹底的に焼き払ったと伝えられる。祠堂32宇,子院36坊,伽藍7堂など主要伽藍を焼失した。
 
<大名達は忠誠の証しとして巨大な灯籠を競って奉納した。春日型の石灯籠>

 上野戦争で焼け残ったいくつかの貴重な文化財も第二次世界大戦時の東京空襲で殆どが灰燼と化した。それでも、二つの戦災をまぬがれた古建築が上野公園内の各所にわずかに点在している。
 如何なる理由を付けようとも正義の戦争はない。原爆はそれを象徴し我々に訴えているのである。碑の文<20世紀の伝言:共に平和と人生を語りたい。百年後の人々よ ここに私たちの手紙を埋蔵します。『百年後の人々の手紙』実行委員会>
   
<「永遠に平和を誓う広島・長崎の火」が鳩の胸の中で燃え続けている>