年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

三渓園・池

2008-05-25 | フォトエッセイ&短歌
 横浜の本牧にある国指定名勝の三溪園は<原 富太郎>が屋敷を横浜市に寄贈(昭和28)した事から始まる。譲り受けた横浜市は戦災で荒れた広大な屋敷を復旧再興して市民の公園とした。約18万㎡の日本庭園は、四季折々の自然の景観のなか、歴史的建造物が巧みに配されている。
 古く外苑は明治39年には一般にも公開され大池に映る三重塔はランドマークとして壮麗な日本庭園を象徴する。現在は、財団法人三溪園保勝会が管理維持している。

<京都:燈明寺から移された三重塔は関東地方では最古の塔。1457年建築>

 <原 富太郎>は何者なのか。書画骨董に造詣が深く、茶人で絵を描いたりし、岡倉天心と交流を持ち<原 三渓>と号した。また、新進芸術家の育成や支援も積極的に行い、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品もこの園内で生まれた。
 1892(明治25)年に、跡見女学校の教え子であった実業家:原善三郎の孫娘、屋寿(ヤス)と結婚し、原家に入籍。生糸の生産・輸出を近代化すなど経営の国際化に力を入れ、経済人としても辣腕をふるい実業家として成功をおさめた、とある。

<原三渓は岐阜県の人(本名:青木富太郎)。白川郷の庄屋の合掌造を移築>

 1906(明治39)年、外苑が完成すると「明媚なる自然の風景はみだりに私有すべきではない」と一般公開したというのが面白い。本人はセッセセッセと私有化に奔走したであろうに…

<内苑出入り口の睡蓮池。中には京都の桂離宮と対比される臨春閣がある>