年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

根津神社・団子坂

2008-05-22 | フォトエッセイ&短歌
 根津神社は花の中にある。境内の左側の傾斜地は一面のツツジの植え込みである。赤・白・ピンクの花が盛り上がって咲き誇っている。仄かな甘い香りが漂う花園を歩けば過ぎ去った青春の一ページが蘇って来るだろう。
 夏目漱石や森鴎外など多くの文豪が思索しながら散策したのがこの根津神社の境内である。水飲み台の裏面には:明治37年建立・建立者:森林太郎(鴎外)の銘が見える。

<ツツジの花も終わりに近づき緑に変化する季節。最後の花見客で賑わう> 

 根津裏門坂を日本医大病院に沿って右側が深い谷になっている本郷台地の傾斜地を団子坂に向かって歩く。100mも進むと夏目漱石が住んでいた貸家(居跡の碑)がある。『我が輩は猫である』『坊ちゃん』等を執筆した家で「猫の家」と親しまれていたとか。実は漱石の前には鴎外が住んでいた(現在は明治村に移築保存)。
 その後、森鴎外は少し離れた団子坂に居を構え60歳で没するまで、30年間ここに住み『舞姫』『阿部一族』等を書いた。彼はその自邸から東京湾が一望出来る事から、「観潮楼」とよんで歌会などを催した。現在は「鴎外記念図書館」として公開されているが、火災と東京空襲で建物は焼失。当時を偲ぶものはイチョウと庭石だけである。

<史跡:「観潮楼跡」と記念図書館。その壁面の碑は『沙羅の木』の一節>

 団子坂は潮見坂とも呼ばれている。現在、団子坂下を見れば不忍通りは廃ガスで曇り、その先は住宅が密集し更にその先は都心の高層ビルが林立している。漱石・鴎外の頃は汐の香りが届きそうな海原が望めたという。
 この団子坂は多くの文芸作品に登場する。江戸川乱歩の「D坂殺人事件」、森鴎外の「青年」、二葉亭四迷の「浮雲」、宮本百合子「田端の汽車そのほか」などの他、夏目漱石の作品には、しばしば団子坂の名前が出てくる。
◇ 森鴎外『細木香以』
「団子坂上から南して根津権現の裏門に出る 岨道に似た 小径がある。これを 藪下の道と云う」

<明治時代には二間半の狭い急坂道。転ぶと泥まみれの団子のようになったとか>