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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

プチぶれんど

2007-02-12 18:03:35 | 遠野
 駿河国のyamaneko氏来遠、宮城のタマ千代さんも都合をつけて来遠、遠野発信、関連の人気ブログ管理人さんがお揃いになるということで、遠野在のぶれんど仲間で懇親会を催しました。

 大きく懇親会開催の件は広めておりませんでしたが、昨年11月に開催した云わば遠野ぶれんど会の旗揚式みたいな集いでは遠野内外から18名の皆様のご参加をいただきましたが、今回はミニ、プチぶれんどという位置づけながらも新規ご参加の方々も含めまして9名の参加、夜が更けるのも忘れて大いに語り、和やかにそして楽しい一時を過ごしました。

 一夜開けて、お二人の遠野通いブロガーさん達は、いつも通りそれぞれの取材を朝早くから敢行、その合間に皆で昼食を・・・ということで5名で昼食会兼解散会をいたしました。



 遠野食肉センターにて・・・・食肉味噌ラーメン

 昨日の今日ということで、やはり汁物が喉を通りやすいと判断、味噌ラーメンを注文、しかし、折角でもあるし遠野名物のジンギスカンも少しは食べてみようということで、二人前を注文、味見程度でしたが、やはり美味かった・・・笑

 そういえば八戸の藤九郎さんをお迎えした際も同内容だったと思い起こしました。自分的には定番メニューということになりますな・・・汗

 昼食も済み、少し今後のことやらお二人の午後の部の取材場所等の詮議やら・・・こちらも楽しく過ごしましたが、タマ千代さんはご帰宅予定、山猫さんはもう一泊して遠野を満喫されるということですが、ここで一応、今回のぶれんど会は終了、次回は3月か4月かという雰囲気、いずれまた再会いたしまして、楽しくやりましょう・・・。


 さて、11日でのプチ遠野ぶれんど会の模様


 見づらいかと思いますが・・・・9名のご参加

 午後6時過ぎから始まった懇親会、大いに語らい一時会は9時過ぎまで、その後、いつものニ次会のお店に移動、こちらは23時過ぎまで、さらにラーメンをいただいて、帰宅したのは24時を完全に回っておりました。
 結構飲んだと思いますが、調子が良かったのか二日酔いもなく、スッキリした朝を迎えました。

 

 それでは恒例の・・・・笑


 2次会も和やかにはじまり・・・・

 
 私のアニメソングを皮切りに・・・・その前に谷村新二があったな・・・笑





 なんとも罰当たりなことではありますが、タマ千代さんからのリクエストにてぶれんど七福神(人)・・・汗・・・少し手抜きはしておりますが・・・。



 そして、いつもの如くお疲れモードの・・・


 ニ次会場で一度ダウン、カラオケが始まると復活、しかし〆のラーメンを食べた後、夢の中へ・・・・お疲れ様でした。


 それではまた次回、会いましょう・・・・。
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ホウリャウ(宝領)

2007-02-11 17:02:30 | 遠野
 遠野ぶれんど仲間である山猫氏来遠、遠野駅にてお迎えした後、土淵の某場所にて笛吹童子さん、FD岩氏と合流、遠野関連ブログで話題となった宝領探しをまずは行ないました。


遠野駅

 山猫氏をお出迎えの際に画像に収めたお雛様・・・駅待合室


 かねてから情報のやり取りをしていたせいか、難なく宝領社を発見。





 さらなる宝領を探すも空振り、その他の社、祠を求めて米通、山口、柏崎、飯豊、青笹沢田・・・この際に花館も見学、さらに中沢、上郷、中妻・・・・数箇所の探訪となりましたが、今宵は「ミニぶれんど」となります。
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伝承行事の危機回避

2007-02-10 21:58:56 | その他
 本来は勤務日ながら、地域の伝承行事に関る内容の役員会が夜から開催されるということで、役員でもあり、お休みをいただいて出席してきました。

 以前にもエントリーしておりますが、駒木妻の上の奥深くに鎮座しております大沢不動、この場所が国有林内ということで、間もなく木々の伐採がはじまるということで、国有林内の工作物、さらに山道を含む場所を買い取るか、或いは貸借契約をするか、この案件の結論を出す時期ということで、今回役員方が召集されたものです。



 上、下駒木両集落の輪番役員、別当さん、区長経験者の方々


以前の記事こちら 

さて、森林管理支署側の説明も来る度に二転三転、また買取にしても借り受けるにしても金額もだんだん増えているということで、皆さん憤慨気味、また昨年秋と晩秋にとして必要な箇所の杭打ちやら記しをつける作業を実施するも、その時の面積も今回とはまた数値が異なること、公の立場の仕事をしている我身ながらも、住民の立場なら、文句のひとつも言いたくなる対応・・・・。

 しかし、今回が最終の説明及び結論を出すということでもあるので、ある程度は皆さん我慢・・・・・

 ところが午後7時にはじまった集まりも9時になってもいっこうに進展しない、昔話から、仕舞には市当局にもその責はある、市に買い取ってもらおうとか、いやいや、お堂そのものを別場所に移動させようとか・・・・。

 私は一言も発していない、言える立場ながらも、言ったら何を言われるかわからない雰囲気、本音は貸借契約を結んだほうが金銭的にはかなり安い、どうして誰も言わないのか・・・不思議で仕方なかった。

 要するに集落の方々に誰が説明し、誰がお金を集めるのか、説明責任は誰が、反論があったり、従わない方々はどうするのか、このことが面倒、厄介という雰囲気、最後にある方がここは貸借契約しかないなの呟きから、まずは貸借契約を結び、今までとおり行事を続け残そうということになりました。

 いずれ、昔から続けられた行事、しかも知らないとはいえ何も言われずに脈々と行なってきた行事、今さら何をいうのか、大目に見れないのか、そんなことが根底にはあるようです。
 

 おまけ

 滝沢のスイカ


 北海道風牛乳入り味噌ラーメン

 割と美味しかったです。
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野田一揆来遠

2007-02-09 10:25:14 | 歴史・民俗
 まずはお知らせ・・・
 11日のミニぶれんど会・・・時間・午後6時30分~
               場所・居酒屋酒蔵(待月)
               以上、ご参加よろしくお願いします。


 野田一揆・・・・弘化4年三閉伊大一揆

 江戸時代の弘化4年(1847)、三陸沿岸部の百姓衆、野田村の一揆は寄々の村々の百姓を吸収して三陸沿岸を南下、弘化4年11月20日頃に発生した一揆は27日には大槌に至った。

 大槌や山田の代官所からは既に24日、遠野に通報が入っていたが、沿岸各地の代官所等での一揆解散の説得も失敗、盛岡藩当局としては、なんとしても仙台領への越境だけは阻止しなければならないが至上命令だったようです。
(釜石の唐丹は仙台藩領)

 土淵境の峠のある山々


 一揆勢は当時盛岡藩でナンバー2でもある遠野南部家へ訴え出、盛岡へ取次ぎを懇願するという目的で、大槌から遠野へ進路を変更、和山や新山の峠を越え、さらに川井の百姓達も合流して遠野へ押し寄せてきた。

 その数、1万2千人・・・1万五千とも4万ともいわれますが、前者の1万~1万5千の間の数値が正しいようです。

 遠野城下はまさに臨戦態勢、甲冑に武器を携える遠野武士達が慌しく城下を駆け回り、上組町や早瀬川原左岸には幕を張った陣が次々と現れたという。

 駒木村や松崎村、光興寺村、土淵界隈の村々では住民達が山へ隠れ、新張村の人々は早瀬川を渡って城下に避難してきたともいわれます。

 12月2日、一揆勢は遂に早瀬川原右岸にその姿を現したという、新張側は一揆勢1万を超える百姓達に埋め尽くされたといいます。

早瀬川原



 画像は上早瀬橋付近ですが、現在の橋の少し下流側に盛岡藩、遠野南部家の軍勢が陣を張っていたようです。

 遠野南部家家老加判の新田小十郎長辰が一揆勢との交渉役となり、盛岡藩、遠野当主、南部弥六郎の指示の下、交渉は成功、一揆側の訴えはほぼ認められたといいます。


 現白幡神社・・・一揆側との交渉の場となった川八幡とは今の白幡神社だろうといわれている。



 上組町~早瀬、新張方面・・・一揆勢は夜になると八幡山界隈、飯豊、糠前まで移動、野宿したといわれる。
 

 一揆勢は統率もとれ、一揆にありがちな打ち壊しも起らず、遠野南部家では百姓達の帰りの路銀を提供、資金は村兵、赤羽根屋、両川、佐々徳屋、館屋、松兵衛、佐五兵衛、外女郎屋四軒が工面したとかで、一族縁者知人まで動員して2万2千貫、1文銭で2千万枚という膨大な数を一晩で準備、しかも百文ずつ藁に通す作業だったと伝えられます。

 また、家中の侍ほとんどが戦仕度で警戒、さらに町人も夜回りや警備の任につき、城下には1千人の軍勢、この城下方のまかないは大変だったようで、女達はこれらの飯炊きに借り出され、農村でも白米に精米する作業に従事、11月28日から12月6日までの8日間で、560石の米が消費されたそうです。

 12月5日、百姓達は遠野の町見物後の夕方には遠野を去り、翌6日朝には誰も居なくなったということで、軍勢の引き上げでもこれほど見事なことはないと後々まで賞賛されたという・・・・


 詳細は「遠野南部家物語」をご覧ください。
 こちら


 

 おまけ

 遠野北小学校の授業参観、高学年は薬研太鼓の引継式ということで、末娘の最後の勇姿を画像に収めようと出かけましたが、時間を勘違いしてしまった。
 少し遅れて到着、既に太鼓は始まっていたが、娘の出番も終っていた・・・涙



 残念・・・。
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闇の西風館襲撃事件

2007-02-07 16:19:08 | 歴史・民俗
 まずはお知らせ・・・・

 遠野ぶれんど仲間で遠野通いブロガーの山猫氏(駿河国在)が来遠予定です。
 11日午後に遠野入り、夕方から街でミニぶれんど会を催すことにいたしましたので、市内ブロガーの皆様、コメンテーターの皆様、ご参加をよろしくお願いします。
 なお、亘理のタマ千代さんのご来遠は6割、7割方のお出まし方向ということですが、きっと遠野へ来られるものと思いますので、是非にこの機会に山猫氏、タマ千代姫にお会いになられまして、遠野関連情報、ご意見の交換方々、親睦を深められますことをお願いいたします。

 後日、懇親会場をお示しいたします。

jengo2@mail.goo.ne.jp
↑に参加表明と共に連絡先等お知らせいただければ嬉しいです。悪用はいたしません・・笑



 本題・・・久しぶりに綾織町新里の西風館跡を探訪して参りました。



 何度となく遠くから眺めるも、3度目までは実際に山野に分け入ることが出来なかった西風館跡。
 場所の特定は出来ていても入山口が特定できず、しかもかなりの高位置にある館跡ということで躊躇もしておりましたし、何よりもその昔、館主一族がほぼ壊滅する戦いが繰り広げられた曰くつきの場所柄、決して一人では行かないでください・・・ではないが、かなりこのことも根底にあって、なかなか足を踏み入れることが出来なかった館跡でもありました。

笠通山方面


 館下は母親の実家、叔父や大叔父から千人堀と呼ばれる大き目の堀跡があるはず、さらに郷土資料には度々取り上げられる一族、宇夫方氏縁の館ということで、遠野でも大き目の館域を誇る雰囲気があって、ここは是非ともということで、3年前の初冬に意を決して探訪、きつい山野ながらもイメージ以上に良好な遺構を残すすばらしい館跡でもありました。

主郭背面の空掘跡と土塁跡(一部)

 三重の堀で背面の峰を断ち切り、少し風化が進んでいるが、それぞれの空掘が複雑に交差していただろう痕跡がある。
 また、堀底の高さ、幅共に遠野では大きい部類に入り、一部藪に覆われてはいるものの、見事と思わせる遺構を残しております。

前面の帯郭




 堀跡も見事なら帯郭も見事、整然と5段からなる段状の形状が前面の斜面に張り巡らされている姿は圧巻そのものです。


 探訪4度目にして初攻略、5度目は八幡社のある下部の山野を探訪、6度目は八戸市在のI氏と共に探訪、前面の帯郭を共に見、そして今回7度目、なんとか新しい画像と図をとる事ができました。



 さて、冒頭でも少し触れてますが、一族壊滅の憂き目にあった館落城の顛末

 西風館は綾織方面を領していた谷地館主(二日町)の宇夫方氏が宝徳合戦(宝徳2年1450)に隣国葛西領の金成右京太夫が率いる葛西勢に突如として攻撃されるも鱒沢氏、宮守氏、達曽部氏、稗貫郡の大迫氏の援軍を得て撃退、しかしこの戦いから遠野代官として、また盟主と君臨していた宇夫方氏の勢いは陰りがみえはじめる。

 平城の谷地館の防御性能の限界を感じたのか、宇夫方氏(宇夫方守儀)は山城の必要性を痛感したと伝えられ、新里の地に西風館を築き、子の広豊に新館を与えたとされる。

 守儀の嫡男広豊は西風館を弟の広国に与え広国は分家となって西風館氏を名乗ったといわれる。

 宝徳合戦から約100年の後、広国の孫の代、広本の時に弘治3年(1557)、突如としてまたもや葛西勢の襲撃を受け、しかも夜襲だったと伝えられ、不意を付かれた西風館は館主広本をはじめ嫡男広将、次男、そして郎党の多くも討死と伝えられ、辛うじて奥方に抱かれて難を脱した三男広久(後の西風館大学広久)のみが逃げ延びたと伝えられる。
 この事件で遠野西側勢力の重鎮、宇夫方氏は壊滅的な打撃を被り遠野の歴史からひとまず姿を消すことになりますが、宇夫方氏の本流は広豊とあり、西風館は弟の広国に与えられ分家であるといわれる。

 この時、本家の宇夫方氏はどうなっていたのか、伝えられる系図等によれば、西風館がいつしか嫡流かのような記載がされ、この事件にて宇夫方氏の動向が伝えられないことを鑑みますと、宇夫方一族は西風館氏が嫡流となり、本来の宇夫方氏もそれ以前に衰退していたものか、或いは西風館氏没落により、同じ命運を辿ったものなのか、いずれ江戸時代に遠野南部氏に仕えた宇夫方氏は西風館大学の末裔でもあるので、西風館氏が宇夫方一族の嫡流となっていたものと思われます。

 この襲撃事件、まさにどのような戦いがあったのか、誰に攻められたのか、全く伝えられていないという・・・葛西勢ということになっているが、葛西勢はどのようにして遠野へ侵入してきたのだろうか、これは主家阿曾氏沼氏の影がちらついているのではと先人の研究者も唱えておりますが、まさにその匂いがいたします。

 他国の軍勢が密かに遠野に侵入、しかし、これほど各地に大小の館が配置されている遠野、必ずやその動きはキャッチされるはず、これは遠野の内部で手引きし、通り道の館、村々に緘口令を布いていた雰囲気が感じられる。

 そもそも遠野でも大きな勢力だったとはいえ何故に宇夫方一族の西風館をターゲットとしなければならなかったのか、これには主家と宇夫方一族との何かしらのトラブルか、主家による陰謀等があったものと推測されます。

 ということで長くなりましたが、さらなる詳細は本編サイトにて後で掲載予定です。


 おまけ

 味噌カッパラーメン

 たかむろ水光園清流亭

 かっぱとは遠野のラーメンでは辛いを表すものと思っていたが、まさにその通りで辛味噌ラーメンでした。
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歴史数えた唄風

2007-02-06 17:12:33 | 遠野
 午後は青空か広がり春のような気候という天気予報ながら、雨模様、エントリーの画像収集に出かけるも途中で断念、よって以前の画像をひっぱり出してご紹介いたします。
 天気予報は昨夜のもの、今朝のものは確認していない・・・汗


 てずからさんや山猫さんも数え唄風に自ブログでご紹介されてましたが、当方は遠野の歴史関連の数え唄、節回しや語呂は無視しております・・・・笑


壱(一)

一里塚

 宮守町迷岡の一里塚
 慶安年間に遠野南部家の命により遠野城下宇迦神社を始点に花巻街道に作られた一里塚。
 駒形神社脇に現存しており、当時の街道は現在の国道ではなく迷岡から鱒沢に通じていたことが窺い知ることでもあり、その遺跡もほぼ当時の形でのこされています。


弐(二)
 二日町の何かと考えましたが、二日町の谷地館とかお寺とか、なんでも繋がってしまいますので、今回は弐は省きます。

参(三)

三戸守行

 三戸守行(南部守行)の墓・・・附馬牛町東禅寺
 三戸南部第13代、三戸南部中興の祖といわれ、北奥羽で多くの伝説的な逸話を残す武将であるが、永享年間の室町初期、気仙勢、大槌勢に包囲された遠野横田城の援軍として南部勢を率いた三戸守行が来援、気仙勢に上宮守神成館で一度は敗れるも、退却と見せかけて達曽部~附馬牛への間道を抜け、突如として松崎へ乱入、大いに気仙、大槌勢を打ち破るも大槌城での戦いで流れ矢にて討ち死に・・・遺体は附馬牛東禅寺に埋葬されたと伝えられる。

 しかし、私は守行が遠野へ来たものかは疑問であり、三戸南部氏が当時北奥羽で覇を唱えていたかも疑問視している。
 討死にした年齢は79歳ともいわれる当時としてはかなりの高齢でもあったという。




四戸三平

 四戸三平の碑・・・松崎町白岩 遠野郷八幡宮境内
 遠野出身、盛岡藩士。
 幕末~明治初期に活躍した馬術の天才、明治新政府の下、近衛連隊騎兵の教官を歴任、三平の弟子の多くは後に曲馬サーカスの師匠を輩出、まさに軍馬、馬術の神様と賞賛された人物であった。


伍(五)

五日市館

 五日市館の愛宕社・・・土淵町土淵五日市
 阿曽沼時代、五日市は市が開催され、五日市館と共に繁華な地域であったと伝えられる。 
 館主を五日市又五郎と伝えられるも詳細はわからず、今は館跡山頂に愛宕社が鎮座し、東側山麓には五日市集落が佇んでいる。




六郎

 南部神社・・・鍋倉城址
 遠野南部歴代8世を祭神とする神社であるが、初代実長公は南部六郎実長、5代政長公も六郎と称し、八戸から遠野へ入部した歴代公は弥六郎と称していた。

 甲斐国波木井(山梨県身延)を領していた南部実長公、実継公、長継公と4代南部師行公の関連は最近の研究では史料の上ではその関連性が見えないとの見解が主流となっている。(師行公は長継公の養子として本家から入ったと通説では語られる)

 遠野にての南部氏研究も通説にとらわれない最新の研究成果を導入しつつ、検証のし直しが必要と感じます。

 余談で失礼なことではございますが、遠野旧事記の口語訳を著された○原先生もまた六○氏といいますが、遠野の偉人として加えさせていただきます。
 その功績はすばらしいと私は思います。




七観音

 遠野七観音・・・七番笹谷観音・・附馬牛町東禅寺沢の口
 嘉祥年間とも斉衡年間(848~856)ともいわれ、天台宗開祖の最澄の高弟、慈覚大師円仁が早池峰山妙泉寺を草創し、その際に霊木を得て一本の木から七体の観音像を刻んで七箇所の地に安置したのがそのはじまりと伝えられる。

 一番・大慈山長福寺  山谷観音(小友山谷) 
 二番・麦沢山松崎寺  松崎観音(松崎)
 三番・谷行山細山寺  平倉観音(上郷平倉)
 四番・鞍迫山福滝寺  鞍迫観音(宮守上鱒沢)
 五番・月見山平沢寺  宮守観音(宮守上宮守)
 六番・大月山栃内寺  山崎観音(土淵栃内)
 七番・附馬牛山長洞寺 笹谷観音(附馬牛東禅寺)

 寺の焼失や荒廃さらに秘仏の行方知れずやら、その実態がなかなかつかめないものではあるが、そのほとんどが江戸時代になってからの復興といいますか再興が語られ、以前の姿は言い伝えのみがその主でもありますが、機会がございましたら七観音全てをお参りすること、是非にお薦めいたします。




八幡太郎義家伝説

 八幡太郎と足洗川
 前九年合戦にて敗走する安倍貞任を追って八幡太郎(源義家)は遠野へもやって来たと伝えられる。
 義家の愛馬の足を洗った川を足洗川と呼び、源氏軍が陣を敷いた場所を八幡座と伝えられ、安倍軍と矢合戦が行なわれたと伝承されている。 

 土淵町大杉には安倍貞任の弟の屋敷があったり、貞任山やその他その逸話を残す箇所が伝えられている。
 前九年合戦との関わりを深く残す地、遠野、この時代もまた大いに研究すべきではあるが・・・・・。

八幡太郎義家の像は群馬県内のものです。遠野にはございません。
 



九曜紋

 遠野南部家の裏家紋

 南部家の家紋は南部鶴と称される双舞鶴紋であるが、遠野南部家の場合は、家臣には自家の家紋がついた羽織とさらに主家からいただいた双舞鶴紋或いは九曜紋が入った羽織があったといわれている。
 主家からの羽織は先祖が何かしらの功で下賜された場合、または殿様の代理として何かの役に就いた際にいただいたもの等とされますが、九曜紋の場合は家老加判の新田氏からいただいたものといわれている。

 下賜された紋付羽織は何かの祭事やら行事で着用が義務付けられ、これら羽織は古ければ古いほど価値があって、身分問わず羽織が示す先祖の功労で席順がその時だけ変わったといわれるくらい大切なものだったそうです。

 九曜紋も裏家紋とはいえ、表で幅を利かせる効果がある存在でもあったようです。


拾(十)

拾戸

 遠野盆地

 流石に書き込みだけで若干疲れました・・・・笑

 遠野南部家より市に寄贈された古文書の写本、一頃新資料の発見とか遠野が拾戸、すなわち南部領の十番目の戸とか話題になりましたが、これは何も知られざる歴史でもなく、遠野市史やら南部家文書をまとめた書籍にも活字として記載されている内容で、写本が出てきたからといって今さら騒ぐようなことではない。

 強いていえば、遠野南部家の現当主様から本物を写した極めて本物に近い内容をいただいたということが凄いことで、その歴史的価値等をもっと評価するべきで、他の資料もさらに大切に保管なり、解読するなり後世に伝えることが肝要かと私は思います。

 さて、拾戸は遠野、これは太守南部利直から遠野転封により遠野の知行に関する調査目録を八戸直義がいただいた黒印状ですが、その中に「拾戸(とおのへ)遠野村付の目録」と記述されている。

 これにより遠野は拾戸、十番目の戸と認識するものですが、確かに太守の利直が発給した公文書でもあるし、太守自らもそういう認識だったと推測されます。

 しかし、ではそれ以前から遠野は拾戸と呼ばれていたかといえば、それは確認できず、また遠野へ八戸氏が入部し、後の時代も拾戸といわれていたか、または公文書に拾戸と書かれていたのか・・・といえば私は今の所確認していない。

 おそらく、南部利直とその側近達によるその時だけ遠野は拾戸という位置付けとした内容で、それだけ遠野は領内の南境として重要拠点であり、また八戸家に対してもそれだけ重みのある大切な地へ移っていただくという意味合いがあったものだろうと私は考えます。

 ということで・・・・・どんどはれっ
 
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書き下し文

2007-02-04 19:09:54 | 歴史・民俗
 朝は5cm程度の積雪、日中は時折陽が射すも土淵でいう「ふきらんぷ」すなわち吹雪模様、立春にして真冬の佇まいとなりましたが、考えてみればこれが今時期普通なことでもあるのに、何処か安心している自分が其処におります。


自宅庭先


時折の吹雪



 
 さて、本題の「書き下し文」・・・・



 「御者頭手鑑」文政5年の頃の筆写
 「内等類留抜」文政10年~天保4年・正徳5年~6年
 「弘化4年百姓一揆」

 いずれも遠野家中での出来事を日記風に書き記した資料ということになりますが、弘化4年の三閉伊百姓一揆については、ウエブサイト遠野南部氏物語でご紹介しておりますし、後日、ブログでも早瀬川等舞台となった地を訪ねて現在の風景と重ねながらご紹介予定としておりますので、詳しくはその時に・・・・

 いずれ、家中の者が実名で掲載、出奔した者、或いは女中と駆け落ちした話、火災のこと、盛岡遠野屋敷でのこと等・・・・当時のことが少しではありますが垣間見れる内容と共に書き下しということで、私のようなものでもなんとか読めるといいますか、雰囲気が掴める内容でもあります。

 こうした史料の元本は、痛みが激しかったり、作者不明であったり、元本そのものが行方知れずで写本が残されていただけとか、また解読ができなかった文字等もあったりと随分と苦労された跡も感じられる貴重な資料でもあります。

 こうして素人とはいえ私の手元にもこれら資料があること、なんとか今後の研究にも活かしていきたい、そんな思いがいたします。

 大事に活用して参りたいと思います。

 

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節分

2007-02-03 16:49:53 | 遠野
 「鬼は外、福は内、パラパラパラと豆の音・・・・」と子供が幼い頃は保育園なんかで歌わされましたし、仕事で鬼の格好をして避難訓練なんかで行けば、子供達におもいっきり飴や豆をぶつけられ、中にはカンチョウや蹴りをいれられたり・・・・涙・・・まさに鬼は辛いと思いましたよ・・・笑




 男は大厄42歳、女は33歳・・・
 しかし、他に男は2・5・8、女は3・7・9が付く歳が厄年とされております。
 福泉寺での節分には多くの厄年の方々が訪れご祈祷を受けられ、豆まきが行なわれました。


 まずはご祈祷、護摩焚きが行なわれ、その後に豆まき・・・


 福泉寺では福は内のみの掛け声





 片付けが大変なんですよね、と小声でつぶやきますと皆さん、最後の一粒まで拾われて帰りました。


 節分・・・

 1年には季節の節目に節分があって、立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分というそうです。
 
 なかでも立春の頃の節分は一年で言う大晦日に当り、暦的には新年は翌日から始まるといった大きな節目でもあるとのこと。
 


ネネ


 猫には関係ないにゃ~
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興光寺館跡

2007-02-02 15:12:53 | 歴史・民俗
 寒気が強まりまとまった積雪との予報は見事的中ながら、積雪は数センチ、お昼過ぎにはほとんど融けてしまった。
 それでも時折、小雪が舞ったり風も吹いたりと寒いには寒いですが、どこかしっくりこないが正直なところです。

光興寺橋方面・・・2月2日(雪はほとんど融けてしまった)



 興光寺館跡

 2月1日、横田城につづき、探訪してまいりました。

 興光寺館跡

画像は2月1日のものです


 標高340m・比高70m
 館主・興光寺靭負(こうこうじゆきいえ)・天正年間~慶長年間

 遠野バイパス、光興寺橋正面の山野で主郭とみられる頂部の平場は南北10m東西9m。
 郷土資料には南北36m、東西12mと記述されているが、どうみてもその半分程にしかみえない。
 北西側の背部は二重の空掘で峰を断ち切っており、土砂等の堆積等も含めて風化が著しい・・・・。

 空掘跡


 興光寺氏は阿曾沼氏重臣というよりも、直臣といった印象があり、興光寺館からは眼下に畑中、小平の村々(バイパスを挟んで北が畑中村、南が小平村)が見渡せ、遠く松崎館、海上の八幡館も見ることができ、これらの監視をも含む物見場的な館だったのではと考えております。

 興光寺靭負は遠野阿曾沼最後の当主、孫三郎広長に従って遠野勢の侍大将として南部勢の一員として最上に出陣、広長留守の遠野は鱒沢広勝、上野広吉等の一門、一族による謀反が起こり、広長は遠野への帰還が果たせず、気仙郡世田米(住田)へ亡命、広長舅の世田米広久や伊達政宗の援助により3度、遠野奪還の戦いを繰り広げますが、興光寺靭負は二度目の戦い、赤羽根峠の戦いで討死と伝えられ、主君に最後まで付き従い、最後は戦場の露と消えたことにより、阿曾沼氏の忠臣として語り継がれております。

 残された興光寺氏縁の人々、ご子孫がどうなったのか、その系譜は伝えられているのかは、不明です。


松崎館方面

 松崎館主の松崎監物もまた、興光寺靭負と共に一方の侍大将として広長に従い、同じく赤羽根峠の戦いで討死。
 こちらも忠臣として語られております。

 さて、興光寺館跡の山にもお宝伝説があって、瓶に漆と黄金を入れ土中に埋めたという伝えがあるとか?


 なお、光興寺を興光寺と記述しておりますが、以前は興光寺なそうで、館跡に隣接の山野に興光寺という寺院が存在していたようです。
 後に廃寺となりましたが、江戸時代の明和年間に大慈寺19世、義山和尚により再興、興光寺を光興寺に改め、いつしか村名も興光寺から光興寺になったとか・・。


 おまけ

 今年の館跡探訪をとりあえず開始いたしましたが、まずは今まで探訪した館跡の縄張図的な図面及び画像の収録をと考えて、新規に探訪する館跡、再訪となる館跡が混在した調査になるものと思われます。
 その中でもまずは地元松崎町を主に考えておりますが、下記に横田城の図面を掲載いたしました。

 一般の方々が見てもイメージし易い図面と思いましたが、なかなか難しく、しかも位置のずれやメモの取り忘れ、度忘れもあって若干適当な面もみられます。
 いずれ、3Dとか立体的で誰が見ても解りやすい内容に徐々に取り組んで参りますので、とりあえずご勘弁願います。

横田城(遠野市松崎町)
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横田城(護摩堂館)

2007-02-01 18:15:59 | 歴史・民俗
 雪の無い穏やかな新年を迎えたと思えば、そのまま1月は早春のような天気が続き、早2月・・・。
 1ヶ月はあっという間で過ぎ去ったという感じです。

 さて、午後辺りから寒気が強まって冬らしい天気となるとの予報、予てより最新画像の収録、縄張図的な図面作成を考えていた地元松崎町の城館跡めぐりを早期のうちに実施したいと考えておりましたので、雪が降る前の午前中勝負と位置付けて、光興寺の横田城跡と興光館跡を探訪いたしました。

横田城跡(護摩堂)・・・主郭に建つ薬師堂


 地元遠野の城館跡調査をはじめて4年、ここ横田城には何度となく通ったが、当初は薬師堂の建つ平場のみを画像に収めるだけ、しかもこの薬師堂、来る度に戸が開いていたり、閉まっていたり、さらに半開きなんていうのもあって、戸の中から誰かに見られている感覚がいつもして、あまり単独では行きたいと思わない場所でもありました。

 遠野市指定の史跡でもあり、また全国のお城ファンにとっては、遠野では鍋倉城と共に外すことができない城跡でもありますから、ちょくちょくと観光客含み訪れる場所ではありますので、地元城館調査員としては、より詳しく知っていなければならない立場でもあり、気持ち悪いなんて言ってられない、懐には福泉寺の身代御札を偲ばせて毎回出かけております。(今日は忘れてしまった)

 
 しからば城跡の全容を掴んでいるのか・・・といえば実はまだ北東側の五万堂沢沿いは未踏でもあり、対岸の上の山集落から眺めていただけ、大き目の土塁が展開されている光景は目にはしておりましたが、本日の探訪で流石遠野郷領主の主館とうなる場面しばしば、横田城は他の遠野市内の城館ともまた違った味わいがある城館跡とあらためまして思ったところです。


北東側土塁群(一部)

 画像は北東側斜面の中程から下部にかけて配置されている土塁ですが、これがまた結構な数が配置されており、少し出た斜面複数を切岸し半島状にしてその間には縦堀を形成、さらに中には離島のように小山状に切岸してこれらをいくつか組み合わせたもの、すなわち沢方面から攻めあがる敵兵は横隊に広く散開しようと横隊に隊列を組んで攻めてこようと、必ずこの土塁に阻まれ、土塁と土塁の間の窪地を通らなければならない構造で、広く散開した兵もここで一塊となって縦列となる計算、土塁や半島状に配された城方によって集中攻撃を受ける設計とみました。






 3年前に八戸の藤九郎さん、八王子の深円さんと横田城背面の遺構を発見、その際に土橋や広めの空掘、そして半島状にせり出した防御施設と思わせる構造をみて、皆で横田城も捨てたもんじゃないと言い合ったこと以上に今回の探訪は良い発見をいたしました。

 よく設計施工された館、無論、どの館跡も考えなしに造られたものではないのですが、流石遠野領主、阿曾沼氏主城といったことがもの凄く感じられました。


横田城全景



 建保年間(鎌倉時代)に阿曽沼親綱(広綱二男)が遠野へ下向して築城と伝承されるも、鎌倉時代の築城とはどうしても考えられない構造でもあり、伝承は伝承としながらもここらで思い切って史実の本格的な考証、検証が必要ではないのかと思います。

 さらに阿曽沼歴代の遠野下向は何時頃か、広く伝えられる系図の真相は、宇夫方氏との関係は、阿曾沼氏はほんとに田瀬から遠野全域、大槌、釜石、山田豊間根まで含む広大な領域を治めていたのか、これらは今後、当ウエブサイト「遠野松崎じぇんご弐・遠野阿曾沼氏の頁」等で考察していきたいと思っております。


 それと興光寺館跡も探訪いたしましたが、こちらは後日エントリーといたします。

 興光寺跡中腹から遠野バイパスを望む
コメント (6)
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